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23 出立

 官渡の戦は終わっていた。風は野の匂いを変え、焦げた木と乾いた血と、みかけた灰の匂いを運んでくる。黒く塗れた杭が斜に突き立ち、折れた槍は土に半ば飲まれ、裂けた旗が凍えた空を切って揺れていた。勝敗は決したが、勝ち負けの外側で、呻きと息遣いだけが細く長く続いている。


 張機は馬を下り、兵と書吏を従えて歩いた。踏みしめるたび霜が音を立て、履の底に冷えた土がまとわりつく。面布で鼻口を覆った兵が声を上げた。


 「こちらに生きている者。水を」


 張機はうなずき、脈に指を置く。鼓は弱く、糸のように細い。口を開かせれば乾いた舌が見えた。張機は書吏に目を向ける。


 「粟を細かに磨け。湯は弱火で長く、塩ひと摘み。口に落とすのはひと匙ずつ。急いではならぬ」


 書吏が走った。隣では、足に黒ずんだ腫れを抱えた兵が歯を噛んで座している。凍えは骨に入っている。張機は油を温め、布を巻く力を見せてから言った。


 「この力で巻け。強すぎれば血が止まり、弱すぎれば剥がれる。巻き直すときも同じだ」


 兵はうなずき、腕を震わせながら布端を押さえた。その先では刃物と布が用意されている。壊疽はもう後戻りがない。張機は短く言った。


 「命を残す」


 刃が打ち下ろされ、炎がゆらぎ、こらえた声が冬の空気を震わせる。


 処置が終わると、張機はもう次の負傷者へ歩いていた。胸が軋むほど働いても、手は止まらぬ。熱に浮かされた若い兵に水を含ませ、額の汗を拭い、耳のうしろの筋に冷えが残っていないか確かめる。焚火の向こうで、子を抱えた女が立っていた。子の唇は薄く色を失い、胸の上下は浅い。


 「先生、この子が」


 張機は子を受け取り、指先で喉の深さを測った。匙で粥を掬い、薄く伸ばして舌先に触れるほどに置く。喉がかすかに動く。二匙、三匙。しばらくして泣き声が小さく落ち、その声が小屋いっぱいに温みを広げた。女は土についた膝のまま、胸の前で手を合わせる。


 日が傾くにつれ、鍋の湯気は白さを増した。耳たぶに見える小麦皮のひだを子が指さして笑い、兵も一緒に笑う。労を忘れる時は短い。張機は記録札に筆を走らせ、患いと処置、湯の温度、汗の量、布の巻き具合まで簡潔に記した。筆を置かぬまま、声が背から掛かる。


 「医者殿、見てもらえましょうか」


 荷車を引く商人の一団だった。布包みは焦げ、皮袋は裂け、車輪は縄でやっとのこと縛り直されている。年かさの男が咳を堪え、胸を押さえていた。張機は脈に触れ、舌を見せさせた。舌苔は厚く湿り、息が重い。寒さだけでは出ぬ湿の重さが、身体の内に沈んでいる。


 「いつからこうなった」


 男は咳の合間に言った。


 「江の南、長沙・零陵のあたりで商いをしておりまして。秋の長雨で倉が湿り、町に人が押し寄せました。戦を避けて南から来る者も多く、宿は満ち、井戸は汲み尽くされました。やがて熱が出る者が増え、腹をくだし、汗がいつまでも乾かない。夜になっても熱は落ちず、朝になれば寒けが走る。祈祷師は天を鎮めよと声を張り、薬種屋は草を求めましたが、どこも人手が足りませんでした。北へ運んでいた荷は途中で焼かれ、命からがらにここへ」


 もう一人が口を添える。


 「江陵の市でも同じ話を聞きました。長沙の手前でも。川霧が濃く、川の音は重く、海のように風が湿っていました」


 張機はうなずいた。川に沿って、人の息とともに広がる病の形が眼前に立つ。彼は小さく息を吸い込み、言った。


 「湿が骨に絡んでいる。冷えと疲れも重なっている。今夜は温い湯を少しずつ、粟の粥は薄く。汗を急がせるな。明朝、もう一度脈を見よう」


 男たちは礼を言い、焚火のそばに身を寄せる。張機は札に短く記した。


『湿重・腹瀉・多汗、夜熱朝寒。脈滑、苔厚。川沿いに多し。』


 筆を置くと、焚火の奥の暗さが、なぜか川陰のように見えた。


 許へ戻ると、街の空気は少し違っていた。冬は深いが、炭の匂いは途切れず、路地の声も荒れてはいない。帝はすでに起き上がり、朝の政も戻ったと聞く。官舎では書吏が簿を分け、張機の几には巡診の札が積まれていた。張機は一枚ずつ確かめ、処方の後ろに小さな注を添えた。


