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36 連綿

 白くなりはじめた鬢を撫でながら、張機は南陽の空を仰いだ。江南での務めを終え、昨年からこの地に身を落ち着けている。町には静けさが戻り、田には麦の穂が風にそよいでいた。遠い戦の報せはなお届くが、人々は耕し、織り、家を保ち、日々の営みを重ねている。荒れた年を知る者ほど、鍬の一打ち、機の一往復を怠らず、声を立てぬ暮らしの中に、己が生を守る工夫を積んでいた。


 道を行き交う荷車には穀が積まれ、轍は乾いた土に浅い筋を刻む。子らは土塀の影で追いかけっこをして笑い、庭先では女が糸を扱い、男は鋤の柄を担いで戻ってゆく。静かな暮らしの中に、長き乱世を生き延びた人々の息遣いがあった。張機はそれを眺め、世の騒ぎがどれほど高くなろうとも、民の命はこうして下から支えられるのだと、胸の奥で確かめた。


 丘のはずれでしばし立ちどまると、張機は墓前に黙礼し、庵へと歩を返した。土は固く締まり、草は短く刈られている。そこに眠る者の名を口に出さずとも、礼だけは欠かさぬと彼は己に言い聞かせてきた。今日もまた、筆と薬を携える。


 庵の内には、乾かした薬草の香と墨の匂いが淡く満ちていた。壁際の架には束ねた草根が並び、几の上には紙の書が重なっている。南陽の出の書生は書を繰り、理の綾を見つけるや、こらえきれぬように口を開きかけては、すぐに筆へと戻る癖をなおしつつあった。潁川の書生は黙々と筆を運び、文字の勢いは乱れず、写し終えればためらいがちに師の顔を仰ぐ。その眼に、少年の色はまだ微かに残る。二人とも、学を誇るより先に、まず人を救う手順を覚えねばならぬのだと、張機は折々に思った。


 張機は低く句を紡ぎ、二人はそれを追って紙を黒くした。声は小さく、筆は早い。書生たちは息を合わせ、誤りをただす時にも大げさな動きをせず、紙の端をそっと押さえ、墨を足し、字の間を揃える。そうした慎みが、理を汚さぬ道でもあった。


 『少陰病。脈微細。悪寒し、身踡かがむ。』


 筆の音は雨垂れのように途切れず、紙の白は幾巻にも積み重なっていく。巻が一つ埋まるたび、張機は端を指で撫で、字の欠けを確かめ、次の余白に移る。合間に訪ねてくる農人へは、葉を嗅ぎ、根をかじり、効と害を識って返す。言葉は短く、勧めは明快で、迷いを残さぬ。二人は所作ごと目に刻み、行の余白に短く書き足した。師の指が草の繊維を裂く音や、匂いを聞き分ける間の沈黙さえ、学ぶべきものに見えてくる。


 村の辻では、井戸端で子らが手を洗い、畑の畦道では老人が煎じ薬の分量を口にする声がした。紙に書かれた理は、読み手の胸に入り、口から口へ渡り、手の動きとなって再び書へ戻る。うろ覚えの言は誤りを生むが、書はそれをただす。そうして伝わることで、理は時を越え、生き続けるのだと、張機は静かに思った。世の権が移ろうとも、人の身をめぐる道理だけは、同じ重さで残る。


 季節がめぐるにつれ、張機の手は思うように動かなくなっていった。筆を執れば、かすかに震えが走り、墨の線が細く乱れる。ひと息置いても震えは止まらず、線が意に反して揺れる日が増えた。弟子のひとりが几の端からそっと紙を押さえ、もうひとりは筆を受け取って余白を整えた。助ける手つきは自然で、師の自尊を傷つけぬほどに静かである。


 脈をとる時もまた同じだった。かつては瞬きの間に察した気の巡りが、いまは指先に長く留まらねば捉えにくい。張機は微笑みながら、弟子に手を添えさせる。弟子の指はまだ硬く、押さえすぎ、あるいは離れすぎる。張機はそれを戒めず、ただ触れ方を示した。


 「見よ。ここに脈がある。細く、沈み、絶え入りそうにしている」


 弟子は緊張した面持ちでうなずき、指先に全神経を集中させた。張機は穏やかに言葉を継ぐ。


 「医もまた老いを免れぬ。ただ理だけが若さを保ち、百年を越えても衰えぬのだ」


 その声には衰えの影があったが、同時に揺るぎない確信も宿っていた。弟子たちは深く頭を垂れ、師の言葉を胸に刻む。張機はその背を見て、理を渡すとは、この姿勢を渡すことでもあると悟った。


 庵の外では、風に揺れる麦が青々と波を立てていた。命は移ろい、身は老いる。だが理は人から人へと渡り、川の流れのように絶えず続いていく。張機はそのことを、日ごとに強く感じていた。己の影が細くなるほど、理の流れはかえって確かになってゆく。


 張機の歩みは、次第に庭の敷石の上で途切れがちになった。かつては幾里の道をためらわず往診した足も、今では庵と畑とを往復するだけで息を整えねばならない。石の継ぎ目に足を取られぬよう、歩幅を小さくし、呼気を整え、次の一歩を置く。その一つ一つが、以前には想像もせぬほど重い。弟子たちは師を支えようと薬草を用意し、食を整えたが、張機は微笑んで受け流した。


 「案ずるな。老いは病ではない。ただ巡り合わせの理にすぎぬ」


 そう言いながらも、己の衰えを深く悟っていた。墨の匂いも、乾いた草の香りも、どこか遠のくように感じられる日が増えている。耳に入る筆の音は変わらぬのに、心の中で受け取る距離が、少しずつ伸びてゆく。


 季節はめぐり、南陽の丘には再び蝉の声が満ち、やがて稲穂が垂れる頃を迎えた。その移ろいの中で、張機は次第に筆を置く時間を長くし、庭先に腰を下ろすことが多くなっていった。遠くで人の足音がしても、もはや背を正して迎えることは少なく、弟子が代わりに応え、師はただ目でうなずく。無理をせず、しかし退くべきところで退くこともまた、理に近いと知っていた。


 ある日の昼下がりであった。陽はやわらかく差し込み、庭の薬草を淡く照らしている。弟子たちは刈り取った葉を干すために外に出ており、庵はひとときの静けさに包まれていた。干し架の影が地に落ち、風が葉をそっと揺らすだけで、他には何も動かぬ。


 張機は几から離れ、庭先に腰を下ろした。白くなった鬢を撫で、目を細めると、温かな光がまぶたの裏に広がる。やがて浅い微睡が訪れ、心は遠い日々へと溶けていった。


 胸の底から、かつて呼んだ名が、声にならぬまま浮かび上がる。


 伯求。私は声を残せただろうか。

 仲平。私は理を記せただろうか。

 先生。私は医を継げただろうか。

 母上、兄上。私は約を守れただろうか。


 そうした問いが微睡の底で連なり、なお答えを求めずに流れていく。


 問いかけのあいだに、これまでの歩みの情景が淡く現れては消えた。人を診た日々も、筆を走らせた夜も、すべてがひとすじの流れとなって胸をよぎる。いくつかの顔は名もなく、ただ眼差しだけが残り、風の匂いとともに去っていった。答えを待つでもなく、ただ自らに問いかけながら、張機の唇には静かな微笑が浮かぶ。


 その微笑みのまま、彼の呼吸は細くなり、やがて穏やかに途絶えた。



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