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27 長沙

 長沙へ続く街道は、見るからに荒れ果てていた。畦には麦の芽がまばらに立つだけで、田の端には黒く枯れた株が残る。往来を行き交うのは荷を負った流民と痩せた牛ばかりで、子らは泣き声を上げる力さえ尽き、ただ母の背に揺られていた。土の匂いは薄く、湿った風が肌にまとわりつき、空だけが不釣り合いに明るい。張機は馬を曳き、歩を止めた。


 人の列の端に、泥に崩れた旗が見えた。青地に白く、張の字がかすれている。張羨、張懌。かつて長沙を治めた旧主の旗であろう。誰が掲げたものかは分からぬが、いまも道端に立ち、風にあおられている。布は裂け、杆は傾き、それでも影のように残っていた。


 「影にすぎぬ」


 張機は小さく呟く。しかし、そのしるしにすがって歩む人々の眼差しは、確かに生きる息を繋いでいた。影を捨てよといって捨てられるものではない。捨てられぬものが人を引きずることもあれば、踏みとどまらせることもある。張機は旗から目を離し、足を進めた。


 やがて潰れた城塞の下に、小さな施療所が営まれているのを見た。竹と藁を寄せただけの粗末な小屋である。前には人が群がり、呻きと泣き声と、低く祈る声が入り交じっていた。声の波は小屋の外へ溢れ、周りの荒れた地にまで染み出している。


 「張太守の御代なら、こんなことはなかった」

 「張懌様が姿を消されてから、世は明るさを失った」


 耳に入る言葉は、皆うち萎れた心を映していた。誰もが名を口にして支えにしながら、その名が戻らぬことも知っている。知りながら語るところに、疲れと執念が滲んでいた。


 張機は小屋へ入った。戸口に並べられた蓆の上で病人たちが横たわっている。熱にうなされる者、咳に喉を裂かれる者、腹を抱えて呻く者。鼻を刺すのは乾かぬ汗と膿の匂いであった。湿りがこもり、息が重くなる。張機は外衣を脱ぎ、膝をついた。


 最も苦しげな男の脈をとる。指に触れる鼓動は速く強く、腹は張り、便は下りぬと妻が言った。男の胸は上下し、眼は焦点を失い、喉の奥で乾いた音が鳴る。張機の眼が細く光った。


 「大承気湯を要す」


 傍らの者が顔を曇らせた。


 「そんな強い薬を……。弱った体には堪えますまい」


 張機は静かに答える。


 「強き薬を畏れるより、熱に焼かれて腸を閉ざす方が恐ろしい」


 草を選び、鍋を火にかけた。大黄、厚朴こうぼく枳実きじつ芒硝ぼうしょうは乏しい。鹹味かんみで走らせるほかない。塩を一撮み、湯の力を借りて代をなす。火の傍らで湯が鳴り、香が重く立ち上がるにつれ、群衆のざわめきは自然と薄れた。誰もが息を呑み、医の手の動きを見守るばかりである。


 薬を与えられた男は呻き、抵抗するように身を震わせた。だがやがて大きく腹が鳴った。間もなく体から汚濁が流れ出し、呼吸が深く整ってゆく。胸の上下はゆるみ、眼の白い濁りが少し退いた。


 「息が通った」


 妻の声が涙に濡れる。人々は安堵の吐息を漏らし、互いに顔を見合わせた。囁きは広がり、やがて一つの問いに収束する。


 「この御方は誰だ。名を伺いたい」

 「張機、字を仲景という」


 群衆の目が張機に集まった。敬いとも驚きともつかぬ眼差しであるが、その奥には、張姓の者が戻ったという、言葉にならぬ熱が揺らめいている。張機はただ器を置き、袖を整えた。


 「名ではなく、息を見よ。薬は人を救うためにある」


 小屋を出ると、古びた祠の軒下へ案内される。そこは雨を避けるだけの場であり、焚かれた藁の煙がゆらぎ、湿った風が吐息を運んでいった。張機は人々の声を聴いた。名が欲しいのではない。名の背後にある、腹の空きと、夜の冷えと、咳の長さを聴くためである。


