31 予兆
筆の音が、吏舎の静けさに細く流れていた。張機は几に札を並べ、症の軽重を一つ一つ記している。墨は乾くより早く次の行を待ち、積まれた札は山となって、視線の端でわずかに傾いて見えた。理は軽く伝わるべきものであるのに、器はあまりに重い。束ねを増やすほど、手から遠のく理がある。人の家の囲炉裏の脇に置くには重すぎ、庶の暮らしの風景からはみ出してしまう。火番が油を足し、灯芯が小さく明滅した。
張機は筆を止め、墨の匂いを胸に溜めてから、ゆるく息を吐く。胸の奥には、昼と夜の境目のような曖昧な焦りが静かに沈んでいた。戦の火は目に映るが、病は風のように姿を見せぬまま迫ってくる。器を軽くするほか理は遠くへ届かぬと知れど、手の中にあるのは、なお竹であった。記すたびに積もる書簡は、理を伝える器であると同時に、重荷のようにも思える。札を綴じ、巻いて袖に収めると、張機は立ち上がった。
庭口を押し開けると、外の気は思いのほかやわらかく、焚火の薄い煙が風に流れていった。吏舎の庇を抜けて広場へ向かう。気分を整えるには、人の息づく音の中に身を置くのがよい。人は人により温まると、日々の務めの中で知っていた。
広場では鍋の粥が煮え、泡が弾ける音が小気味よく続いている。列に並ぶ子らの頬は湯気で赤く、老人は両手を火にかざし、女は幼子を抱いて肩を寄せ合っていた。吏は碗の数を数え、兵は槍を脇に立てて、順番を崩させまいと目で合図を送る。主の旗は幾たびも替わったが、人の飢えと病は替わらず、これに応じる務めもまた替わらなかった。煙の向こうで人々の笑い声がかすかに重なり、わずかながら安堵の色が夜気に溶けている。張機は列の端に目を配り、歩みをゆるめた。
施療所で記した症の断片が、そのまま人の顔になってそこに立っている。乾いた咳を袖でおさえる男、目の下の色が薄い女、夜泣きに疲れた母の肩。書に写した記録よりも、そこにある息遣いのほうが、はるかに真に迫っている。
そのとき、群れを割って従者を伴う士人の一行が近づいてきた。衣の裾は塵をまといながらも襟は乱れず、指には墨の痕が残っている。痩せた骨の線に、澄んだ眼の光が宿っていた。その姿を見た瞬間、張機の胸に焼け跡の夜が蘇る。洛陽の臨時診療所、焚火を挟み、脈をみたあの青年である。若者は張機を認めると、驚きの色を一瞬浮かべ、やがて微かな笑みを含んだ。
「私は王粲、字を仲宣と申すものです。張長沙の噂は聞き及んでおりましたが、あなたのことだったとは」
名乗りは簡にして礼を失わぬ。張機は軽くうなずき、記憶と眼前の姿を重ねた。声の響き、歩みの調子。若い身で夜を惜しんで筆を執り、寒を抱え、食を疎かにしてきた徴が、脈の下に透けて見える。その無理が、声の明るさの奥にうっすらと影を落としているように思われた。
「洛陽の廃墟で出会って以来、久しくなる」
そして、少し間を置き、続ける。
「世は移り、人もまた流れるものだ」
王粲はうなずき、広場を見回した。
「この乱世にあっても、人は食し、病を癒すのですね」
「人の命は、政の移ろいよりも速く損なわれる。それを支える務めは、誰であれ変わらぬ」
王粲が短く笑う。
「筆を執る身にも、耳の痛い言葉です」
王粲はふと視線を遠くにやり、湯気の向こうを眺めながら言った。
「このごろ、江南で熱に倒れる者が増えていると耳にします。兵にも流民にも、川べりの舟の中で咳き込む声が多い。道を行き交う者の口は軽いが、同じ話を別々の町で聞きました」
張機は眉をひそめ、胸に冷たい予感を抱いた。噂は軽い塵のように響くが、その底には影があることを知っている。
「病は風と水に似て、境を選ばぬ。声が重なれば、兆しはすでに形を取り始めているのかもしれぬ。江南の湿は病を呼びやすい。もし実ならば、広がるのも早かろう」
王粲はうなずき、眉間に皺を寄せた。
「ただの噂であればよいのですが」
言葉が途切れ、短い沈黙が落ちる。焚火のはぜる音がやけに大きく響いた。人の気配に満ちた広場のただ中で、二人の間を流れる空気だけが、不意に孤独なものへと変わっている。張機はふと目を細めて王粲に言った。
「以前渡した処方を用いておられぬのか」
王粲は笑みを作って答える。
「いえ、服しております」
だが張機には、それが真ではないことが脈の底から見て取れた。責めるより先に、ただ静かに言葉を置く。
「命は理に従えば支えられる。才を惜しむ者は多い」
王粲は短く息をのみ、答えを返さずに目を伏せた。焔の明滅に、その横顔が淡く浮かぶ。
やがて王粲は黙したまま静かに頭を下げると、従者と護衛に囲まれて歩みを返した。旗や槍こそ掲げぬが、一行は乱れず進み、自然と人々の間に道が開ける。そしてその背は人波に紛れ、町の喧噪に溶けていく。
張機は胸の奥で静かに思った。
惜しい。
その惜しみは、ひとりの文士への情ではなく、才ある者が己の身を顧みず世に殉じてゆく姿への慨嘆である。張機はしばし広場に立ち尽くした。火に照らされた人の影が揺れ、ざわめきが夜気に溶けていく。だが、胸の奥には王粲の言葉が影のように残った。その重みを抱えたまま、彼は再び吏舎へ戻る。
『江南に、疾の兆あり。』
墨が乾くのを待つあいだ、胸の奥に冷たい予感が沈んだ。戦の火は遠くに見えても、病の影はすでに川の南に潜んでいる。墨跡を閉じても、胸の冷えは消えなかった。それでも、目の前の人々を支える務めは、日々変わらず続いてゆく。
それから、幾日かが過ぎた。長沙の施療所には変わらず人々が集い、粥施の列も乱れはしない。吏も兵も秩序を保ち、焚火の煙には安らぎすらある。張機は歩みの中で確かめた。この地はもはや、自らが支えねば立たぬほど脆くはない、と。
安堵がわずかに胸をよぎった矢先、遠方からの使いが門を叩いた。差し出された文は、見慣れぬ筆跡である。
『呉郡の張紘、字は子綱と申します。江南に身を寄せる一人として、この地の病の急を伝えたく筆を執りました。張長沙の御名はすでにかの地にも伝わっており、人々の口にのぼるのを私も幾度となく耳にいたしました。どうかその力をもって江南をお救いいただきたく存じます。』
筆跡は端正にして静かであったが、行間からは切迫がにじんでいた。張機は文を閉じ、しばし眼を伏せる。王粲の言葉、そしてこの文。江南に、やはり病の兆しがある。
長沙の町は、すでに自らの手を離れても立ちゆくほどに整っていた。救い得た命のぬくもりと、救えなかった声の余韻が、焚火の煙のように去りがたく漂う。だが、歩みを留めれば新たに失われる命がある。張機は油灯の下で筆を執り、韓玄に宛てて書を記した。
『施療、施粥は秩序を保ち、吏兵もよく勤めております。長沙は安んじて委ねられると見ました。私は次の地へ向かうことといたします。』
墨が乾くと同時に、張機は書簡を巻く。灯火の明滅に照らされる眼差しは、確かに南を見据えていた。