 「同じ症に見えても、冷えに偏る者と熱に偏る者がある。湯の温は人に合わせる」


 書吏が問う。


 「先生、都は静まりました。しばらく休まれては」


 張機は筆を止め、笑った。


 「理は留めておけぬ。札に留めるしかない」


 竹のひらが鳴り、紐が擦れた。戸口に兵が立つ。


 「曹公がお呼びです」


 宮の広間は冷たさを内に保ち、灯の光で薄く和らいでいた。荀彧が控え、少し離れて夏侯惇と許褚。張機が礼を尽くすと、曹操は卓の筆をそっと横に退け、顔を上げた。


 「仲景」


 名を呼ばれただけで、空気が締まる。曹操はしばらく黙し、やがて短く言った。


 「行くのだな」


 張機は深くうなずく。


 「南には湿の病が芽吹いています。川と霧と人の群れが、息を重くしています。今ここで札を重ねるより、南で湯の温を測るべき時だと見ました」


 荀彧が静かに言葉を添えた。


 「都は落ち着きを取り戻しました。先生の記した札は都の医に残ります。南へ行く理、私も良いと思います」


 夏侯惇は片目を細め、笑みともしかめともつかぬ顔で短く言った。


 「命のあるうちに会えたのは、軍の幸いだった。南でも帰る先を忘れるな」


 許褚は大きな手で胸を打ち、うなずく。曹操は盃を指先で回し、ふと息を吐いた。


 「惜しい。だが止めはせぬ。人を得ぬは将の才の不足、そう思うことにしよう。帝の病を汗で退け、人々の病を粥と草で和らげたお前がここを離れても、名と理は残る」


 張機は礼を深くする。


 「都に在して学ぶものは多くありました。理は人に従い、人は理に救われる。南で私に出来るのは、その理をもう少し確かにすることです」


 曹操はうなずき、言葉を置いた。


 「行け」


 張機は身を退き、広間を辞す。外気は冷たく、星は薄い。だが耳の奥では、すでに水の音がしていた。


 その夜、吏舎で張機は巻を開いた。官渡の処置を記し、許での巡診を綴り、帝の脈と汗の要を短くまとめる。最後の余白に一行、静かに加えた。


 『北は乾き、南は湿る。湿の病、すでに兆す。行く。』


 札を束ねる音は小さく、夜の深さに吸い込まれていく。


 翌朝、霜は白く地を覆い、城門の扉は冷たく重かった。見送りに立つ書吏は鼻を赤くし、兵は黙って拳を胸に当てる。張機はうなずき、医箱を鞍に結わえ、帯の内で官印の重さを確かめた。官を辞さずに都を離れる。その矛盾を、胸の奥で折り畳んだまま歩に変える。


 城門を出ると、風の匂いがわずかに変わった。市は立ち、黍の粉の袋が積まれ、麦藁の箒が立てられている。張機は振り返り、屋根の連なりを一瞬だけ見た。


 都の外れの辻で、小さな人だかりが起きかけていた。壊れた鍋ひとつで声が尖る。痩せた男が間に立ち、両の掌を見せて言葉を交わし、列を交互に進め、湯気の向きを少し変えさせる。名を呼ぶ者はいない。だが肩の固さがほどけ、湯の音が落ち着いた。男は礼も受けずに群れへ消える。王誼であった。


 城郭の上では、甲の音が短く鳴り、曹操が空を仰いだ。荀彧は書簡を閉じ、夏侯惇は鎧の紐を締め直し、許褚は拳を軽く合わせる。それぞれに務めは続く。


 張機は南への道を取った。昼は陽が斜めに差し、夜は空気が硬い。村を過ぎれば井戸の水は冴え、老人は焚火に手を擦る。張機は問われれば脈を取り、湯の温を測り、草の名を短く教え、札に記して渡す。馬の歩は確かで、息は白い。


 帝の病は治せた。都の病も鎮まった。国の病は政の理に従い、医の手には余る。だが人の病は、今も道の先に息をしている。湯気は見える。理は見えない。見えぬものを次へ渡すには、見えるものを書き留めねばならぬ。


 南風が、わずかに湿りを増した。張機は顔を上げ、馬の首に軽く触れた。背には都の灯が遠く、前には川の気配が近づく。彼は迷わず、ただ静かに、その方角へ進んだ。



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