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26 襄陽

 春の霧が川面に垂れこめ、渡し舟の櫓がゆっくりと水を裂いた。舟の上で張機は立ち尽くし、遠くに霞む城壁を眺める。荊州の州治、襄陽である。


 かつて劉表がこの地を治め、学を興し、士を集めて盛んにしたと聞く。だが、今はどうか。川沿いの村は荒れ、流民の列が道に溢れ、病の声は絶えぬ。舟の揺れに身を任せるうち、そうしたものが皆、城へ吸い寄せられてゆく気配があった。城は人を集め、世の疲れもまた集める。


 舟を下りて市に入ると、目に入るのは疲れ切った人々の姿ばかりであった。


 籠を抱えた女は声を潜め、兵は咳を噛み殺し、老人は土の上に腰を下ろして空を見つめる。香を焚く者もあれば、符を描いて売る者もいる。道の隅々にまで、落ち着かぬ気が染みていた。


 「湿の病だ」

 「長沙から流れてきた」


 耳に届く声は不安に濁り、希望の調べは混じらない。張機は足を止め、胸に手を当てた。かつて曹操と語り合った言葉が甦る。人を束ねる政と、一人を救う医。その道は交わるようで交わらぬ。だが、人の息が絶えれば、政もまた形を保てぬ。市のざわめきの底に、そうした理が沈んでいる。


 粥を求める列の端で、若い兵が咳に押されて倒れた。周囲は一歩退き、符を掲げる者もいる。張機は膝をつき、舌を見、脈を診た。胸に湿熱が絡み、息はこもっている。


 「火を借りる」


 鍋を分けてもらい、草を煎じて与える。二口、三口。咳は深まり、痰と共に吐き切れたとき、胸に広く息が入った。


 人々は互いに顔を見合わせた。符を掲げていた手はいつの間にか下ろされ、列を崩さぬまま、ただ遠巻きにその場を見つめている。驚きも歓声もない。ただ市全体が、大きくひとつ息を吐いたように静まった。張機は応えず、草をしまい、歩を進める。その背に、兵の一人が駆け寄ってきた。


 「帝の病を癒した方に相違ない」


 言葉は震えている。


 「襄陽の牧が、お召しになっております」


 張機は小さくうなずいた。兵に導かれ、市のざわめきから城内へと進む。城門をくぐると空気は一段沈み、敷石は足音を浅く返した。邸宅の並びはなお威を保ち、守りの目も緩んではいない。だが、整ったはずの内にも、病を恐れる気配が漂い、香の匂いがそれを覆い隠している。


 劉表は、城中の邸で病に臥していた。


 広間を抜け、帷を分けると、香の匂いが濃く漂い、重苦しい空気が満ちていた。枕辺に寄る蔡瑁さいぼうが小声で言う。


 「数日来、食も細く、夜は咳に悩まされておられる」


 劉表はやせ衰えた顔を上げ、張機を見た。


 「帝の病を癒した医が、この地に来たと聞いた。そなたが張仲景殿か」


 張機は深く頭を垂れる。


 「はい」

 「名はすでに我が耳に届いておった。南陽にて兵を救い、都にて帝を癒し、諸処にて病を断ったと」


 劉表の声は掠れていたが、言葉には確かさがあった。張機は枕辺に寄り、脈をとる。沈みはせぬが力弱く、舌には淡い苔が広がる。長年の疲れが胸の上に重なり、気を損なっている。熱だけの病ではない。


 「食を少なく取り、湿を避け、静養されよ。熱は深からず、病根は軽くもなし」


 処方を記し、草を選んで煎じさせた。薬を口に含んだ劉表はしばし目を閉じ、それから静かに言った。


 「医の言葉は政の耳にも通ずるものだな」


 蔡瑁が口を挟む。


 「主公、御身を労わるべき時に」


 劉表は首を振った。


 「いや。耳に入れておかねばならぬ」


 その響きには、劉表がただの病者ではなく、なお牧として民を思う者である気骨が残っていた。


 容態がひとまず鎮まった夜、小さな席が設けられることとなった。灯は抑えられ、器の音も控えめで、言葉だけが静かに交わる。劉表は病み上がりながら顔を見せ、張機を上座近くに招いた。周囲には蔡瑁、蒯越かいえつ伊籍いせきら荊州の士が並ぶ。盃が幾度か巡った頃、劉表は声を低めた。


 「長沙のことを、そなたは聞いておるか」


 張機は首を横に振った。


 「数年前、長沙太守・張羨ちょうせんが逆心を抱いた為、已む無く討った。その後は子の張懌ちょうえきが後を継いだが、これも長くはもたず。以来、長沙は空白のまま荒れておる」


