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35 継志

 赤壁の戦から幾月かが過ぎた。江南の町に漂っていた戦勝の喧噪も次第にやみ、広場に並ぶ焚火は、人を集めるよりも寒気を追うためのものとなっている。あの夜、兵たちが肩を組み、酒を酌み交わし、勝鬨を上げた光景は、もはや夢の名残のように遠く感じられた。酒盛りの歌声は途絶え、市では再び米や塩の相場が人々の関心を占め、商人たちは簿をめくり、農夫たちは麦の芽の伸びを気にかけている。


 張機は砦の一隅を借り、弟子二人と肩を並べていた。小さな几を三つ寄せただけの粗末な空間であったが、そこに置かれた書と紙の束は、戦勝の歓声に勝るほどの重みを張機には感じさせた。


 弟子のひとりは南陽の出で、書から易の句を引きながら、何事も早口で論じたがる癖がある。文言のつながりを見つけると我慢がきかず、すぐ声に出してしまう。夢中になると食事の時を過ぎても気づかず、腹を空かせたまま筆を走らせることもしばしばであった。


 もうひとりは潁川の出で、筆を持つとその運びは驚くほど整い、記す速さも正確さも人並みを超えている。ただ、言葉にするときはまだ少年のようにためらいがちで、師や仲間の顔をうかがう癖が抜けなかった。疲労で目を赤くしても、大丈夫ですと笑い、師に気取らせまいとする気遣いがある。


 二人は紙を前に向かい合い、張機の口から洩れる句を必死に追っていた。墨の匂いが満ちる中で、筆の音は雨のように途切れず続き、幾巻もの書が積み重なっていく。


 「先生。洛陽にいた頃、ある方がよくあなたのお話を聞かせて下さいました」


 南陽の書生がふと顔を上げ、早口のまま口をひらいた。張機が目を向けると、潁川の書生がためらいがちに続ける。


 「人の和を重んじ、誰よりも友を大切にされる方でした。その方が、あなたの理を学べと勧めてくださったのです」


 張機は彼らの姿を見守りながら、胸の奥にかすかな安堵と懐かしさとを覚えていた。理を継ぐ手が、ここにある。和を成す心が、ここにある。かつて孤独に筆を走らせた夜々とは、確かに違っている。


 弟子たちと過ごす日々は、静かでありながらも確かに流れていった。夜ごとに筆を執り、昼には紙を干し、巻を整える。墨の匂いと紙の白は、戦勝の余韻に浮かれていた江南の町とは別の時間を形づくっていた。時に南陽の書生が易の言葉を引いて議論を始め、潁川の書生が苦笑しながら筆を止める。張機は彼らを強く制するのではなく、時に耳を傾け、時に戒め、記録の一字一句を正した。


 「病の証は、天の運行のごとく不可思議なれど、地に根ざして観るべきものだ」


 そう語ると、弟子たちは静かにうなずき、また筆に戻った。


 外の世界はなお落ち着かぬ。砦を行き交う兵の声は日ごとに変わり、遠い北の戦況が断片的に伝わってきた。時に曹操が再び兵を起こすとの噂が立ち、時に孫権が江を固めたとの話が広がる。市では勝ち負けの言葉が飛び交い、人々はやがて次の米価や塩価へと話を移した。戦は遠く、明日の糧のほうが近い現実である。


 ある日の午後、長江を渡ってきた商人が吏舎を訪ね、土産話のように世の移ろいを語った。布の値が上がったこと、米が川下で不足していること、そして。


 「先生、聞かれましたか。呉に仕えておられた張子綱どのが、この春病に斃れられたと」


 予期せぬ同志の訃報に、張機はしばし黙した。南陽の書生は慌てて易を探り、古い句を引こうとしたが、声は出ない。潁川の書生は筆を握り直したが、墨の先がわずかに滲み、手の震えを隠しきれぬ。吏舎の灯火は揺れ、墨の香は変わらず漂っていたが、その日、筆は進まなかった。


