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07 投獄

 冷えは骨の髄まで入り、曇った空は低く町を押さえていた。風が竹林を鳴らし、凍った土は履の底を硬く弾き返す。子らは薪を抱えて駆け、母は幼子を厚い布で包み込む。人の身じろぎまで鈍らせる寒さであったが、その冷えをいっそう深くしたのは、都から流れてくる不穏な噂である。


 「李膺りようが捕らえられた」

 「范滂はんぼうが廷尉の獄に下された」

 「清流の士こそ、最も早く名を挙げられる」


 市井の人々は声を潜め、互いに目を合わせることを避けた。秤の皿が打ち合う音、銭の擦れる音ばかりが際立ち、言葉はひどく少ない。


 宛の学舎もまた、重苦しい影に沈んでいた。かつては席を並べて肩を触れ合わせた友が、翌朝には姿を消している。父や兄が獄に下されたと聞けば、その家は一夜で空になった。書簡を持つ者は日に日に減り、師の声も沈みがちとなる。


 張機は書簡を開きながら、賑わった学び舎が、今は席の間へ冷えた風を通しているのを感じた。墨の匂いは同じでも、若者の息遣いは確かに薄い。学とは人の心を支えるものであるはずが、いまは不安を映す鏡に過ぎぬように思われる。講義が終わり、筆を置いたとき、宗資が張機の袖を軽く引いた。


 「外へ出よう。ここに座っていると胸が塞がる」


 二人が門を出ると、陰に立つ人影があった。何顒である。雪解けの泥に足をとられながらも、彼は動かずに立っていた。頬はこわばり、眼の奥にはただならぬ影が沈んでいる。


 「伯求」


 宗資が小声で呼んだ。何顒はすぐには答えず、やがて吐き出すように言った。


 「声を抑えろ。誰が耳を澄ましているか分からない」


 三人は人目を避けるように竹林の奥へと歩を進めた。枝は風に震え、細かな雪が舞い落ち、肩を薄く濡らす。木立に囲まれた静かな場所に着くと、何顒は深く息を吐き、言葉を絞り出した。


 「洛陽は血に濡れている。清流の士と呼ばれる者たちが次々に廷尉の獄に送られている。李膺も、范滂も。次は俺の番だ」


 宗資はたまらず声を荒げる。


 「馬鹿を言うな。先が見えているなら、口を閉ざしておくべきだ」


 何顒がゆるく首を振る。


 「もう言ってしまった。宦官の横暴を弾劾したのだ。言わなければ胸が裂ける。黙っていては士の名が泣く」


 宗資は拳を握りしめ、地を踏みつける。


 「だが命を捨ててまでか。生きてこそ道を続けられるのだろうが!」


 一瞬、何顒の視線が揺れた。枝先から雪がこぼれ、音もなく落ちる。


 「死は恐ろしい。だが沈黙のまま生きることは、もっと恐ろしい。志を折ってなお呼吸を続けるくらいなら、いっそここで尽きた方が清らかだ」


 張機は堪えきれず声を張った。


 「私はお前に生きて欲しい。声は生きてこそ人に届く。死んでしまえば、どれほど正しくても道は途絶える。お前の声は私が記す。だから、生き延びてくれ、伯求」


 その一言に、何顒の瞳がかすかに揺らぐ。烈しさの奥に、迷いと恐怖が滲んだ。だがやがて顔を上げ、苦く笑う。


 「二人の言葉は胸に響く。だが俺は歩む道をもう選んでしまった。声を呑むくらいなら、この身を賭す」


 宗資は歯を食いしばり、悔しさに声を震わせた。


 「頑な過ぎる。俺にはお前の真似は出来ない」


 何顒は二人を見やり、烈火のような眼差しで言う。


 「だからこそ覚えていてくれ。声は俺ひとりで終わらせない。頼む」


 その時、林の外から馬の蹄音が近づいてきた。雪を蹴って数騎が駆け抜け、人々が遠巻きにその行列を見送っている。洛陽から派遣された廷尉の役人であった。宗資が低く言った。


