29 役割
初夏の雨は長く続き、田には水が満ち、苗の青は日ごとに濃くなりつつあった。南の街道を渡るのは砂塵ではなく、湿りを帯びた風である。その中を、数十の従吏と兵を伴った行列が進んでいた。先頭に立つのは、劉表の命を受け、正式に長沙の太守として遣わされた韓玄である。
韓玄は壮年の盛りにあり、その眼差しには慎重な光が宿っていた。衣は整えられているが華美ではなく、声を張るよりも抑えて語り、歩みもまた着実である。地方を預かる官としての落ち着きが、その姿ににじんでいた。
城下に入ると、広場にはすでに民が集まっていた。雨上がりの土の匂いへ、粥を煮る釜の湯気が折り重なる。その中で、彼らの口からは自然と張長沙の名が洩れた。韓玄はその響きを耳にして歩みを止めた。事前に劉牧から聞き及んではいたものの、目の前で民が自然にその名を口にする様子は、想像を超えている。
張機は民の前に出て、韓玄を迎えた。衣は質素で、手には墨と薬草の色が混じっている。深く頭を下げ、簡潔に告げた。
「私は医として務めを支えてきただけ。この政を、しかるべき方にお返しいたします」
韓玄もまた一歩進み、恭しく答える。
「あなたの務めを聞き及んでおります。ここに至るまでを繋いで下さったこと、劉牧に代わり感謝申し上げる」
儀礼の挨拶は短く済んだ。広場の営みは途切れず、民は粥を求めて列をなし、女衆は碗を洗い、火は鳴り続ける。
韓玄は着任の儀を終えると、まず広場を歩いて見て回った。列は乱れず、古参の兵が声を荒げずとも秩序が保たれている。女衆は絶え間なく粥をすくい、子らは碗を抱えて順に受け取る。若い吏は几に向かい、名と病状を簿に記していた。人々は粥を口にしながら互いに声を掛け合い、張長沙の名を称えている。その呼び名は、暮らしの中に深く沁みこんでいた。
さらに奥へ進むと、囁きと湯気が遠のき、代わって薬草の匂いが濃くなる。施療所に足を運ぶと、札が高く積まれていた。張機は淡々と脈を診ては言葉を簡潔に記し、吏が横で書き写している。几の上には、汗有るとき、汗なきときと区分けされた巻が並んでいた。
「これらは、民の病を記したものか」
韓玄が問うと、吏が答える。
「はい。先生は見たことを漏らさず記しておられます。忘れれば、命がまた絶えると」
夜、張機と韓玄は灯を隔てて対座した。外ではまだ雨の滴が軒を打っている。韓玄は静かに切り出した。
「今日、一日でよく分かりました。あなたの名が、この地を支えている」
張機は首を振り、声を低くする。
「私は名を欲しておりません。ただ息を支えるためにここにあるのです。政は政の務め。橋渡しが果たされたなら、それで十分」
韓玄はしばらく沈黙し、やがてうなずいた。
「これより先、政は私が担いましょう。あなたは医として、この地を守り続けてください」
張機は深く頭を下げて答えぬ。夜の雨は細り、庇を打つ音が遠のいていく。
翌朝も広場は粥の湯気に包まれていた。だが政の務めは粥とは異なり、細かな出納や蔵の管理にまで及ぶ。韓玄は着任して間もなく記録に目を通し、兵や吏に倉を改めさせた。
数日が過ぎた。雨はときに細り、ときに叩きつける。土を吸った倉の土壁は暗く沈み、苔むした扉は湿り気を帯びて重い。倉の口には樫の杭が打ち込まれ、縄が渡され、封泥の印が固く光っていた。交代の夜警は二刻ごとに巡り、革の履が敷石を擦る音だけが夜を刻む。その夕暮れ、若い吏が簿を抱えて駆け込んできた。
「米の数が合いませぬ」
息を乱した声に詰所の兵がざわめく。灯火が高く掲げられ、民の影が雨雲の下で揺れた。韓玄は即座に立ち上がり、詰問ではなく確認の言葉を選ぶ。
「最初の記しを持て。封を改める。印は変わらぬか」