 最初に口を開いたのは古参の兵だった。


 「張太守は堤を歩かれた。水路を改めて田に水を入れ、兵にも農時の休みを下された。俺も槍を置いて、家に戻れた年があった」


 隣にいた女がうなずく。


 「賦もきちんと分けられて……。子を抱えて並んでも、順は乱れませんでした。粥を受けるにも、胸が軽うございました」


 別の農夫が言葉を継いだ。


 「張懌さまは若うて、よう走り回られた。粥所を増やし、病を問わず診られた。馬の蹄の音が聞こえると、子が笑ったもんだ」


 声は次第に沈み、皆の視線がひとりの長老に集まる。長老は目を閉じ、しわ深い顔に陰を落とした。


 「だが疫は収まらず、飢えも尽きなんだ。簿は白くなり、吏は留まらず。誰が悪いでなく、皆が力尽きたのだ」


 場に重い沈黙が落ちる。


 張機は膝の上で手を重ね、静かに目を伏せた。名は人を慰め、旗は影を残す。だが粥と湯がなければ、明日は持たぬ。影を尊びつつ、今を救う道を立てねばならぬ。救うとは、声を大きくすることではない。今日の体が明日の朝を迎えるようにすることである。


 翌朝、張機は潰れた倉を改めて拠点とした。かつて粥所に使われた場所だと聞く。土壁は崩れかけ、梁には埃がたまっているが、風をしのぎ、釜を据えるには足りた。まず火を置く場所を決め、動く道を決める。乱れをほどくには、最初に手足の動きを整えねばならぬ。


 「ここなら人を集められる」


 張機が言うと、古参兵が胸を叩いた。


 「俺たちで柵を直そう。夜は警固にも立つ」


 女衆は鍋を担いで集まる。


 「粥を炊こう。だが米は少ない」

 「麦を混ぜ、生姜を刻め。薄くとも温かい方が腹を養う」


 張機の声は短く、よどみなかった。ためらいがないのではない。ためらいが長ければ、その間に倒れる者が出ると知っている。


 人々は役を分けられ、動き始めた。老兵と女衆は煮炊きに、若い者は水汲みに、子らは薪を集めに走った。倉の中に湯気が立ち、煙が梁へ這い、外の空気が少し変わる。


 張機は門の外へ出て、病人の列を見渡した。咳に肩を揺らす者、痩せてふらつく者、腹を抱えて呻く者。重い者と軽い者が入り混じれば、列は崩れ、怒りが生まれる。怒りは病を早める。


 「重きを先に、軽きを後に。動線を分けよ」


 古参兵が声を張り上げ、列を整えた。縄を張り、戸板に墨の線を引く。待つ場所が決まるだけで、人の胸は少し落ち着く。


 一人の若い吏が不安げに寄ってきた。


 「記録に残さねば、後で責を問われます」


 張機は筆を取り、札を示す。


 「書け。名と、症状と、粥の量を。息をつなげば札も残る。札は死者の名では満たせぬ」


 若い吏はしばし黙し、やがて筆を走らせた。


 陽は傾きかけ、倉の口からは湯気と藁煙が交じって吐き出された。井戸端には手桶を並べ、女衆は器は洗って返す、子の器は小さく、熱は浅くと声をそろえる。古参兵は縄で導線を張り、若い者に合図の掛け声を教えた。雑な声が、しだいに役の声へ変わる。こうして粥と湯と筆の場が、ようやく場になっていった。


 施療の場は粥の香と人の声で満ちていった。


 軽き者には薄粥を、発汗を無理強いせず、休ませる。渇に苦しむ者には、白朮びゃくじゅつ茯苓ぶくりょうを煮て湯とする。胸脇の張る者には、沢瀉おもだかと桂を合わせて水をさばく。腹が張り譫語する男には、張機は大黄を取り上げた。


 「高価な薬では」


 男の妻が青ざめるが、張機は首を振る。


 「銭はいらぬ。まずは命だ。腸を塞げば命は尽きる。下せば道は開ける」


 薬を飲んだ男はやがて大きく腹を鳴らし、苦しげな呻きが静かになった。妻の涙が、群衆の沈黙に響いた。


 その一件が口火となり、人の目つきが変わった。祈りの手は器を支える手に替わり、叫びは合図の声に替わる。奇跡は求めない。今日の体には今日の手当てを、と張機は繰り返す。奇跡の噂は、人を集める。だが噂に餓えれば、噂が尽きたとき暴れる。支えるのは粥と湯の確かさである。


 「湯は少しずつ。汗を追い立てるな。濡れた衣は替えよ。夜、子は外に出すな」


 倉の梁には布を掛け、湿りを吸わせる。火は弱すぎず、強すぎず。古参兵は夜番を二つに割り、女衆は柄杓ひしゃくを鍋ごとに分けた。恐れは消えはしないが、恐れに形が与えられた。