 「伯求を探しているらしい」


 三人の胸に冷えが走った。蹄の音は遠ざかったが、余韻はなお耳に残る。都の嵐は、すでに南陽の片隅へ手を伸ばしつつある。そう思わせるに十分であった。


 それから幾日か、町には張り詰めた噂が絶えなかった。


 「廷尉の役人が泊まっている」

 「名を挙げた士を一人ひとり探しているらしい」


 戸口を閉ざす家が増え、夜更けには風の音ばかりが通りを渡る。


 ある朝、ついにその時が来た。町の人々が息を潜める中、役人たちが何顒の家を囲んだ。


 「何伯求、廷尉の命により拘束する」


 役人の鋭い声が空を裂き、縄が差し出される。家人の泣き声が庭を覆った。張機は胸を灼かれるようにして群衆を押し分け、ただ一言、叫んだ。


 「伯求、生きろ!」


 その声は冬空を震わせ、雪の冷気を切り裂いた。誰もが息を止め、その叫びだけが町に響いた。縄を掛けられた何顒が振り返る。唇は固く結ばれていたが、その瞳は濁らず、澄んだ冬空のごとく凍てつく町を貫いた。


 「俺の声は、お前たちに託す」


 短い言葉であった。だが胸を灼き、人々の耳を離さない。


 そのまま彼は背を向け、役人に連れられて雪道を歩み去った。縄の擦れる音、雪を踏みしめる履の音だけが残り、町は凍りついたように沈黙する。群衆の誰もが声を出せず、押し殺した嗚咽が風に混じって消えた。


 何顒が連れ去られた後、町は重い沈黙に包まれた。井戸端の女たちは声を潜め、子どもさえも遊ぶ声をひそめる。誰もが目を伏せ、言葉を呑み込んだ。


 幾日かが過ぎた。夕刻、町は早々に戸を閉ざし、灯も抑えられた。雪明りだけが路地の角を薄く照らす。


 やがて、洛陽の報せは伝馬に乗って南陽にも届いた。


 「何伯求が廷尉の獄に下された」


 その声はあまりにも冷たく、短かった。何顒の姿を見た者はもういなかった。ある者は、既に処刑されたと囁き、またある者は、まだ獄に繋がれていると声を潜めた。真実は誰にも分からない。張機と宗資の胸に残ったのは、ただ一つ、竹林で交わしたあの烈しい言葉であった。宗資がつぶやく。


 「まったくあいつは。道理は人を助けるわけじゃない。声を上げれば命を削る世の中だと、分かりきっていたのに」


 張機は膝をつき、指先で雪を掴んだ。氷の欠片が掌に貼りつき、薄皮を奪う。痛みが、目を冴えさせた。あの時の背、あの時の眼、あの時の一言が、胸の奥で輪郭を増す。張機は首を横に振った。声は低く、しかし確かに響く。


 「いや。伯求の声は消えていない。私の胸にある。お前の胸にも残っている。例え世がどれほど乱れても」


 宗資は唇を噛み、目を閉じた。肩が小さく二度、三度と震え、それからふいに笑いが漏れる。笑いと言っても、あまりに苦く、あまりに短い音だった。


 「忘れるものか」


 二人は並んで立ち、遅い雪の降りしきる通りを歩く。家々の戸は固く閉ざされ、軒先からは氷柱が鈴のように垂れている。足裏に雪の鳴る音が続き、遠くの更鼓が、夜の節を淡く打った。


 その夜、張機は庭に出た。息を吐けば白が膨らみ、千々に砕けて消える。空は透きとおるように澄み渡り、星々は刃のように光っている。冷たさは骨へと降り、脈はその底で小さく、しかし頑として打った。


 胸のうちに、何顒の声があった。竹林の奥で聞いた言葉。縄を掛けられながら放たれた言葉。


 「俺の声は、お前たちに託す」


 張機は空に向かって目を閉じた。ゆっくりと吸い、ゆっくりと吐く。凍りつく世界の只中で、確かな温さが胸に灯るのを待つ。やがて言葉が、静かに形を持った。


 「道と術、どちらも欠かさない。見たものは全て、必ず覚える」


 風がひと筋、庭を渡った。竹の葉が擦れ、氷柱が澄んだ音を立てる。星は位置を変えず、しかし先程より近く見えた。静かな夜の底で、その誓いだけが確かに生きていた。



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