03 友誼
川風が土手の茅を伏せて渡る。陽は高く、宛の川面には早くも夕の金が混じり始めていた。浅瀬の石は光を帯び、流れの底へ影を沈めている。
「やっと来たな、仲景」
土手に二人の青年が腰をおろしていた。
ひとりは何顒、字を伯求。肩幅広く骨太の体つきで、頬にわずかに影を残しながらも、その眼は澄んで烈しい。洛陽の学舎に身を置き、名のある士人たちとも交わるほどの才気を持つ。言葉も行いもためらいがなく、時折故郷の南陽へ戻っては、都の気配を張機に語り聞かせる男である。
「お前は歩くのも筆の点画みたいに細かすぎる」
「筆は書き直せるが、足はそうはいかない」
張機は笑い、肩の荷を草におろした。
その荷を指先でつついたのは、もう一人の青年、宗資である。姿はしなやかで、眼差しには柔らかな光があった。声を荒げずに人をまとめる調子があり、幼いころから張機とは気心の知れた友である。
「お、荷物か。筆筒か。それとも書簡か」
「どちらでも腹は膨れない」
何顒は鼻で笑い、舟を押し出した。葦を分けて滑り出した舟は、川面の光を胸に受ける。三人は櫂を分け持ち、流れへ身を託した。水は重く、やさしく、肌に寄せてくる。岸の柳の影が舟べりに砕け、またつながってゆく。
「やっぱり川の上はいい」
宗資は空を仰いだ。
「町は声まで熱くてかなわん」
「声は熱い方がよい」
何顒は櫂を深く差す。
「冷めた声に、人はついてこない」
張機は舟首に身を乗り出し、水に指を触れた。流れの冷たさが骨に沁み、胸の奥の濁りを薄くしていく。
「聞いたか」
何顒の声が鋭い。
「都では士人が次々捕らえられている。名を名乗るだけで罪とされる世だ」
宗資は肩をすくめた。
「名に縛られて倒れるくらいなら、黙って息をすればいい」
「腹ばかり膨らませてどうする」
何顒は言い返す。
「息を続けるにも、物を言う胆がいる」
張機は水面に映る影を見た。三つの影はすくおうとすれば崩れ、離れてはまた重なった。
「おい仲景」
宗資が問う。
「舟の舵を取るなら、右か左か」
「流れに従って中ほどまで出て、そこでようやく曲がる」
「なるほど」
何顒がうなずく。
「胆がいる答えだ」
宗資は口元に笑みを寄せる。
「それに柔らかさもな」
舟は中州に鼻をつけ、砂の肩に乗り上げた。三人は飛び降り、濡れた砂に足跡を残す。遠くで牛の鈴が鳴り、葦の穂が夕映えに白く煙った。
「腹が鳴ったやつがいるな」
宗資が張機の荷を取る。
「俺だ」
何顒が胸を張る。
「声を張るには腹が要る」
荷の中には棗と麦餅があった。三人で分け合い、川水で手を洗って口にする。
「麦は正直だな」
何顒が噛みしめる。
「噛めば噛むほど甘い。人の言葉もそうありたいものだ」
宗資は草に身をあずけ、目を細めた。
「俺は甘すぎると言われる。丸く収めようとして角を落とし、あとで角が要ったと気づく」
「角のない牛は時に賢い」
張機が静かに言う。
「賢いだけでは動かぬ舟もある」
何顒は雲を睨んだ。上流から風が渡り、葦の穂が一斉に傾く。宗資が笑う。
「仲景の目は鳥みたいだ。遠くを先に掴む」
「近いものが見えなくなることもある」
張機は苦く笑った。
「じゃあ近いものは俺が見る」
宗資は空を指さす。
「雲の端に鯉の口、あそこは蓮の葉……ほら、仲景が笑った」
「笑ってなどいない」
「眉がほどけたら十分だ」
何顒は砂に指で線を引く。
「ここが今の俺たち」
もう一本。
「ここが望む先」
その間に斜めの線を足す。
「これが行き方だ」
宗資はその上に麦餅の欠片を置いた。
「この丸が人。道が人を運ぶことも、人が道を変えることもある」
「変えるなら今だ」
何顒は拳で砂を叩く。
「先へ延ばせば骨が折れる」
張機は二人を見て黙っていた。言葉は違えど、底で触れ合うものがある。強き流れと、ひろき淀み。舟にあれば、どちらも要る。
