06 日常
朝まだき、空は透きとおるように高く、吐く息が白く溶けていった。丘は霜に覆われ、畑は硬く凍てつき、竹林の枝々は風に軋む。村の子らは薪を抱えて走り回り、戸口の陰では、家々の火の気を待つ赤子の声がかすかに起きた。人々は重ね着をして市へと急ぎ、年の暮れを乗り切る支度に追われている。
張機は、宗資と何顒に誘われ、郊外の林へ足を向けていた。学舎で交わす言葉だけでは息が詰まる。胸の奥に沈むものを、ひとまず野の冷えに任せたかった。枯れた枝の下を三人並んで歩く。地に散る落葉は霜で固まり、踏みしめると乾いた音を立てた。小川は細い流れとなり、薄氷がところどころに張って、陽の光を鋭く返している。
「寒いな」
宗資が肩を竦め、石を拾って川に投げ込む。輪が幾重にも広がり、やがて消えた。
「洛陽の清流も、今じゃ細い声しか残らん」
苦笑まじりの声が、水面の冷えに吸われる。
「輪は消えても、水は流れている」
何顒がすぐさま返す。
「声を絶やせば、道そのものがなくなる。輪を広げようとせねばならん」
宗資は鼻で笑った。
「命を投げ出してまで言うことか。生きてこそ意味があるだろう。牢に入って声を潰されたら、結局何も残らんだろうに」
「恥を抱えて生きるより、胸を張って死ぬ方がましだ」
何顒の瞳は空の色を映し、冷たく澄んで光る。張機は二人の顔を見比べ、胸の奥に重さを覚えた。火は人を照らすが、燃え尽きれば灰しか残らぬ。烈しさの美しさと危うさが、目の前で同じ炎となって揺れている。
三人は枯れ枝を拾って焚火を起こし、しばし暖を取った。宗資は口を尖らせてみせ、すぐに笑った。
「伯求はいつもそうだ。まっすぐで曲がらない。だから好きなんだがな。折れるのも早いんじゃないかと心配になる」
「折れるものか」
何顒は焚火の火に手をかざし、短く返す。張機は火のゆらぎを凝視した。友の烈しさもまた、果たして、どこまで燃やし切るのか。張機は答えを作らず、ただ胸にしまう。
やがて三人は立ち上がり、市へ向かった。宛の市は朝から活気にあふれていた。荷を負った驢馬の列がゆっくりと進み、旅商の呼び声が空気を縫って行き来する。ただ、人々の顔に刻まれる皺は深い。値の高騰や都から伝わる不穏な噂が、賑わいに影の色を添えていた。宗資は露店の前で立ち止まると、豆餅を手に取って笑う。
「見ろ、これ。値が倍だ。腹はさほど膨れぬのに、銭だけは軽くなる」
何顒は鼻を鳴らした。
「贅沢に食らうからだ。粟で十分だ」
「粟で育った仙人のようなことを言う」
宗資が笑って、張機に目をやる。
「なあ、仲景はどう思う」
張機は行列の先を見やった。年寄りが杖をつき、母は幼子の手を引き、若い男は肩で息をしている。買い物籠の底は軽く、目だけが重い。
「どちらも、必ず要る。粟も麦も人を支える糧だ。けれど、どう分けるかで争いが起きる。腹が空けば言葉は荒れ、心も曇る。学も術も同じだ。片方を欠けば、人は倒れる」
「ほら出た、仲景の理屈」
宗資は笑い、豆餅を一つ買って三つに割り、皆に分けた。
「理屈でも腹は膨れんが、考えがなきゃ腹も守れん。そうだろ」
何顒は真面目な顔でうなずき、低く言う。
「だが道が先だ。道理のない術は、刃と変わらん」
宗資は肩をすくめた。
「刃だって、使いようさ。飢えた腹に温い粥をやれるのは言葉じゃない、手の方だ」
張機は二人の声を聞きながら、露店の隅でしゃがみ込む少年に目を止めた。袖先が擦り切れ、鼻の頭が赤い。母が買い物を終えるのを待つ間、少年は石を二つ並べ、黙って遊んでいる。張機は豆餅の欠片を差し出し、少年がそれを母と分け合うのを見届けた。
