04 名医
宛の空は淡く曇り、冷えがまだ土の底に籠もっていた。丘には霜を逃れた麦が青を見せ、風に押されて細かく震えている。畦を渡る風は土を乾かしきらず、冷えと湿りとを交じり合わせた。道を行く旅の驢馬は、塩や鉄の匂いを曳きながら北へ南へと進む。城壁の上、更鼓台の影は昼の曇りに黒く沈み、鐘の音が遠く響いていた。
市に近づけば秤の皿が打ち合い、銭が擦れ、鍛冶の槌が乾いた音を返す。南からは絹と香料、北からは鉄器と塩。薬草を束ねる匂いまで混じり、商人の声が交差していた。荷を担ぐ肩の汗が冷え、土の路に刻む足跡はすぐ乱れて消える。
だが、張家の門は重く沈んでいた。張家の主である張靖の咳が長引いていることが、市の人々の口にのぼり始めている。門をくぐる者は声を落とし、目を伏せ、短い挨拶だけを残して去った。張家の母は堂に坐し、衣の袖を正して客を迎える。張機は帷の奥の戸口に腰をかけ、出入りする影を数えていた。普段であれば、数を拾えば心が落ち着く。だがこの日ばかりは逆で、衣擦れのかすかな音さえ胸をざらつかせた。庭の砂を踏む音が、ことのほか耳に残る。
昼を過ぎたころ、小さな輿が門前に止まった。灰の裾を曳いた年配の男が降りる。背は高くはないが、歩みは軽い。足音は土に沈むように消えていた。従者が薬箱を抱えて後に続く。門番が名を問えば、男はただ一言返す。
「張伯祖と申す」
その名が落ちると、家の空気が変わった。母は立ち上がり、敷板に膝を進めて深く礼をする。伯祖は一歩退き、手を挙げて制した。
「どうか顔をお上げください。病を診るのが先でございます」
声は穏やかでありながら、揺るがぬ芯があった。伯祖は母に案内され、そのまま寝所へと向かう。張機は後ろに従った。
寝台の脇には湯盆があり、蘇葉や青蒿の香が漂っていた。張靖は半身を起こし、胸の紐を緩めて息を整えている。頬は白く、唇には乾きの裂けが走っていた。枕元の椀には湯気が細く残り、小箸で摘まれた灯芯が丸く縮んでいる。
伯祖は言葉少なに張靖の手首に二指を載せた。押すでも揉むでもない。ただ置かれた指が流れを聴く。邸の空気はその一瞬、止まったかのようであった。母の息は浅くなり、張機は喉が乾くのを覚える。咳の音が来ないことが、かえって恐ろしい。呼吸の間に、わずかな乱れが見え隠れする。
やがて張靖が唇を湿らせ、声を落とした。
「昨夜、夜半の冷気に触れたせいでございましょう」
その細き声は胸の奥でかすかな響きを立てた。伯祖は眼を細め、ゆるやかに応じる。
「灯に寄り、胸を冷やす。熱は上に、寒は下に。二本の綱を逆に引けば、身は裂ける。裂けずとも、綻びはできよう」
従者が薬箱を開き、秤と薬材を並べた。桂枝、乾姜、甘草。乾いた色が紙の上に落ちる。伯祖は天秤の皿が水平に止まるのを待ち、包んで母に渡した。
「今宵、薄く煎じて三度。明けて軽く汗が滲めば良し。それでも咳が止まらねば、次の段を用いる」
母が深く礼をする。伯祖は首を振り、声を和らげた。
「礼は病が退いてから」
そして張靖に向き直る。
「あなたは書を愛す。愛するがゆえに灯に寄り、胸を乾かす。乾けば上は熱し、下は冷える。いまは病ではない。病に近づく歩を少し急いでいるだけだ」
張靖はうなずき、かすかに微笑んだ。
「未だ病にあらず、ということですか」
「そう。未病とは病の影である。影が伸びる刻は、太陽が低い。低ければ人は昼と信じ、油断する」
言葉は短く、深く落ちた。張機の胸にその一語が沈む。病の影。影の足を踏めば、本体の歩を止められるのか。張機は思いを言葉にせず、ただ息を詰めた。