倉の扉が軋み、縄が解かれた。封泥は崩れず、印は乱れていない。袋の口はきちんと縛られ、鼠の齧った跡もない。そこから先は、数の仕事であった。
灯を増やし、米袋は一列ずつ引き出された。兵と吏が互いに読み上げ、書簡の数と袋の数を併せる。声が重なっては離れ、また重なった。湿った朝袋の匂いが倉に籠り、誰も咳をしようともしない。やがて若い吏が膝をついた。
「初めの書きつけが一束、重なっておりました。誤りは我が手の不始末にございます」
顔色は青く、紙よりも白い。韓玄はざわめきを手で制す。
「叱る前に正す。倉は民の命を繋ぐ蔵だ。数字の一は器の欠けと同じ、見落とせば底からこぼれる。以後、出納は二人で読め。片方が読み、片方が指で数え、最後に見合わせて印を押せ」
声は低く、しかし誰の耳にも届く固さがあった。その場に居合わせた張機が一歩進み、言葉を添える。
「米も塩も、粥と同じだ。量が軽ければ病を持ち、重すぎれば別の病を呼ぶ。筆は迷うゆえ、二つの眼で確かめるのがよい」
韓玄は静かにうなずいた。
「医も政も、数と記に立つ。ここではその道理を守ろう」
兵の肩から余分な緊張が抜け、灯火の炎は揺れを細める。外では雨脚が和らぎ、倉の庇を打つ音が細かく続いた。誤りは盗みではなく、未熟な手元の重なりである。
その夜、韓玄は倉の鍵を自ら受けた。封を施す手は遅く、しかし確かであった。鍵の冷たさが掌に残り、務めの重さもまた胸に残る。
倉庫の一件は小さな誤りで終わった。だが翌日から、出納の簿は二人で記され、読み手と指し手は日ごとに交替した。夜警の歩みは一刻ごとに鼓で告げられ、合図の火は風に伏しても絶えなかった。
韓玄は吏舎の几に積まれた簿を一つひとつ開いた。租税の細目、橋の修繕、病家の扶助、粥釜の薪の量、井戸の水位。筆は急がず、墨は濃すぎず、判は軽くも重くもなく打たれる。
張機は施療所に身を置き、朝の粥と共に人々の息を支え続けた。吏や兵は次第に、政の裁可は韓玄に、病と粥は張機にと、自然に足の向く先を分けていく。民もまた、広場で名を口にするときは張長沙と呼び、吏舎の戸口で名を呼ぶときは太守と呼んだ。呼び名は務めの所在を映し、誰の胸にも違和はなかった。
ある夜、韓玄は灯下で筆を置き、施療所を訪ねた。戸口から温い薬草の匂いが流れ出し、張機は札を束ねていた。
「倉の件の後、よく分かりました。あなたが治を支えてきたことは、まことに大きい。だが、医の務めは医の務め、政の務めは政の務め。二つを分け、互いに支え合うべき時です」
張機は静かにうなずく。
「その通りです。私は名を求めません。ただ息を守るのみ。政をあなたが担われるなら、私は医に専心できます」
韓玄は少し息を置いて続けた。
「張長沙という呼び名は、もう民の口から消すことはできぬでしょう。それはあなたがこの地で息を繋いだ証だ。私はこの地を劉牧に代わって治める。あなたはあなたの道を歩まれよ」
張機は答えず、束ねた札を掌でならした。木の肌が乾いた音を立て、灯の火がわずかに揺れる。沈黙は同意であり、また承認であった。
翌朝、広場の釜にはいつもの湯気が立ちのぼり、吏舎の窓には新しい札が差し入れられた。粥の火と政の灯は別々に燃え、しかし同じ風に揺れる。子らは碗を抱えて列に並び、吏は判を整え、兵は槍を立てて通りを見守った。呼び名は二つ、柱は二本。いずれも地に根を持ち、互いを傾けぬ。
やがて長江の下流に戦雲が近づく日が訪れようとも、その前夜において、長沙には確かな備えがあった。ひとつは人の身をあたためる粥の釜、ひとつは人の日を支える政の秤。名は声に、道は筆に、息は明日に。二つの務めは、しばし安定の上に並び立った。




