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25 旅路

 南陽の丘を越えた張機は馬の歩を緩め、街道へ出た。旅装の衣は土の色を帯び、袖口には乾いた風の粉が溜まる。帯の内には官印を包んだ布があった。孝廉に推されて幾季が過ぎたが、名も印も、人を救う手を鈍らせはしない。都であれ田野であれ、脈は同じ調べを打つ。張機は手綱を握り直し、南を望んだ。


 道には流民の列が途切れず続く。荷を背負い、子を抱き、声を潜めて歩いていた。鍋を吊った縄が擦れ、竹籠の底が砂を曳く。足は重く、言葉は少ない。振り返る者は稀で、ただ前の背を目印に歩を合わせている。


 道端に倒れた男があったが、誰も足を止めぬ。張機は馬を下り、脈へ指を置いた。舌は淡白、熱はなく、ただ飢えと疲れが骨まで入っている。乾餅を湯で柔らげ、口に含ませると、喉が小さく動いた。胸の締めがほどけ、息が通る。


 「水を少しずつ。焦らせるな」


 傍の女へ短く告げ、張機は再び歩み出た。救う手は確かで、言葉は少ない。歩を止めすぎれば、届くはずの命を見失う。見えるところだけを救っても、見えぬところで倒れる者が増える。それを知っている。


 午の前に市へ入った。低い城壁をくぐれば、塩や布、草束が並び、声と埃が渦を巻く。荷を下ろす音、秤の鎖の鳴る音、粥の匂いが入り交じり、喉の乾きを呼び起こす。粥を求める列の端で、若い兵が咳に押され倒れた。人垣が退き、符を振る者もある。張機は膝をつき、舌を見、脈を診た。湿熱が胸を絡めている。


 「火を借りる」


 鍋を分けてもらい、草を煎じる。二口、三口と与えると、咳がいよいよ深まり、痰と共に吐き切った。すると広く息が入る。張機は背を支え、胸の音が濁りを抜くのを待った。


 「粥は薄めに。三度、熱を過ぎぬように」


 兵は言葉を失い、深く頭を下げた。背で誰かが呟く。


 「薬は鬼神に勝る」


 張機は応えず、歩を進めた。市を抜ける道で、商人たちが語り合う。


 「荊州牧の劉表は士を尊ぶ。襄陽には学舎も建った」

 「だが南は湿が深い。夏に病が起こり、秋に咳が長引く」


 張機は聞くだけで通り過ぎた。湿の病。許で聞いた噂が、別の口からも洩れる。草の性は地により異なる。書は道であり、道は足で測る。実地を踏まねば、書の上の名はただの名で終わる。


 関を過ぎると土は湿り、川が網のように流れ、葦の穂が風に伏した。渡し舟が出る。舟底は浅いが、渡し守は水の筋を読み、角度を保つ。


 対岸に着くと小さな人だかりがあった。若い女が老父を抱える。顔は蒼白、汗は粗く、息は乱れる。符を握る者もあったが近づく者はいない。張機は脈をとり、風に当ててはならぬと言った。女に肩衣をかけさせ、葦陰へ移す。舟の火を借りて草を煎じ、三度に分けて与える。呼吸は次第に静まり、肩が解けた。女は何度も頭を下げる。張機は器の傾きを止めた。過ぎれば力を奪い、足らぬなら刻んで足す。


 日が傾く。張機は札を確かめ、帯を締め直した。印の包みは重い。要る場では礼を尽くし、要らぬ場では胸にしまっておけばよい。包みの重さは官の重さではなく、行き先の責めである。


 山裾に小さな兵舎があった。関を守る兵の駐屯で、土塁と木柵が粗く並ぶ。夕刻、兵は焚き火を囲み、干し肉を煮ていた。煙は低く流れ、油の匂いが夜気に溶ける。門の前でどよめきが起こる。


