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33 前夜

 新しい紙の白は、墨を受け入れるたびに、人々の命をつなぐ理となっていった。筆が触れれば黒が沁み、そこに記された筋が、見ぬ土地、見ぬ人の胸にも届くと張機は知る。筆を執り、張機はその余白に幹を記し、枝葉を人に託した。理の筋を幹とし、症の現れと治し方を枝葉として重ねれば、紙一枚がひとつの木となる。


 竹よりも軽く、川を渡りやすい紙の書は、市に置かれ、村に回り、舟に積まれて下流へと運ばれていった。荷の隙間に挟まれた書は、揺られながらも破れることなく、見知らぬ家々の戸口にたどり着く。書を開いた者は、兵に限らず、農夫も、母も、旅客もあった。


 ある母は、幼子の熱にうなされる姿を前に、書に従って湯をつくり、額を撫でて夜を越える。ある農夫は、畦に生える草を摘み取り、煎じて飲んで力を戻し、再び鍬を握る。ある兵は、符を胸に忍ばせながらも、粥を口にして声を取り戻す。旅客は市で巻を借り、草の名と使い方を写し、次の宿場で同じように語った。書にある言葉に、自ら見聞きしたことを添え、またその先の土地へと渡していく。


 その姿は一つ一つは小さい。だが積み重なれば、村の空気を変えた。咳をする声は減り、倒れていた者が再び立ち上がり、子らの笑い声が焚火の周りに戻る。家々の戸は早くに閉じられなくなり、夜も人の気配が絶えぬようになった。


 張機はそれらの光景を目にして、胸の奥にわずかな安堵を覚えた。理は人に伝わり、守られれば、病も退け得る。その確信を支える情景が、江南の地に少しずつ広がっていた。


 吏舎に戻ると、張紘が待っていた。眼差しは疲れを帯びていたが、その底には確かな光が宿っている。


 「仲景どの、江南の地は落ち着きを取り戻しつつあります。これもあなたの理ゆえ」


 張機は静かに首を振った。


 「いや、理を伝える者があってこそです。私ひとりの筆は、紙にもならず、声にもなりません」


 張紘はうなずき、柔らかく笑む。二人の間に、恩と報いの色はなく、ただ共に病を鎮めんとする志だけがあった。


 書き写された傷寒雑病論は市から町へと広がり、人々はそれを声にのせ、暮らしの中に息づいていく。張機は理が土地に根を張る様を見届けながら、なお胸の奥に影を抱いていた。


 やがて、渡し場に立ち寄った張機の耳に、重い噂が届く。


 「江北でも熱が広がり始めたらしい」

 「流民が倒れ、村々で咳が絶えぬとか」


 張機は立ち止まった。川風に混じって響くその言葉は、胸の奥に深い影を落とす。渡し場の杭に結ばれた舟が、きしりながら微かに揺れた。


 南陽には、祖先の墓がある。帰るたび、その前に膝を折り、静かに額を垂れた。許には、若き日の旧友がいる。酒を酌み交わし、学を論じた声はいまも耳に残る。長沙には、幾度も人を救い、病を鎮めた記憶があった。洪水の後の村で、粥を分け与えた光景はいまも鮮やかである。


 帰れば、確かに救える命がある。だが川を隔てて南と北を切り離すことはできぬ。病は川を伝って広がり、どちらかを捨てれば、やがて両方が滅ぶ。


 張機は拳を握った。一人の医の力には限りがある。理を書に託さねばならぬ。その思いはこれまでも胸にあった。だが今は、それが切実に、心を締めつけた。夜ごと灯の下で筆を執るが、墨は乾いてゆくばかりで、言葉は紙に落ちぬ。胸の内で思いは膨らみ、焦りだけが張機を追い立てた。


 間に合わぬのではないか。書き残すより早く、病は人を奪うのではないか。胸の奥にその思いを繰り返すほどに、筆を執る手が重くなった。


 そうした日々のうちに、江南の地は、日を追うごとに落ち着きを取り戻した。市には再び活気が戻り、農夫は畑に戻り、漁夫は舟を出す。咳き込む声は遠のき、焚火の周りに子が集まって遊ぶ姿も戻った。商人は米や塩に加え、紙や墨を並べ、声を張り上げる。文房の品が糧と同じように取引の場に並ぶのは、かつてなかった光景であった。書簡を手に取る者は、もはや官や書生に限らず、農夫もまた値を確かめていた。


