05 師弟
宛の城下へ通じる道には霜柱が並び、子どもらが踏みしめて乾いた音を楽しげに響かせた。だがその背後では、薪の値上がりを嘆く声、井戸端で凍った水を砕く音が交じり、人々の暮らしの痩せを語っている。南陽の冬は厳しい。冷えは骨の髄にまで沁み、昼の曇りさえ温みを持たぬ。
張家の邸にも冷気は容赦なく忍び込み、庭の石甕には薄氷が張り、軒先の竹が風に鳴った。奥の室では張靖が書簡に筆を走らせている。咳はたまに洩れるが、几帳面に筆を進める背には、家を支える責務の固さがあった。
「兄上、無理はなさらずに」
張機が声をかけると、張靖は穏やかな笑みを浮かべた。
「これくらい無理のうちに入らんさ。学は休めば逃げる。逃げた学は二度と戻ってはこない」
軽い言い方の奥に、崩せぬものが潜む。張機は唇を結び、黙って兄の背を見守った。学は人を正す力を持つ。だが学の道だけで、人の息は戻らぬ。その思いが胸に沈み、日に日に重さを増していった。
翌朝、張機は氷を割って顔を洗い、学舎へ向かった。頬を打つ風は鋭い。門をくぐれば、庭石に淡い光が射し、墨を磨る音が静かに響く。冷えた空気の中に墨の匂いがほどけた。堂は息ひとつで白く曇り、板間の冷えが足から這い上がる。若者たちは袖を重ねつつ背筋を正し、震える指で筆を走らせた。座席はまばらである。都では士人が捕らえられていると噂が広まり、親に止められて学を断つ者も少なくはなかった。その中にあっても師は書簡を掲げ、凛とした声を放った。
「仁は人を包み、義は人を立てる。だが節を失えば、礼も学も根を持たぬ」
言葉が落ちると、堂内は水を打ったように静まり返る。以前のように即座に声が返ることはない。誰もが慎重に言葉を選び、沈黙が却って余韻を深くした。
講義が終わると、宗資が低い声で張機に問う。
「洛陽では学者が次々に獄に送られているらしい。学で世を救うなんて、笑い話だ。お前はまだ信じているか」
宗資の瞳には憤りと諦めが入り混じっていた。張機は返す言葉を持てぬ。
「書ばかり抱えていても、人は救えぬ。俺にはもう分からん」
「宗資、言いすぎだ」
きっぱりとした声がかぶさった。祭祀の用で南陽に戻っていた何顒が、学舎の前に姿を見せたのである。背筋を正し、眼差しには揺るぎがなかった。
「正しき学こそが人を救う。世が乱れているからこそ、学を捨ててはならぬ。仲景、お前も迷うな。余計な道へ心を逸らさず、学を貫け」
何顒と宗資。理想と現実。二人の言葉は対照的である。張機はただ黙し、そのまま胸に沈めた。
門を出ると、風はさらに冷たく、耳の奥が痛むほどであった。張機は袖の中で指を握り、黙って歩を運ぶ。何顒の言は火のようにまっすぐで、宗資の言は泥のように重い。どちらも嘘ではないと知るから、胸が二つに割れる。自分の道が定まらぬことが、まず恥であった。
帰途には宛の市がある。大路には店が軒を連ね、秤の皿が打ち合い、銭が擦れ、鍛冶の槌が乾いた調子を刻む。麦芽を煮詰めた飴の甘い香り、皮を打つ土臭さ、香料の匂いが冷えた風に乗って漂った。南からは布と香料、北からは鉄と塩。驢馬の列が雪を蹴立て、旅商人の声が交差している。だが、喧噪の底には不安がある。
「また洛陽で名士が捕らえられたそうだ」
「清議を唱えた者が獄に送られている」
「徴発も強まっているとか」
声は抑えられながらも、噂は雪煙のように広がった。飴を欲しがる子は母に袖を引かれ、買ってもらえず泣き声を上げる。母は困りながらも、今は贅沢を言うなと叱り、銭袋を胸に抱きしめた。