 「医者だ。都からの御仁だと聞いたが」

 「いや、旅装ではないか」


 声は掠れ、疲れが滲む。そのとき舎の奥から兵が運び出された。体は火に焼かれたように熱く、顔は赤黒く、うわ言を吐く。腹は膨れ、息は荒い。符が胸に置かれ、水を浴びせるが苦しみは増すばかりであった。


 「邪気が憑いた」


 恐怖が広がる。張機は人垣を割り、腹へ手を置き、舌を見る。石のように硬く張り、黄色い苔が厚い。数日、便は下りていないという。脈は沈まず、なお力強い。


 「熱が胸腹にこもり、腸を塞いでいる。符でも水でも開かぬ」


 張機は腰の薬袋を開き、小さな布包みを火のそばへ並べた。


 「大黄、厚朴こうぼく枳実きじつ……芒硝ぼうしょうはないな」


 鍋の脇に塩がある。


 「塩をくれ。今はこれで足りる」


 兵が差し出す。張機は指先で量を測り、湯へ落とした。泡が立ち、香が重く広がる。煎じて漉し、器へ移す。


 「口をこじ開けろ」


 数人が病者を押さえ、木片を歯に差した。湯を流し込む。一口、二口。咽喉が痙攣し、かろうじて飲み下す。器が空になると、兵たちは固唾を飲んだ。


 火のはぜと遠鳥の声だけが残る。うわ言は次第に薄れ、汗が浮く。腹が鳴り、呻きが変わった。ほどなく下へ激しく走る。兵が慌てて抱え、外へ運ぶ。戻ると顔の赤黒さは退き、息は落ち着いていた。やがて深い眠りへ沈む。


 「生きている」


 誰かが呟いた。


 「鬼を祓ったのか」


 張機は首を振る。


 「鬼ではない。腸に積もった熱を下しただけだ」


 焚き火の光が揺れ、兵の胸へその言葉が沈んだ。恐怖に揺れていた目が静けさを取り戻す。誰も口を開かず、ただ寝息を聞く。張機は残りの草を包み、若い隊長へ渡した。


 「明日も少し与えよ。ただし量を誤るな。強すぎれば気を損なう。的を射れば鬼神に頼らずとも救える」


 若い隊長は言葉を探し、結局、深く頭を垂れた。それで足りた。沈黙は重さを保つ。


 夜。張機は火を絞り、札を膝に開いた。名は器、中身は土地。器は書にあり、中身は人の前にある。誤ればこぼれ、足らぬなら補う。


 兄の声が庭の夜から立ちのぼる。見たものを使え。見ていないなら、まず見よ。灰を寄せ、火種を埋める。跡を残さぬことは逃げではない。いずれ誰かがここに来る。土は新しい足を受ければよい。


 暁。もやが低く地を歩き、葦が濡れていた。張機は帯を締め直し、印の包みを確かめる。門外で昨夜の隊長が咳を押し殺している。張機は湯を借り、草をひとつまみ渡した。


「喉に落とす時だけ使え。多くするな」


 隊長は湯を見つめ、ただうなずく。目の色がわずかに深くなった。礼は要らぬ。


 兵舎を離れると、川の気配が濃い。湿った風が頬を撫で、草の穂を斜めに伏せる。朝光が水へ落ち、川面は銀と緑に揺れた。渡し場に人が集まり、列は静かに進む。


 舟が出る。舟底は浅いが迷わない。渡し守は水の筋を読み角度を保つ。張機は舟の端に立ち、遠くを見た。流れの先に荊州の山影が紫に重なる。流民も兵の声も昨夜の符も、この流れに運ばれて遠ざかる。残るのは、診て断じ救ったという、確かな手の感覚だけである。


 「水は行け」


 低く口の内で繰り返した。川風が衣をはためかせ、舟は南へ滑る。着けば馬の首を撫で、蹄を確かめ、また歩を出す。官に列していようとも、手の届く距離は変わらない。手の届く距離が道であり、その続きが務めである。


 舟が岸を捉えた。綱が鳴り、葦が擦れる。張機はうなずき、馬を曳いた。荊州は、もう近い。



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