 蔡瑁が続ける。


 「民はなお張氏を慕い、劉氏の統治を受け入れようとせぬ。太守を遣わしても地に根を張らず、疫病は広がり、兵も民も疲弊しているのが実情だ」


 蒯越が盃を置き、渋い顔をした。


 「次の太守を誰にすべきか、議はまとまらず。士の間でも意見は割れ、兵もまた動かし難い」


 伊籍が横目で張機を見る。


 「ゆえに、か」


 場に重い沈黙が落ちた。灯の芯が小さく鳴り、盃の底がかすかに光る。


 「仲景殿、そなたの目に長沙はどう映るか」


 張機は即答せず、沈黙した。その間に蔡瑁が声を荒げる。


 「主公、医に政を問うのは」


 張機は静かに答えた。


 「政を論じることは私の務めではありません。ただ、病を見てきた者として申し上げます」


 劉表の目が細く張機を見つめる。張機は続けた。


 「病む者はしばしば、過ぎた健康の日を語り、そこへ戻ろうといたします。しかし影は影にすぎず、戻ることはできません。飢えを退け、熱を冷まし、息を通わせれば、人は影を忘れ、今を生きます。政もまた同じではございませんか」


 室内に沈黙が落ちる。重臣の中には顔をしかめる者もあれば、膝を抱えて俯く者もいた。


 「なぜ今日来たばかりの医にそのようなことを言わせるのか」


 小声の不満が漏れる。だが劉表はそれを制し、静かに言った。


 「長沙の民は影に囚われておる。旧主を恋い、病と乱れの中にある。仲景殿。もしそなたが治を以て彼らの息を繋げるなら、我は政を以て彼らを支えよう」


 蔡瑁はなお顔を曇らせた。


 「医を置いて何になるのです」


 その声に、陪席ばいせきの士人らもざわめく。


 「そうだ、政を担えぬ医者に何ができる」

 「名ばかりを振りかざすことになろう」


 劉表は手を上げ、声を鎮めた。


 「だが、民は病に伏している。政の声も届かぬ。……仲景殿」


 視線が張機に向けられる。


 「そなたは医であるゆえに、人の声をひとつずつ聴いてきたと聞く。もし長沙の地に立てば、民は符や噂ではなく、そなたの置く湯に従うだろう」


 張機は沈黙した。思いは胸に巡った。曹操との対話がよみがえる。群を束ねる手と、一本の息を診る眼は別である。だが、束ねる手が強すぎれば一本の息は絶える。束ねるために息を捨てれば、束ねるべきものも残らぬ。


 「私にできるのは、息を通わせ、火を整え、飢えを退けることです。それが政の理にどう響くかは、私には計れません」


 劉表は深くうなずいた。


 「よい。それでよい。長沙には政を担う者はいくらでも送れる。だが、息を見て湯を置く者はおらぬ」


 その言葉に、陪席の士人らは互いに顔を見合わせた。蒯越がふと口を開く。


 「思えば長沙は、代々張姓の者が治めておりますな。張羨、張懌……」


 一瞬、場にざわめきが走った。


 「その張姓の医、張仲景殿を迎えれば、民の心に響くものがあろう」


 蔡瑁は渋面を保ったまま黙したが、他の者はうなずきを隠しきれぬ。劉表は盃を置き、張機を見つめた。


 「名を頼むのではない。だが、人の心に映るものを軽んじてもならぬ。仲景殿。そなたに長沙の地を一たび見てもらいたい」


 劉表の声は静かであったが、弱さはない。張機は深く礼をとった。


 「承りました。ただし私は医でございます。人を救うは私の務め。太守の座にあるか否かより、病む者を救うことを先といたします」


 劉表が目を細める。


 「それでよい。まずはそれでよい」


 宴はやがて散じ、灯は次々と消えていった。張機は与えられた一間へ戻り、夜半まで眠れずにいた。劉表の言葉と、重臣らの表情が幾度も胸に甦る。名ではなく息を救え。その響きは、曹操の言葉と同じく、心の底に沈む。


 東の空が白むころ、張機は帯を締め直し、襄陽の城を辞した。眼前に広がるのは、なお流民の列である。歩みに遅れのある者は肩を支えられ、子を抱く者は腕を替えながら進む。その中に、長沙から来たと語る者があった。


 「田は荒れ、薬もなく、病に倒れるばかりです」


 張機はその言葉を胸に刻み、馬の首を南へ向ける。霧は晴れつつあり、漢水の流れが光を返していた。



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