 翌る日。張機は訃報を胸に沈め、再び筆を執る。文も命も有限であると己に言い聞かせるように、弟子たちの前で声を低く落とした。


 「理を残す。残さねばならぬ」


 弟子たちは顔を引き締め、師に続いて筆を執る。南陽の書生は、書の句を引き合いにしながら理を確かめようとした。


 「これは周易の言に通じます。陰極まれば陽に転ず、と。病もまたそのように」


 張機はうなずきながらも諭す。


 「易は例えにすぎぬ。病の証は、目に映り、耳に聞き、手に触れてこそ正しい。理は地に立て」


 潁川の書生は迷いなく筆を走らせ、紙の上に墨の線を刻んだ。


 「先生、この巻はどのように分ければよろしいでしょうか」

 「読む者が手に取りやすくあればよい。厚きを恐れる者には薄きを、長きを退ける者には短きを。理の枝葉は人の手で育つのだ」


 こうして日々、墨の匂いと筆の音が吏舎を満たした。書は山と積まれ、書は幾人もの手を経て広がりはじめる。


 だが、戦の火は遠くにあっても、乱の影はすぐそばにあった。江南の村々では時に賊が走り、橋が焼かれ、庫の穀が奪われた。写し終えた書を抱えて旅立った若者が、再び戻ることはなかった。別の書簡は川を渡る途上で舟とともに沈み、またある書は戦火に追われた町で灰に帰した。積み上げた労が、ひとつまたひとつと散っていく。南陽の書生は几に額をつけ、涙で墨跡を滲ませた。


 「先生。これでは、すべてが灰に帰してしまいます」


 潁川の書生は筆を折りそうな勢いで握りしめ、声を押し殺す。張機は彼らの肩に手を置き、静かに言った。


 「たとえ百巻が失われても、一巻が残ればよい。その一巻を手にする者があれば、再び百巻に広がる」


 弟子たちは顔を上げ、墨で黒ずんだ指を固く握る。師の言葉は悲嘆を越え、灯火のように胸に灯った。


 張機は夜ごと筆を執り続けた。かつて孤独に走らせた筆の音に、今は二つの筆の響きが重なっている。文も命も途絶えることは避けられぬ。だが理は紙の上を渡り、声となり、人から人へ伝わっていく。その確信が、張機の胸を支えていた。


 やがて年は移り、戦火の地図は日ごとに塗り替えられていった。江南の砦に集った人々も散じ、町に残る者もあれば、北へ、あるいはさらに南へと去る者もある。弟子たちと張機は、幾度も紙束を抱えては筆を走らせた。ある書は川を越えて武陵へ運ばれ、また一つは商人の荷に紛れて零陵へと渡った。だが多くは戦乱に呑まれ、行方も知れずに消える。


 ある日、南陽の書生が悔しげに紙を握り締めた。


 「先生、もしこれほど散逸するなら、筆を執る意味はあるのでしょうか」


 張機はしばし黙し、火に映える弟子の顔を見つめる。


 「意味は、ある。たとえ一人の胸に残るだけでも、理は死なぬ。人は死しても声を残す。その声を拾う者がいる限り、流れは絶えることはない」


 潁川の書生も深くうなずき、震える手で再び筆を取った。墨は淡く紙に染み、夜の冷気の中で灯火に揺れる。


 月日は速く過ぎ、張機のびんには白が交じった。それでも筆の勢いは衰えず、弟子の筆音が重なる夜は絶えることがない。遠い戦場から届くのは勝敗の報ばかりであったが、張機の耳に残るのは紙を渡す音、墨を磨る音、そして時折誰かが咳をしながらも筆を置かぬ気配である。


 人は滅び、書は散り、町は移ろう。それでも理は伝わる。その確信を胸に、張機は次の紙を開いた。


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