32 長江
長江は、大河であった。建安十三年の秋、張機は舟に乗り、その濁流に身を委ねていた。川幅は果てしなく、対岸は霞のように遠い。波は風に逆らって立ち、うねりは舟底を絶えず叩く。漁夫が棹を押すたび、舟はぎしりと軋み、飛沫が甲板を濡らした。
「先生、揺れが強うございます」
従う書吏が不安げに口を開いたが、張機は答えず、ただ流れの先を見据えている。水面には雲が映り、白く散っては消えた。ときおり鴎が鳴き声を上げ、羽を翻して川面をかすめていく。流民の舟がいくつも連なり、男は竿を握りしめ、女は子を抱き、老は蓆にくるまれて咳を洩らした。人々の顔には疲れが刻まれ、それでも渡らねばならぬという切迫が漂っている。張機は胸の奥で、静かに言葉を繰り返した。
多を救わんと欲せば、江を守るべし。
川の向こうに見えるのは、孫権の旗が翻る砦であった。その足もとには、なお人の暮らしが息づいている。網を打つ漁夫、土を耕す農夫。戦の影が迫りながらも、生活の炎は消えてはいなかった。張機は、戦と生との対比をひしと胸に刻む。
「この川を下れば、また新たな務めが始まる」
低く漏らした声は、波音に紛れて己にしか届かぬ。
舟は南岸の小さな渡りに着いた。杭に舟縄が巻かれ、濁った流れは途切れず音を立てている。河辺には砦があり、柵門には孫権の印を染めた旗がはためいていた。弓を負う兵が二人、近づいて名を質す。張機は名乗り、行き先を告げた。兵は互いに眼を交わし、やがて柵内へ案内する。
柵をくぐると、土の匂いと油の匂いが混じり合っていた。炊事の煙が低く漂い、槍の列が壁に立て掛けられている。城の奥深くへは通さず、手前の室に席を設けられた。
ほどなく、文を帯びた一人の男が入って来た。衣は素朴ながら襟は乱れず、眼差しは穏やかである。男は歩を速め、戸口で深く一礼した。
「張紘、字を子綱と申す。仲景殿、ようこそお渡りくださった。お迎えにあがるのが遅れ、面目ない」
物腰は静かで、言葉はよく通る。張紘は身を正し、まっすぐに願いを述べた。
「江南では、ここのところ、熱に伏す者が増えております。兵にも民にも、咳と倦怠が広がる由。うわさと笑い飛ばすには、重ねて耳にいたします。どうか、この地で医の理を広くお授け願いたい」
張機は微かにうなずく。眼の底には、すでに覚悟の色があった。
「江南に疾の兆しあり。道中、折々に同じ話を聞いた。もとより、そのつもりで江を下って来たのです」
張紘は顔を明るくし、さらに一礼する。
「ならば話は早い。拙は拙なりに、普及の道を開きましょう。砦の内外、人の手は揃えてみせます」
張紘は几の上の書に目を留めた。
「これが、仲景どのの記された書か」
張機は一巻の書を差し出した。表には、傷寒の二字がある。張紘は手に取り、しばし黙して目を走らせた。筆致は平明、言は端正。証に拠り、法を挙げ、方を記し、出入の理を欠かさぬ。やがて張紘は、文をそっと几に戻した。
「これは、ただの医書にあらず。乱の世に人が生き延びるための理である。筆を執る者の一人として、そう思いました」
張機は首を横に振る。
「医と筆とが合わされば、人のいないところでも理は働ける。ゆえに、書を残したいのです」
張紘は微笑んだ。
「まさに。だが残すだけでは足りない。伝わらねば、残したとは言えませぬ」
外では槍の鉄が触れ合う音がした。柵の外を行く舟の櫓が、一定の間を置いて水を叩いている。張紘は声をひそめた。
「仲景どの、書は巻々に分けられたい。一巻は短く、だが要を失わず。こうすれば、写す手は増える。人は厚い本を恐れるが、薄い巻ならば手に取る」
張機は札の束を指でなぞり、その重さを量るようにした。
「六経に分けたのは、広く知れるためでもあります。だが紙ならば、さらに軽く分けられる。川を渡るのも容易でしょう」
張紘は心得たとばかりにうなずく。
「理をお借りする代わりというわけではないが、紙もこちらで揃えましょう。蔡侯の紙は江南の地にも行き渡っております。文庫に頼めば筆写の巧者がいる。墨は濃く、字は大きく、百年消えぬように整えます」
張機は静かに言葉を継いだ。
「私は、この書を士林にのみ残したいのではないのです。病に苦しむ庶民にも行き渡らねば、本当に人を救ったことにはならぬ。肝要なのは、読む者がまた筆を執ることです」
張紘はうなずき、穏やかに笑った。
「まさに。人は自らの土地の草を知り、自らの舌の味を知る。仲景どのの理は幹であり、枝や葉は地ごとに繁るでしょう」
張機は目を上げた。
「江南は湿潤にして竹や木は早く黴びる。ゆえに紙は必ず重宝され、また麻や樹皮の繊維も豊かで、惜しまず集められる。ここならば、書を量産し、早く普及させることが出来ると確信しております。余白は広く取り、書き足せる余地を残しましょう。理は地ごとに枝葉を繁らせるものでありましょうから」
張機の胸に、確かな思いが宿る。医は一人で行けば一人を救い、十人で行けば十人を救う。だが書は千人に持たせれば、千の地で働く。張紘の眉が、わずかに動いた。
「仲景どののような方を、呉はこそばゆいほどに歓迎したい」
張紘はふたたび微笑む。
「書は江の北へも渡すことを前提としましょう」
張機は目を細めた。