やがて三人は、群衆が集まる一角に出くわした。農夫が蓆に横たわり、妻と幼子が必死に呼びかけている。張機の胸はざわついた。人混みを割って進み出たのは張伯祖であった。兄を診てくれたあの日と同じ麻の衣、落ち着き払った歩みで農夫に近づく。その姿を見た瞬間、張機の胸は強く打った。
伯祖は脈をとり、舌を見、胸に掌をあてた。
「冷えと飢えで気が塞がれている。息は細いが、まだ絶えてはおらぬ」
懐から小袋を取り出し、妻に渡す。
「麦と桂を煎じ、湯にして与えよ。熱すぎぬように」
妻は涙ながらに礼を述べ、人々の間から安堵の吐息がもれた。張機はその手の運びを凝視し、胸の奥に熱を覚えた。学舎の言葉が届かぬところへ、手が先に届く。
人々は輪をほどき、残り火のようなざわめきだけを残して散っていった。妻の手が小袋を握りしめるのを見て、張機は自分の掌を見下ろした。筆の胼胝はある。だがそれは、人の脈を聴くための固さではない。
その夜、張機は眠れなかった。張靖の咳、宗資の嘆き、何顒の理想、そして伯祖の静かな手。すべてが胸の底で絡まり、重たく渦を巻く。
翌日、張機は伯祖の庵を訪ねた。門前に立ち名を告げると、従者は訝しげに彼を見た。だが張機の眼差しに迷いがないのを見ると、やがて奥へと消えた。伯祖が現れ、その鋭い眼を張機に向ける。
「仲景か。何の用か」
張機は膝を折り、深く頭を下げた。
「伯祖先生。あの日、兄を診てくださった折から、私は心に誓っておりました。昨日また市でお姿を拝し、迷いを捨てることができました。どうか、私を弟子にお許しください」
伯祖はしばし黙したのち、低く言う。
「人を救うと口にするは易い。だが病は章句とは違う。救えぬ命に出会えば己の小ささに打ちひしがれる。それでもなお歩む覚悟があるか」
張機は額を土に擦りつけた。
「あります。折れても、なお拾い上げます。どうか私に道をお示しください」
伯祖の眼は細められ、やがて短くうなずく。
「よし。ならば、今日から見て学べ」
短いうなずきが胸を震わせた。言葉少なに始まった縁は、やがて一つの道を形作ってゆく。
その日から張機は、書の頁をめくる指の癖を抑えた。先に覚えるべきは字ではなく、息である。人の熱と寒、湿りと乾き。目の前の一つを見落とせば、理屈はたちまち空になる。それが伯祖の沈黙の教えであった。
数日ののち、張機は伯祖に従い農村の一軒を訪れた。茅葺きの屋根から氷柱が下がり、井戸は凍りつき、炊煙はかすかである。家の中には高熱にうなされる少年が横たわり、母が必死に布を額にあてていた。唇は乾き、呼吸は荒い。
「水ばかり求めるか」
「はい、先生」
伯祖は脈をとり、瞳を確かめ、呼吸を聞く。
「熱が裏にこもっている。承気湯を与えよ」
薬を与えると、少年の息はやや落ち着いた。母は泣き崩れ、何度も頭を下げる。張機は拳を握りしめた。胸にこみ上げるのは歓びではない。重い無力感であった。自分にはまだ何もできぬ。
帰途、伯祖は言った。
「仲景、恐れを忘れるな。ただし恐れに呑まれるな。救えぬ命に出会うたび心は削れる。だが、それを背負わぬ者に人を救うことはできぬ」
張機は深く頭を下げる。
「肝に銘じます」
夜、家に戻ると、張靖の咳が静かに響いていた。その音が張機の決意をさらに固める。
星空は凍えるほどに澄んでいた。北斗七星は鮮やかに並び、冷気を受けて煌めく。吐く息が空に昇り、星々に溶けてゆくように見えた。張機は空を仰ぎ、胸に誓う。
自らの眼と手で人を救う。学を超え、医の道を歩む。




