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24 故郷

 張機は南へ馬を進めた。春の光は淡いが、地はまだ疲れ切っている。踏み荒らされた田畑に苗は疎らで、焼けた屋の跡には野草が先に立つ。井戸には板が渡されたまま、久しく人の手が戻らぬ。崩れた土塀の隙からは風が抜け、焦げた柱の影だけが残っていた。かつて実りを誇った土は、戦火と飢えに痩せながら、ようやく息をつないでいる。


 張機は歩みを緩め、手綱をゆるく引いて馬を止めた。見覚えのある道である。兄とともに穀を担ぎ、飢えた村人へ麦や粟を分けた道であった。母と兄の言葉は胸の底に沈んでおり、ここへ戻るほど、その重みが静かに増してくる。踏みしめる土の冷たさまで、あの日の痛みを覚えさせた。


 宛の村に近づくと、畑の端で身を起こした影があった。鍬の柄に手を置いた老人が、こちらを見て目を見張る。


 「張様!」


 声が弾むや、あちこちの戸口や畦から顔が出た。人々は土の付いた手をそのままに駆け寄ってくる。衣の裾は擦り切れ、頬は日に灼けていたが、眼だけが生きている。


 「仲景様がお戻りくださった」

 「都へ行かれたと聞いていたが」


 懐かしさと喜びの混じる声が、乾ききっていた村の空気へ息を通した。張機は鞍を下り、静かに会釈する。


 「久しいな。みな、変わりはないか」

 「張家のみな様のおかげで、あの年を越せました。あの日の恩を忘れた者はおりませぬ」


 老女は袖で涙を拭い、若者は拳を胸に当ててうなずいた。子らは張様と声を重ね、足もとへ寄りつく。


 その折、村の奥で急にざわめきが走った。


 「病人だ!誰か、早く!」


 人の輪がひとつに寄り、蓆の上へ横たえられた農夫が見えた。妻は声を嗄らし、幼子は父の衣を掴んだまま離さない。顔は蒼白で唇は乾き、息は浅く途切れがちである。肩は小さく跳ね、汗は冷えて額に光った。


 張機は人垣を割って進み、膝をつく。脈を取り、舌を見、胸へ掌を当てる。冷えが深く入り、血の力は薄い。息は細いが、まだ途切れてはいない。


 「寒と湿がこもり、力を奪っている。だがまだ息は残っている」


 張機は取るべき草を告げ、妻に煎じさせた。火は小さく、炎は頼りない。炉口を覆って風を避け、火勢を守る。煮え立つ泡の様子を目で量り、器を受け取ると、病人の唇へ静かに近づけた。湯は細い喉を伝い、胸の内へ落ちてゆく。


 やがて農夫の頬に赤みが戻り、呼吸はゆるやかに整いはじめた。妻は嗚咽まじりに声を詰まらせ、幼子は父の手を強く握る。人々は安堵の息をもらし、誰かが小さく言った。


 「まるで伯祖先生が戻られたようだ」


 張機の胸に、麻衣の背が一瞬蘇る。落ち着いて人垣を分け、脈を取り、診たものをその場で断じる師の強さ。低い声、緩まぬ手つき。その運びが今の掌に重なっていることを、張機は否めなかった。


 立ち上がると、村人の礼へ短く応えた。人の輪がほどけるにつれ、風の中に川の匂いが混じる。その匂いは道しるべのように胸を引き、張機の足は自然とそちらを向いた。


 ひとり、川筋へ。土手に出ると、風が茅を伏せて渡り、川面は夕の光を返していた。水は絶えず流れ、石は沈黙のままそこにある。流れは絶えず、同じところへ戻らぬのに、匂いだけは昔のまま胸へ届いた。音と匂いが胸の奥の扉を押し開け、舟を浮かべた日の影を連れてくる。烈しい声、和やかな笑み、三人で櫂を握り棗を割り、盃を合わせた夕暮れ。


