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34 赤壁

 冬の川霧の向こうから、勝利の報がしだいに広まった。赤壁において、曹操の大軍が退いたという。火計により舟は燃え、陣は炎に呑まれた。それが人々の最初の口ぶりであった。噂は川筋を駆け、宿へ入り、舟の上から市へ落ちる。言葉は軽くとも、胸に積もっていた恐れをほどくには十分であった。


 砦の市はたちまち喧騒に包まれた。市の広場には焚火が連なり、酒を手にした兵が肩を組んで歌い、商人は声を張り上げて米や塩を売りさばく。


 「曹操が退いた」

 「江南は守られた」


 その声は夜空を震わせ、子らは槍の形をした木の枝を振りかざして兵の真似をして走り回った。焚火の煙は冬の空に立ち昇り、湯気の立つ酒の香りと入り混じって人々の顔を赤く染める。負け知らずと信じられた北の大軍を退けたことで、江南の町は歓声に満ちていた。


 「これで米も守られる」

 「川は我らのものだ」


 女たちは声を弾ませ、男たちは拳を振り上げる。江南には大きな流行は起こらず、人々は病を恐れるよりも、明日の糧と勝利の余韻に心を奪われていた。笑い、歌い、湯を分け合い、杯を重ねる。人々はただ戦の勝利を祝っていた。


 ただ一人、張機の耳には、その喧騒の向こうに呻きが残っていた。歓声の合間に聞こえるのは、敗走してきた兵の荒い息、喉を詰まらせる咳である。祝う声が高まれば高まるほど、見えぬところで弱る者の息が遠くなる気がした。世の歓声の中で、胸に沈むものは軽くならず、むしろ重い孤独が募るばかりであった。


 矢よりも、火よりも先に、人を倒したものがある。


 張機は考えた。戦は人を倒す。だが病は、戦そのものを倒す。人は勝鬨を上げるが、その裏でどれほどの命が倒れたかを語る者はいない。ならば筆に記すには、己の眼で見、耳で聞き、手で確かめねばならぬ。そう思えば足が自然に市へ向かった。祝宴の火の輪の外れ、疲れた影の集まるところへと。


 市に入り込んだ敗残兵の中には、青州の兵の姿もある。符を胸に抱き、息絶え絶えに歩く彼らの姿は、かつて張機が北の陣で見た時と変わらぬものであった。あの折、張機は彼らに告げた。胸に符を抱くは勝手だ。だが腹には草を入れよ、と。


 だが今、張機の目に映るのは、符を離さず地に臥した兵の群れであった。声を揃えるどころか、呻きと息遣いばかりが夜営に満ちている。手にすがるのは草ではなく符、口に入るのは粥ではなく血の味。理はあれど、人は忘れる。人は弱り、安きに流れる。


 張機は膝を折り、ひとりの兵の額に手を当てた。灼けるような熱、乾いた唇、荒い呼吸。脈を測れば、浮いて早く、次の瞬間には弱々しく沈んでいる。傍らにいた兵卒へ、低く告げた。


 「水は湯にせよ。粥を薄く作り、口に含ませるのだ」


 兵卒は迷ったように張機を見返したが、やがてうなずき、その指示に従う。


 胸に痛切な思いが広がった。医は言を尽くしても、耳を閉ざす者の心までは開けぬ。かつての言葉も、曹操の発破も、いまや虚しく風に散った。それでも、目の前にある息を捨て置くことはできぬ。張機は次の影へ、また次の影へと歩を移す。


 やがて、敗軍の一部が捕らえられ、砦の南岸へと送られてきた。歩くこともおぼつかず、砦の内へ引き入れられると、その身に宿る病の相を余すところなく晒す。甲は破れ、髪は乱れ、顔は紅潮し、熱に浮かされた眼は焦点を失っていた。まともに歩くこともできず、兵に支えられて寝台に横たえられる。


 「三日、口に飯をせぬまま倒れた」

 「夜ごと汗に濡れ、名を呼びながら息が絶えた」

 「符を胸に押さえ続け、草を拒んだ」


 付き添いの兵や吏が断片的に語った。それらを張機は耳にとどめ、筆を執る。


 『熱は烈しく、汗は絶えず。腹は張り、口は食を拒む。赤き斑、肌に浮かぶ。声弱り、意識遠のく。』


 墨の線は淡々と並んだ。だがその一字一字の裏には、幾千の命の呻きが重なっている。医の記録はただ人を救うのみならず、歴史の行く末をも形づくる。そう思えば、筆先を止めてはならぬ。


 筆を置いたとき、張機は重い吐息を洩らした。記すことで救える命はあれど、記すだけでは終わらぬ。紙片を携え、屋舎に戻る。そこに待っていた張紘の顔は疲れを帯びていたが、眼の奥には確かな光が宿っていた。


 「仲景どの。敗軍の姿をご覧になったか」


 張機はうなずき、筆を掲げる。


 「熱に倒れ、飯を拒み、声を失った。符を抱いて離さぬまま、地に臥していた。これが兵を滅ぼしたものだ」


 張紘は深く息を吐いた。


 「火と風とが曹操を退けたと人は言う。だが、実を奪ったのは病であったか」


 張機は卓に紙を広げ、記したばかりの行を指でなぞる。


 「戦の火は人を殺す。だが病は、兵を、国を、そして戦そのものをも奪うのです」


 張紘はしばし黙し、やがて言葉を重ねた。


 「まことに。これを知る者が少ないゆえに、国は同じ過ちを繰り返す。だが、ここに記された行は、過ちを越える力を持つ」


 張機は首を横に振る。


 「記すはただの筆にすぎませぬ。だが読む者があれば、筆は人のいない地でも働けましょう」


 張紘は小さく笑みを浮かべた。


 「だからこそ広めねば。戦の勝敗は刻にして移ろう。だが理の行は、百年を経ても残る」


 外では兵の掛け声が響き、夜営の火が赤く燃える。戦の影は去った。だが張機の胸を最も重くしたのは、救えぬ命の多さである。幾巻を記したところで、読み手がなければ虚しい墨の痕にすぎぬ。孤独が闇のごとく胸を覆い、筆を取る手を鈍らせた。夜気の冷たさは心にまで及び、几の上の白さが広く見える。


 その静けさを破ったのは、戸口を叩く音であった。現れたのは二人の男である。年の頃は青年と壮年のはざま、旅塵にまみれてはいたが、眼差しは澄んでいた。衣の裾には道中の泥が乾いて白くひび割れ、手には筆と竹筒が固く握られていた。長い道のりを耐え抜いてきた確かな意志が、背筋の立て方に宿っている。


 「先生の理を学びたく、参りました」

 「書を写し、人に伝える役を担わせていただきたいのです」


 張機は驚き、しばし彼らを見つめた。名も知らぬ初対面の者である。だがその声には切実な熱があった。遠路を越えてきた疲れの奥で、なお燃える光が揺れている。張機は静かにうなずいた。


 「理は幹にすぎぬ。枝や葉は、そなたらが加えるがよい」


 二人は深く頭を垂れる。救えぬ命の影はなお胸を重くしたが、その影の底に、灯のように新たな力が芽生えつつあるのを張機は感じた。


 夜は深かったが、几上の紙には新しい筆の音が重なり始めていた。



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