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02 兄弟

 学舎の門をくぐれば、朝の光は庭石に白く射し、竹簡の匂いが風に混じって漂った。塗り直したばかりの門扉はまだ薄く松脂の香を残し、戸口の閾石しきみいしには、幾代もの靴底が刻んだ浅い溝が一本すっと走っている。門番の老人は顔を上げ、張機を見ると顎をわずかに引いた。張機も軽く会釈し、土間から敷き並べの石段へ足を移した。


 堂の内では、筆の音が絶え間なく、墨を磨る低い擦過の音が幾筋も重なっていた。竹簡は明るいところでは淡く黄を帯び、陰では煤のように渋く沈む。簡を束ねる皮紐が擦れ、席に座する若者の衣の麻目が朝の光で細かく浮き立っている。講台の上には水盂が一つ、青磁の肌に薄い水の輪が涼やかに光った。


 洛陽の噂は、ここ南陽にも届いている。宦官と清流の士が争い、捕えられた名士の名が囁かれ、井戸端では女たちが声を潜め、酒肆しゅしでは男たちが眉をひそめる。だがこの堂の中では、世の騒めきは外におかれていた。ここではただ、師の声こそが律であった。


 張機は列の端に座し、竹簡を膝に載せて師の言葉を待った。机板の一角は、先達が指でなぞったのだろう、木目が艶を帯びて滑らかだ。


 師は竹簡を掲げ、声を放つ。


 「仁は人を包む。義は人を立つ。節は己を繋ぐ。節を失えば、礼も学も根を持たぬ」


 言葉が止む。堂の空気がすこし沈む。その沈黙こそが、かえって言葉の余韻を深くする。張機は筆を走らせつつ、耳だけでなく目で、そして鼻で、場を覚えようとした。

 師が一人を指す。


 「義とは何だ」


 立った生徒はまっすぐ前を見て、張りのある声で答えた。


 「身を律し、国を守ることでございます」


 師は首をゆるやかに振った。


 「遠きを語るは易し。だが隣を助くるを忘れては、義とはならぬ」


 張機は竹簡の余白に小さく一語を書き添え、心の内で繰り返した。


 講義が終わると、井戸の滑車がきしみ、桶が水を吐いた。若者たちは列を崩し、袖口を濡らして喉を潤す。庭の風は梅の香を運び、鳥が軒に舞い降りて鳴いた。


 張機は学舎をあとにした。門を出ると、兄の張靖が待っていた。


 「今日の学はどうだった」

 「師の言葉に重みがありました。沈黙に、言葉以上のものを感じました」

 「お前は何でも拾いすぎる。考え込みすぎれば歩も止まるぞ」


 兄は軽く笑い、弟の背を叩いた。


 「母上に油と布を頼まれていてな。市へ寄って帰ろう」


 張機は頷き、二人は並んで歩みを進めた。


 宛の市は人で溢れていた。秤の皿が打ち合い、銭が擦れ、鍛冶の槌音が遠くの路地から律動を刻む。煮飴の甘い匂いは人を引き寄せ、革を打つ土臭さは鼻の奥に居座る。香辛料の強い香が気道を刺し、しばし目が潤む。


 布屋では南の絹が光り、北の麻がざらりと並んでいた。張靖は麻布を手に取り、掌で撫でる。


 「これで十分だな。母上は実を重んじる方だ」


 布を包んでもらうあいだ、張機は往来を眺めた。行き交う荷車は遅く、人々は肩をすり合わせて進む。道の両脇では、薬草を広げる老人、焼き栗を売る少年が声を張り上げ、香が人波の中に漂った。その先に、大きな壺を並べた油屋が見える。


 張靖は布包みを受け取ると、「次は油だ」と言い、弟と共にそちらへ歩を移した。


 油屋の店頭には胡麻油の壺がずらりと並び、光を含んで鈍く照っていた。主人は胸を張って声を張り上げた。


 「今年は胡麻の実りが乏しくてな、油は貴重だぞ」


 張靖は眉を動かさず、値を切り返す。しばし睨み合いが続き、やがて主人は舌打ちして油を量り売りした。


 家に戻れば、母が奥から出迎えた。まだ喪の白をまといながらも、その眼差しはやわらかい。


 「おかえりなさい。今日も顔色が明るくて安心しました」


 母は麦餅を差し出し、兄に目を向ける。


 「その咳は」

 「大したことはありませんよ。昨夜、灯に近づきすぎただけです」

 「灯はほどほどに。身体を使うのもまた学です」


 台所では石臼が回り、端女が麦を挽いていた。粉が空気に舞い、日の筋に細い塵の柱を立てた。母はその様子を見ながら言った。


 「人の身も、麦や粟のようなものです。挽かれてこそ、糧となる」


 その夜、帳房に灯がともり、張靖は筆を執って帳面を記していた。張機は横で墨を磨りながら兄の手元を見ていた。


 「仲景、お前はよく覚えるな」

 「はい。見たことは忘れません」

 「だが覚えるだけでは荷が重い。どう使うかを選ばねばならん」


 張靖は筆を置き、灯火に目をやった。


 「人に渡すか、自分で動くか。それを決めねば、玉もただの石だ」


 張機は問いを返す。


 「兄上は、玉を石にしたことがありますか」

 「あるとも。十を積んで九を落としても、一つが人を救うなら、それで十分だ」


 兄は軽く笑った。


 「忘れぬことは強みだ。だが重ね過ぎれば人は潰れる。選ぶことを学べ」


 外から夜番の足音が響き、犬が吠えてすぐに黙った。雨の気配が近づき、張靖は筆を置いた。


 「蔵を見て回ろう」


 蔵の扉を開けると、湿り気を帯びた空気が押し寄せた。麦の袋や油の壺が並び、縄は湿って冷たかった。張靖は縄を指でなぞり、空気の通りを確かめる。


 「湿りは病を呼ぶ。穀も人も同じだ。空気を澱ませれば病が忍び込む」


 張機は麦袋の隙間に手をかざし、風の流れを感じた。

 張靖は弟に向き直り、静かに言った。


 「ひとつ約束をしよう。俺は家を守る。帳も蔵も任せろ。お前は見たものを忘れるな」

 「覚えるだけでよいのですか」

 「そうだ。まずは覚えろ。それがいつか糧になる」

 「約束いたします」


 張機は深く頷いた。


 庭に雨が細く落ちてきた。灯の光に照らされ、二人の影は寄り添い、揺らぎ合って地に映った。


 翌朝、庭に白布が揺れた。母が布を干しながら声をかける。


 「仲景、よく眠れましたか」

 「はい」

 「安心しました。覚えるばかりでは疲れます。温いものを口にしなさい」


 学舎では、師が講の終わりに言葉を残した。


 「足元の石を見よ。遠くばかりを見れば、つまずく」


 帰り道、張靖が笑んで言った。


 「仲景、約束は忘れるなよ」

 「忘れません」

 「俺は家を守る。お前は覚える。それでよい」


 張機は頷き、胸に小さな温かさを覚えた。


 その夜もまた、二人の影は灯に揺れ、壁に映っては消えた。約束は言葉にとどまらず、兄弟の暮らしそのものに溶け込んでいった。


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