「詩をやれ、宗資」
何顒が言う。
「お前の柔らかい舌で固いものを動かせ」
「舌が硬くなる詩しかないぞ」
宗資は苦笑しつつ立ち上がり、影を頬に受けて声を放った。
「川は黙して万の声を運ぶ。我は笑いてひとつの声を掲ぐ。誰か聞くや葦の根のさざめきを。誰か見るや砂の上の足の跡を」
「よし」
何顒は短く言った。
「軽い。だが今はそれがいい」
宗資は肩をすくめ、張機に目を向ける。
「次はお前だ。石橋を渡る足音みたいな詩になるだろう」
「詩は不得手だ」
張機は首を振った。
「一句でいい。お前の一句は百句分の重さがある」
張機は浅瀬を見つめ、小さく息を吸う。
「ならば」
短く口にした。
「水は行け。われは覚えん」
何顒がわずかに目を見張り、宗資はふっと笑って空を仰ぐ。
「短いな。だが重い」
「覚える者は、行く者の背に手を置く」
何顒の声は低かった。
陽は傾き、影が長く伸びる。三人は舟へ戻り、草の匂いをまとって櫂を握った。上流から若者の笑い声が風に乗って届く。三人は顔を見合わせ、自然と櫂の動きがそろう。水は三筋の跡をひとつに重ね、川面をゆるやかに流れていった。
舟を降りると、川辺の草原は夕靄に包まれていた。草の先は金に染まり、遠い山並みは紫の影を帯びる。虫の声がちらほらと混じり、夜気が近づく。宗資が腰を下ろし、草をむしって投げた。
「今日の空は静かだな。都の騒ぎとは別の国みたいだ」
「静かな空ほど、裏で大きくうねっている」
何顒が応じる。
「風は見えずとも木を揺らす。人の争いもそうだ」
張機は二人のやり取りを聞きながら、しばし黙していた。やがて川面を見つめたまま問う。
「都は声を上げれば命を削ると聞く。……伯求、お前ならどうする。宗資、お前はどう思う」
何顒は迷わず答えた。
「義を語る士がいるかぎり、俺もその一人でありたい。命を惜しんで黙すより、声を立てて倒れる方がましだ」
宗資は少し笑みを浮かべ、首を振る。
「俺は逆だ。名や声より、生きて支えることを選ぶ。ここで人を守ることもまた義だと思う」
張機は二人の顔を見比べ、小さくうなずいた。
「どちらも違わぬ。声を掲げるも、命を守るも、同じ流れの中にある」
宗資が草をちぎり、川へ投げる。草は流れに乗り、闇に消えた。
「なら、約束しよう」
宗資が言う。
「俺たちは、道が違っても友でいる。生きている限りは笑い合い、もし誰かが倒れたら、残った者は忘れない」
「当たり前だ」
何顒が短く言った。その声には火のような強さがあった。張機もうなずく。
「言葉にして残そう。口に出せば、心に刻まれる」
宗資は荷の中から小さな盃を三つ取り出した。
「父が昔使っていたものだ。今夜はこいつで」
川水を汲み、三人は草の上に輪を作った。空には星が増え、川面には灯火のようにまたたいていた。何顒が盃を掲げる。
「俺は義に生きる。道を違えても、この思いは曲げない」
宗資が続く。
「俺は和を守る。人を支え、友を支え、命が尽きるまで」
張機も盃を掲げた。
「俺は覚える。二人の志も、この夜の言葉も、たとえ流れが千里先へ行こうとも」
三人は盃を合わせ、川水を一息に飲み干す。冷たさが胸を突き抜け、同じ鼓動となって響く。沈黙が訪れた。気まずさではない。心がひとつに結ばれたときにだけ生まれる沈黙であった。
「よし、これで十分だ」
宗資が笑う。
「血を分けずとも、気持ちは通った」
何顒の声が低く響き、張機は黙してうなずいた。
「川が証人だ。流れは俺たちの言葉を運び、星はそれを見届ける」
その夜、三人は遅くまで語り合った。詩を笑い、子どものころの悪戯を思い出し、先の夢を語る。流れは絶えず、星は瞬き続けた。
この宵の約束は、三人の胸に刻まれた。名や位よりも確かなものとして。