 川は黙して声を運ぶ。誓いは水底に沈まず、流れに乗って遠ざかりながら、なお胸の内に残っていた。張機は土手へ手をつき、水に映る己の影を見る。波に揺れる影は、若き日の友と重なり、流れの底へ細く延びた。


 「水は行け」


 口の内で繰り返すと、掌に冷たさが残り、心は澄んだ。張機は立ち、草の葉先の露を払う。しばし川面を眺め、夕光が水に砕け散るのを見届けてから、川を背にした。


 道は細く曲がり、田を抜けて緑の影へ続く。遠くに竹の梢が見え、風に揺れてひとつの幕を下ろしていた。張機はその影を目指し、歩を移す。


 竹林は村の外れにある。風が幹を渡り、葉を鳴らす。日差しは翳り、空気はひとしお冷える。葉擦れが耳へ入った瞬間、冬の記憶が重なった。雪は枝を折り、空は白く閉ざされる。廷尉の馬蹄が雪を蹴り、縄の軋む音が空気を裂いた。群衆は息を潜め、氷の下で水が鳴るように胸を塞がれていた。


 烈しい眼差し、託された声。その言葉は胸に焼きつき、時を越えてなお脈を打つ。張機は立ち止まり、竹の影へ耳を澄ませた。沈黙を拒み、命を賭した何顒の叫びは、風に消えず今も残る。王誼の低い声もまた、葉の震えに連れて蘇った。


 葉擦れは次第に澄み、風は一筋となって林を抜けてゆく。張機は長く息を吐いた。


 「声は終わらぬ」


 低く呟くと、竹の影はただ静かに応じ、音は遠くへ広がっていく。


 竹林を抜けると、道はひらけ、視界の先に張家の門が現れた。幾度も出入りしたはずの場所が、いまは静かに朽ちかけ、草に覆われている。張機は足を止め、胸の奥へ重いものを抱えたまま、門前へ進んだ。


 戸は落ち、柱は日に灼け、庭は草に埋もれている。敷石の目地から小さな花が顔を出し、風がその首をわずかに揺らした。甕の欠けた縁、戸口の擦れ、庭石の角、そのどれもがかつての暮らしを黙って語る。張機は敷居の前で膝を折り、掌を据える。木の冷たさが皮膚を刺し、その冷えの中へ掌の熱が移っていく。


 この庭に白布が幾度も張られた。母の声は静かで短く、兄の背は重く長かった。麻縄の擦れる音、倉の扉の軋む音、粥の泡立つ音。音は過去へ沈まず、いまも庭の空気に混じる。掌の下に、母の教えと兄の沈黙が柱のように立っていた。伯祖の白い背、何顒の烈しい眼、王誼の和やかな笑みもまた、その柱を支えている。


 張機は掌を離し、静かに立ち上がった。庭の空気を背に受けて門を出るころ、空はすでに傾き、光は柔らかく大地を染めていた。張機は一度だけ振り返り、息を深く吸ってから、丘へ向かう道を選ぶ。畦は緩やかに弧を描き、若葉が風にさざめいていた。


 遠くで子の声が上がり、間を置いて牛鈴が応えた。


 丘の上に立ち、村を見下ろす。屋根は低く寄り、煙は細く、川は南へ身をくねらせている。畑の端で子どもたちが走り、土を蹴って笑った。声は風に乗り、丘まで届く。


 胸の奥で、過ぎし日の響きがひとつにまとまった。烈しさは芯を立て、和やかさは周りを支え、静けさは底を固める。それらが重なって、ひとつの脈動となる。張機は口を開いた。


 「この地を越えて、さらに広く。人を救わねばならぬ」


 声は短く低い。草は一斉に伏し、川は光を強く返す。張機は馬の口を取り、南へ歩み出した。振り返らず、ただ道を見る。川の匂い、竹の音、庭の冷たさ、丘の風。そのすべてが胸にあり、足を進めさせた。襄陽へ落ちてゆく山並みが、霞の向こうに連なる気配を見せる。山は動かぬ。だが人は動く。声と術を携え、張機は南を取った。


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