 張紘は吏舎にて、遠くの市の喧噪を聞きながら言う。


 「理が地に根を張ったのです。これで江南はしばらく安らぎましょう」


 張機はうなずいたが、胸の奥には重い影が残っていた。江北の病は広がりつつある。そして病は、戦の火より速く川を渡る。既に江北との間では、斥候の衝突や小競り合いが始まっていた。川霧の下、舟を出して矢を射かける者、岸辺に火を放って退く者。そうした戦の端々に、敗れた兵の幾人かが流民とまじり、川を越えて江南へ逃れてくる。


 砦の門に現れた敗残兵は、鎧を損じ、衣は泥にまみれ、顔は紅潮していた。歩みはふらつき、支える者がなければ立つこともかなわぬ。張機が近づいて脈を測れば、浮いて早く、次の瞬間には弱く沈んだ。灼けるような熱、乾いた唇、荒い呼吸。ただの戦傷ではない。病がその身を蝕んでいる。


 「粥も受けつけず、口にしたものをすぐに吐き戻した」

 「熱に浮かされ息絶えた」


 付き添いの兵が語る断片は、病の相を余すところなく映していた。ある者は傷口が膿み、熱に浮かされてうわ言を繰り返す。若い兵はまだ頬に髯も生えそろわぬまま母を呼び、老いた兵は符を胸に押さえつけ、虚ろな眼で天を仰いでいた。符を胸に抱き、粥を拒み、呻いて地に臥す。敗残兵の荒い息と低い呻きは、やがて市に重い噂を呼んだ。


 「曹操の大軍に、熱病が広がっている」


 飯を受けつけず、腹を押さえて呻き、肌に赤き斑が浮かぶ。符を離さぬまま倒れる兵の影は、北から南へと伝わり、江南の空気を陰らせた。その報せは焚火の煙のように早く広がり、人々の口にのぼるごとに恐れを増していく。市の賑わいは続けども、心の奥底には冷たい影がしのび込んでいた。


 冬の夜、砦の上に烽火が燃えた。川を隔てて、北の岸にも赤い炎が応じる。鼓の音は風に乗って響き、兵の列は慌ただしく動いた。市では人々が戦の行方を口々に語る。


 「江南は守れるか」

 「曹操は退くか」


 焚火の周りで酒を回す声は熱を帯び、子らは木の枝を槍に見立てて走り回った。ひとりが転んで泣き声を上げると、母が駆け寄り抱き上げ、その傍らで父は酒をあおり、遠い炎を指さして笑う。商人は米を高値で売りつけ、老は往年の戦を語り、若者は勇ましい声を張り上げた。その喧噪は、まるで勝敗がすでに決まったかのように高まっていく。


 だが張機の耳に残ったのは、鬨の声ではない。敗残兵の荒い息と呻きである。戦は刻にして移ろう。だが病は声もなく人を奪い続ける。


 吏舎の一隅に戻り、張機は帛袋から紙を取り出し、筆を握った。火の赤が書に透き、墨の黒が余白に広がる。その一字一字は遠い岸に届かぬかもしれぬ。だが筆を止めるわけにはいかぬ。書に託すしかない。筆こそが、戦を越え、川を越え、人を救う唯一の道であった。思いは募り、筆を追い立てる。江南は理によって静まった。しかし北には、取りこぼした命の影を思い、救えぬまま倒れていく人々がある。南陽には祖先の墓があり、許には旧友があり、長沙には幾度も救った人々の記憶がある。そのすべてを思い浮かべながら、なお筆を止めることはできなかった。


 こうして江南の地に疫病は鎮まりつつあったが、張機の胸には安堵と焦燥とが入り混じっていた。救えぬ命を思い、なお北へと心を寄せながら、彼は筆を執り続ける。


 赤壁の戦は、まさに始まろうとしていた。


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