「良いのですか」
「ええ。この地に留め置けば、病は川を越えられぬ。だが理は、川を越えねばならぬでしょう。戦が始まれば渡りは途絶える。始まる前に、少しでも渡す」
張機は几の上の巻を撫で、火の方を見た。外では火番の声がして、松明の橙が揺れ動く。風は湿り、夜の底に重い気が満ちていた。
「筆があれば、医は人のいないところでも働けよう。子綱どののお力、有り難くお借りします」
張紘は深くうなずく。
「明朝、文庫に口をききましょう。張長沙の理を通すための道は、江南の民も救うのですから」
紙の包みが夜のうちに運ばれ、筆と墨が几の端に並んだ。吏が二人、無言で墨を摺り、灯芯に火がともる。張機は巻の順を改め、断簡を束ね直し、要を抜き書きして見出しとした。
『太陽病・陽明病・少陽病・太陰病・少陰病・厥陰病』
六つの幹は、夜気の中に静かな骨を立てた。張紘は灯の向こうから眺め、ぽつりと言う。
「戦は、いつ始まると思われます」
張機は筆を置いた。
「病は、もう始まっている。戦は、病より遅れて来るでしょう」
遠く、柵門の外の方角に火が揺れる。烽とまではいかぬ。斥候の松明であろう。川向こうの暗がりには、別の色の火がちらと見えた気がした。
夜は墨の香と筆の音に満ちていたが、やがて東の雲が朱に染まり始めた。砦の外では鶏の声がし、城内では兵が槍を整え、炊煙が再び立ちのぼる。積まれた書簡は几の端に重なり、灯の油は尽きかけていた。張機は筆を置き、静かに息を吐く。新しい一日の始まりとともに、書を世に広める務めも動き出す。
翌日、城から張紘が小走りに戻って来た。袖の中には、印を押さぬ通行の札が二枚。
「文庫より筆写の吏を三名借りた。それと、紙二十束。墨は足りましょう。札は舟のためです。渡し場で詮議にならぬよう」
張機は礼を言い、紙の角を軽く叩いて整える。
「巻は、太陽より始めます。熱は上がり、汗は出、脈は浮く。見出しは短く、誤りの余地を少なく。読めば、すぐ煎じにかかれるように」
筆が走り、墨が乾く。張紘が受け、吏が写す。昼の光は短く、影は長い。一巻が仕上がるたび、紐で括って帛の袋に入れた。袋の口には小さく印を書き、渡すべき方角を記した。紙に走らせた字は乾かぬうちに風に鳴り、墨の黒が生々しく光った。
その手を止めた時、空にはすでに斜陽が差していた。光は川面に裂け目をつくり、影を深めながら西へ傾いていく。その中で、戦の兆しは静かに形を取り始めていた。砦の内では筆が走り続けていたが、外の空気は徐々に変わりつつあった。市に出入りする旅客の姿は増え、顔には疲れと焦りが刻まれている。張機の耳には、売買の声とともに、咳や呻きが混じるのがはっきりと届き始めていた。
午後、河畔の風が変わった。北から湿った気が差し込み、遠い岸で鼓が鳴る。渡し守が空を見上げ、頬を撫でて舌打ちした。
「この風は、良くない」
市の端で、旅の一隊が立ち止まった。一人が咳をこらえ、もう一人が水を求める。女は子の額に手を置き、首を振った。張機は足を止める。そして川風の向きを見、焚火の位置を見、声の調子を聞き、心に留めた。寝床を離し、火を下に。水は湯にして口を潤すだけに。張紘が柔らかく言葉を添える。
「この方は医である。理に従えば、夜を越せる」
会釈する旅客に、張機は処方を書いた紙片を渡した。
『風下を避け、火を遠ざけ、湯を少量。汗の出を待ち、脈の浮きを見よ。符に頼らず、草を用いよ。』
夕暮れ、川面が赤く染まる。斜めの光が水に裂け目をつくり、その上を黒い舟影が滑ってゆく。砦の上で烽が一つ、大きく燃えた。人々の声が波の音に混じって高くなり、兵の列が動く。遠い北の空に、もう一条、赤が上った。赤と赤が、川の上で向かい合う。張紘が息を飲み、静かに言った。
「戦の兆しが、近い」
張機は紙を束ね、帛袋を抱えた。書簡の角が腕に当たり、硬い感触が残る。その重みは命の重みであった。しかしその時、耳に入ったのは別の声だった。
「廬江で、また熱に倒れる者が出たそうな」
市の片隅で、誰かがそう口にする。別の者が応えた。
「兵だけではない。郷里の村でも、流民の間でも、急に寝込む者が続いていると聞いた」
言葉は風に乗って軽やかに広がる。だが張機の胸には、重い石のように沈んだ。戦乱が人を追い、行き交う群れが病を運び、やがて川風がそれを南へもたらす。それは幾度も繰り返された光景であった。
夕闇が迫ると、旅客の一人が咳をこらえきれずに膝をついた。子の顔を撫でる母の手が震え、老いた男は蓆の中でうわ言を洩らした。張機は立ち止まり、静かに言葉を紡ぐ。
「熱と湿、風と水が合わされば、病は戦より速く広がる」
張紘は険しい面持ちでうなずいた。
「戦よりも先に、これが人を奪うやもしれぬ」
張機は目を伏せ、胸の奥で思う。戦の火は遠くに見えても、病の影はすでに人々の足元に忍び寄っている。これを食い止めねばならぬ。
川を下る水が止まらぬように、病もまた人から人へと広がっていた。そしてその流れは、いずれ戦乱の奔流とも合わさる。劉表の死が荊州を揺らし、曹操の南下が現実のものとなるのも、遠いことではなかった。
その前夜にあって張機の耳に残ったのは、咳と呻き、そして子の泣き声であった。