「言葉と手、その両方があってこそ、人は支え合える」
張機の声は静かだが、腹の底から出た確かさがあった。
やがて買い物を終えた三人は市を離れた。道は凍り、馬の足音が乾いた響きを返す。遠くの空には煤煙が昇り、鍛冶場が鉄を打つ音が風に運ばれてきた。宗資は背伸びをしながら言う。
「今日も賑やかだったな。だが人の顔は明るくない。銭の重みってのは怖いもんだ」
何顒は黙して歩を進め、張機は道端に並ぶ裸木を見上げた。枝先に雀が群れ、冷気に押し返されるように鳴いている。
「俺たちの声も、あの雀みたいなものかもしれない」
宗資がつぶやいた。
「小さくても、群れれば響く」
張機が応じる。何顒は立ち止まり、言い切った。
「ならば沈黙は群れを壊す刃だ」
三人が言葉を交わしながら歩みを続けると、道の先に人だかりができていた。農夫が倒れ、額から血を流している。近くの荷車の軛にぶつけたのだろう。人々がざわめき、誰もどうすべきか分からずに立ち尽くしている。
その中を一人の老医が進み出た。伯祖である。伯祖は静かな動作で従者に布を持たせ、傷口を拭い、艾を乾かして砕いた粉を振りかけた。手際は確かで、声は落ち着いている。
「血を止めよ。恐れるな、息はある」
緊張がほどけ、ざわめきが静まった。張機は息を呑む。
「見事なものだな」
宗資は感嘆した。何顒は腕を組み、複雑な顔をする。
「だが、学の道を忘れてはならん」
伯祖はその声を聞いたのかどうか、何も言わずに処置を終えた。農夫がゆっくりと身を起こすと、家族が涙を流して礼を言う。その場を離れながら、宗資が声を上げた。
「見ただろう。言葉じゃ血は止まらん。あれがなけりゃ、あの農夫は死んでいた」
「だが、人を正すのは言葉だ」
何顒は譲らぬ。
「人は血を流してもなお、道を失えば滅ぶ」
「両方が要る」
張機は歩みを止め、はっきりと言った。
「道と術。どちらかだけでは人は救えぬ」
言い切ったあとの沈黙に、風の冷えが入り込む。何顒は張機を見、しばらく視線を逸らさずに言った。
「お前は思慮深く理も通る。だが、官には向かぬ考え方だ。それこそ、医の道の方が向いているのかもしれぬ」
何顒は深く息を吐く。
夕暮れが近づくころ、三人は村の外れの小屋に腰を下ろした。粗末な卓に麦餅と干し肉、薄い酒が並ぶ。宗資は餅をちぎり、何顒の皿に放った。
「堅い理屈も、これで噛めば柔らかくなる」
「余計な言葉も多い」
何顒は眉をひそめたが、口元には笑みが浮かんでいる。張機はそれを見て、胸の奥に温かいものを覚えた。三人が同じ火を囲めるだけで、この荒れた世の冷えが少し離れる。
「なあ、三人でこうしていると、天下の騒ぎも遠いな」
宗資が盃を掲げた。
「だが、遠くとも確かに迫っている」
何顒の声は静かだが、烈しさを含んでいる。
「俺は歩みを止めない。たとえ明日、獄に下ろうとも」
宗資は盃を傾け、苦笑した。
「だから心配だと言っているんだ」
張機は盃を手にし、声を重ねる。
「ならば私は覚えていよう。お前たちの声も、言葉も、全て」
その夜、張機は独り空を仰いだ。南の空には冴え冴えとした星々が瞬き、冷気が肌を刺す。友の言葉が耳に残る。烈しく真っ直ぐな声と、軽やかで人を和ませる声。そのどちらもが、自分の胸を支えていると感じた。都では清流の士が次々と廷尉の獄に下されている。南陽の静けさは、嵐の前の薄い間に過ぎなかった。張機は夜空に向かい、胸の内で言葉を刻む。
「道と術、どちらも欠かすまい。たとえ世が乱れようとも」
星は冴え冴えと光り、冷えた空を覆っていた。