 夜が更けるころには、列は昨日ほど乱れなかった。器を受け取った子が粥をすする。咳が深まり、痰を吐いた者が肩を軽くする。人々の間に、わずかな秩序が戻っていた。


 張機は筆を置き、焚き火の灯を見つめた。名は影を呼ぶ。だが影を越えて息をつなぐのは、粥と湯と、記す筆である。


 翌日も列は絶えなかった。飢えた民は器を抱え、熱にうなされる者は肩に支えられ、門前には呻き声と泣き声が交じっている。昨日の秩序は、今日には今日の重みで試される。


 煮炊きの煙の中、若い吏が張機に近寄った。


 「昨日より粥を多く配っております。記録に合いませぬ。これでは後に咎めを受けます」


 額には汗が浮かび、声は強張っている。すると古参兵が割って入った。


 「札の字に腹は満たせん。列が持たねば暴れが起こる」


 その背後で仲間たちもざわめいた。一触即発の気配が、倉の口へ集まってくる。火の粉が小さく舞い、煙が低く流れた。張機は筆を取り、簿を掲げる。


 「今宵は粥を先とせよ。明朝に名と量を記し直す。札は今を越さねば書けぬ。息をつなげば、記も整う」


 吏は口を閉ざし、筆を受け取った。古参兵も腕を下ろし、唇を噛んで黙る。張機はさらに言った。


 「症の重さも記せ。明日の粥は軽重に応じて分けられる。医の記と政の記、二つの札は同じ簿に残せばよい」


 若い吏は筆を走らせながら、小さく呟く。


 「私も人を救う働きに繋がるのか」


 古参兵が肩を鳴らし、低く笑った。


 「官もまた人だな」


 二つの役目は衝突せず、並んで立った。焚き火の灯の下で、粥の器と筆とが並び、人々の息は少しずつ整っていく。


 日が落ちると、鍋の底が見えた。女衆は柄杓を伏せ、子らの口元を拭い、空いた器を桶に沈める。古参兵は縄をたぐり、導線をほどいて焚き火の位置を少し寄せた。若い吏は最後の名と粥量を簿に記し、墨の渇きを息で温める。人いきれの熱が退き、戸口に夜の湿りが降りてきた。誰もが肩で息をしながら、まだ眠るには早いと知っている。今日のやり方を明日に繋げねばならぬ。その思いが、人を同じ灯の下へ集めた。


 夜、施療所の灯の下に人々が集まった。戸口に腰を下ろす者、壁にもたれる者、皆の顔に一日の疲れが刻まれている。古参兵が、低く言った。


 「太守が定まらぬ今、せめて張の御仁に、病と粥の采配を任せてはどうだ」


 ざわめきが広がる。


 「名で人が救えるか」

 「だが、今日の御仁の手は確かだった」


 張機は口を開いた。


 「名は借りぬ。ただ、名が人をここへ連れてくるのなら否とは言わぬ。だが、名だけでは息は続かぬ。粥と湯を整え、筆に記し、今を凌ぐ。それ以上は政の理に返すべきもの」


 人々は静まり返った。女衆の一人がうなずき、鍋をかき回しながら言う。


 「ならば、今夜も明日も、ここで粥を煮よう。名より、腹を満たすことのほうが早い」


 笑いではなく、深い息が場を満たした。名に寄りかかる者、名を疑う者、そのどちらも、今はただ、この場で息が通うかどうかを見ている。


 張機は火のそばに座し、墨を摺って札に筆を走らせた。脈、粥の量、薬の組み合わせ。簡素な記録だが、それが秩序の端緒となる。灯が尽きる前に役目を割り振る。焚き火の番は古参兵と若い吏が交代で持つ。ひとつの蓆にふたりが肩を寄せ、片や槍の古傷、片や簿の余白を語った。二つの札が、同じ板の上で重なっていく。


やがて東の闇がほどけ、鶏が短く鳴いた。


 夜明け。施療所の前に並ぶ列は、昨日のような混乱はなかった。子どもが両手で器を抱え、老いた兵がその背を支える。咳き込みながらも粥を啜る者の横で、女衆が器を回し、若い吏が書簡に名を書きつけていた。


 張機は群衆を見渡し、小さく息をついた。太守の座は空白のまま。だが、ここにある秩序は、息をつなごうとする人々の力で立っていた。まずはそれでよい。声に出さず、張機は心の内で言った。


 南の湿った風が吹き、遠くに川の光が揺れている。川下には、まだ手の届かぬ集落がいくつも続いていた。そこにもまた、飢えと熱に呻く人々が待っているのだろう。


 張機は静かに馬の首を撫でた。目の前にある列を保ちつつ、さらにその先へ歩を進めねばならぬ。旗の影ではなく、今ここにある息を支えるために。


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