28 太守
朝まだきの長沙は、白くけぶる湯気に包まれていた。城の外れに設けられた施療の場では、夜半の火を絶やさず守った大釜が、ことことと音を立てている。米と芋を煮くずした粥の匂いが立ちのぼり、列をなす人々の肩を撫でて流れていった。
列は乱れていない。かつては鍋に群がり、先を争って掴み合う姿もあったが、いまは順序があった。古参の兵が立って列を眺め、声を荒げずとも人々は歩を進める。子を抱く女衆には周りが道を譲り、碗を持つ幼子には老人が手を添えてやる。若い吏が台に向かい、名と病状を筆に記す。札の上を筆がすべり、それが診療と秩序の証となった。女衆は碗を洗い、湯を足し、次に並ぶ者へと粥をすくい分ける。碗を受けた幼子は、熱い粥に息を吹きかけながら母の袖を引いた。母は、順を守れば必ず得られると囁き、列の後ろにも静かな安堵が広がっていく。
「次。名は?」
「周氏の子です。昨日は熱がありましたが……」
「顔色が違うな。粥を受けさせよ。ただし、今宵も汗が続くなら知らせに来い」
張機は脈に触れ、舌の色を見て短く告げた。言葉は飾らず手際は淡々としていたが、その淡々が人の胸の騒ぎを鎮め、周囲の眼差しには安堵が滲む。人々の間にはわずかな落ち着きが戻りつつあったが、飢えと不安は根強く残っていた。列に並ぶ者の目にはなお鋭さと焦燥が宿り、張機の前に立つ者は誰もが生き延びるための切迫を抱えている。その緊張は、ある出来事で露わになった。
午前の列が伸びるころ、一人の流民が肩を押し込み、先を争おうとした。古参兵が立ちふさがる。
「待て。順を守れ。先を争えば、弱い者が死ぬ」
兵は手荒に掴まず、ただ声を低くして諭した。流民は荒んだ目をしばし泳がせたが、やがて項垂れて列の端に戻る。押し合いの気配はそこで止まり、列は再び息を整えた。若い吏はそれを見て、簿に小さく記す。
「札を配ればよいかもしれません。順番が目に見えるように」
張機は筆を置き、短く答える。
「札は札。だが、人の顔は見落とすな。札に倣うのではなく、人を見よ」
吏は深くうなずき、次の名を筆に記した。列が再び動き出すと、年寄りの一人が幼子に碗を手渡しながらぽつりとつぶやく。
「張長沙の粥は温いな」
声は小さく、誰に聞かせるでもなかった。だが、その響きは湯気の中に溶け込み、周囲の耳に留まる。幼子は碗を抱え、湯気に顔をうずめて笑った。老人は生き返ると声を洩らし、女衆は互いに声を掛け合いながら欠けた碗を取り替える。数か月前には見られなかった落ち着きが、広場の隅々に芽生えていた。
秩序は揺らぎながらも保たれ、粥と湯気の中で人々は再び列を整える。そうして日が高くなると、今度は施療の場に、疲れや病を抱えた者たちが続けて姿を現した。
午後の施療には、雨の日ごとに膝を押さえる老人がやって来た。
「節々が痛む。夜は火を絶やせぬ」
張機は脈を取り、湿の気と見て、豆を加えた粥を与えるよう指示する。
「体を動かせ。火を絶やすな」
老人は深く頭を垂れ、翌日には列に杖をついて現れた。
そのあとには、子を抱いた女が現れる。
「乳が出ません。子が泣きやみません」
張機は子の舌を見て、粥を薄めて飲ませるよう命じた。女衆がすぐに手を貸し、子は小さく喉を鳴らして飲む。
「母の身を守れ。子も守られる」
張機の言葉に、周りの女衆もうなずいた。施療を待つ人々の間からは、こんな声も洩れる。
「張長沙の言う通りにして寝たら、熱が引いた」
「張長沙が見てくれたなら、大事にはならぬ」
それは祝祭の唱和ではなく、日々の労苦の合間に交わされる小さな囁きであった。しかしその囁きこそ、確かな承認である。日々はそうして過ぎていった。
風が変わるたび、湯気の匂いもまた細く揺れ、広場の顔つきだけが少しずつ和らいだ。施粥と施療は日課となり、列に並ぶ顔ぶれも移ろう。遠方から来た者が定着し、町に腰を落ち着ける気配さえ生まれていた。
その日の昼下がり、南の街道に砂塵が上がった。馬の鼻息が荒く、革の鞍が軋む。伝令であった。広場に駆け込み、馬を下りると、封泥を施した文を県丞に差し出す。封を割り、声を張って読み上げた。
「荊州牧、劉表曰く。長沙の地において、医と粥を以て民を安んずると聞く。その治を良しとし、補給を送り、これを助ける。米五百斛、塩五十斛、布三百匹、薬材若干、さらに紙と墨を添う。以後、県の裁可は簡略にし、張機に一任せよ。この治を続けるため、やがては正規の任を置くことを議すべし」
人々は静まり返った。歓声は起こらぬ。ただ、重く湿った空気が解けるように、ほうと息を吐く音があちこちで洩れた。古参兵は腕を組み、わずかに笑む。
「上が見ている。ならば、続けられる」
若い吏は深く頭を下げ、几に新しい筆を置いた。墨が潤んでいる。女衆の一人は布を見て、これで寝床を増やせるとつぶやき、すぐに布を裂いて帛を仕立てた。孤児の一人は新しい衣を与えられ、久しぶりに笑った。
米は計り分けられ、村ごとに倉へ運ばれた。塩は小袋に分けられ、遠方から来た流民へも渡される。白い粒を手にした子らは、不思議そうに指先で舐め、顔をほころばせた。人々は声を掛け合い、互いに荷を負う。倉に納められた米と塩は、古参兵が夜警を立てて守ることを誓った。
「盗みに入られれば、粥は絶える」
「ならば見回りを倍にせねばなるまい」
そのやり取りを、若い吏は丁寧に記録に残した。張機は伝令の言葉を黙って聞き、施療に戻る。粥と施療は夕刻まで続き、広場はようやく静まり返った。だが火が落ち、人々が眠りについたあとも、張機の務めは終わらなかった。
夜更け。施療所の灯はなお消えず、張機は几に札を広げ、筆を走らせる。
『熱ある者、汗の有るときは粥を与う。汗なきときは薬を加う。関節の痛む者、湿の気を祓う。火を絶やすな。乳の出ぬ者には、粥を薄めて与え、母の身を守る。』
言葉は簡素に刻まれ、束ねられていく。だが積み重ねれば積み重ねるほど、筋道は見えにくくなり、筆は幾度も止まった。
母の声が、夜更けの静けさに重なる。 兄の言葉が、筆を進める手を導く。張機は一度眼を閉じ、深く息を吸ってから再び筆を執った。若い吏が灯を替えながら問う。
「先生、それは都への報告にございますか」
張機は首を振った。
「医師ひとりの手では救える命に限りがある。だが、見たことを記せば、まだ見ぬ人をも救える。貧しく医を頼めぬ者も、自らを救う道を得るだろう。忘れず、伝われば、死は繰り返さずに済む」
吏は深く息を呑み、その言葉を胸に刻んだ。几の上には、札の束が小さな山をなし、筆跡は黒々と積み重なっていく。そのとき、外から声がした。
「明日も行こう」
「張長沙の粥はぬくいから」
笑い声は焚き火の煙に混じって夜空へ消える。張機は静かに目を閉じた。