伯祖は更に問う。
「近ごろ、倉の風通しは」
張靖は少し驚いて答えた。
「雨が続いた日、縄が湿りました」
「穀が湿れば、家の息も湿る。湿りは下から上に忍び、やがて胸に溜まる。穀は腹の分身。おろそかにすれば、人は腹から病む」
母が息を呑む。張機もまた打たれた。人を診ると同時に家を診る。張家の倉と張靖の胸とが一本の縄で結ばれたように思えた。
診が終わると、伯祖は張機を見た。
「あなたは弟君か」
「はい。張仲景と申します」
「目の動きがよい。耳より先に目が働くのは稀だ」
伯祖は微笑を含んで続ける。
「医は手より先に目と心に宿る。見ずして触れ、触れてなお疑い、疑ってなお待つ。そののちに薬を持つ。順を違えれば、薬は毒より恐ろしい」
伯祖は従者に紙片を持たせ、張機に渡した。そこにはただ一行のみ記されている。
『病は日々より起こり、日々に還すべし。』
張機は両手で受け取り、胸に収めた。その軽さに比べ、言葉は重い。紙の薄さが、かえって胸の奥へ沈む。言葉を反芻するうちに、庭の影は長く伸びていった。帳の外からは子どもらの声が遠くかすれ、戸を引く音が町筋に散った。
そのとき、門口に新たな声が届く。宗資である。履の土を払い、縁先から声をかけた。
「伯達、どうだ。少しは楽になったか」
張靖は枕にもたれ、咳を押し殺しながらも笑みを見せた。
「まあな。薬が効いたのだろう」
宗資は短くうなずき、そのまま張機の隣に腰を下ろす。
「張伯祖とやら、名医だと聞いたぞ」
張機は低く答えた。
「名より、手が静かだった」
「静かな手か。騒がしい世の中には、かえって向いているかもしれんな」
宗資は軽く笑みを浮かべ、それから張機の顔を覗きこむ。
「お前の目は、少し変わったな」
「そうだろうか」
「昨日まで石を見ていたのが、今日は土を見ている。そんな目だ」
宗資はしばし黙し、低く問いかける。
「仲景。お前はこれから、どこへ向かうつもりだ」
張機は答えず、袖にしまった紙片を思い出す。病は日々より起こり、日々に還すべし。口に出せば軽くなる。胸の内に留め、重さのまま抱えておく。宗資はそれを察したのか、わざと明るく笑った。
「まあいい。だが耳も使えよ。俺の愚にもつかぬ忠告だって、たまには役に立つかもしれんからな」
張機もかすかに口元を緩める。宗資はそれ以上何も言わず、庭先の影を見やった。やがて立ち上がり、また来ると残して門の方へと歩いていった。
友の影が暮れの道に溶けていくころ、宛の町には夜が落ちていた。更鼓が一つ、間を置いて二つ。遠い鍛冶の火は赤い点を残したまま沈み、軒先の灯は油を惜しんで細く揺れる。
張家の邸でも灯が落ち、帛が風に揺れて影をつくった。母は奥に下がり、張靖は寝所で静かな息を立てている。張機は倉前の戸へ行き、鍵束に触れた。冷たさに湿りが混じる。閂をわずかに開き、風を通した。縄が風を飲み、微かな音を鳴らす。その音は兄の浅い呼吸と重なり合い、胸に沈んだ。倉の奥の匂いが薄く動き、夜の空気が一筋入る。張機は戸を閉め、閂を確かめた。
空を仰げば、星が二つ、ほどよく離れて瞬いている。近すぎても遠すぎても光は正しく見えぬ。儒と医もそうであろう。間を忘れず、間を繋ぐ。その歩を、伯祖は示したのである。
張機は紙片を袖に押し当て、心の拍に合わせた。明日からの歩がどこに至るかは知らぬ。だが今日の一歩が、明日の影を短くすることだけは、もう確かであった。




