22 再会
冬の日は短く、朝に墨を置けば、たちまち夕が近づいた。巡診を終えた張機は吏舎に戻り、几に札を置いて筆を湿らせる。昼の風は砂を運び、窓の桟にかすかな音を立てた。書吏は灯の火を見て、黍の殻で芯を覆う。
「先生、今朝だけで三十人。明日もこの調子なら、記すだけで夜が明けます」
「理は見えぬ。ゆえに記さねばならぬ。見えぬものを次へ渡すには、ここに留めるしかない」
筆は淡く濃く札を走り、咳、脈、舌、汗の出、夜の寒熱と順に並んだ。書吏は不思議そうに眺め、やがて黙って墨を足す。戸口には兵が控え、鞍の具合を見直している。官の務めも医の務めも、書簡の上でひとつに重なっていた。
昼下がり、張機は市のはずれへ出た。土壁の影に鍛冶の音がひびき、干し菜が風に鳴る。露店には黍や粟の粉が袋に積まれ、高粱や黍の穂を束ねた箒が立てかけられていた。角の先で言い争う声が高くなり、人が寄って半月の形に割れる。
「順番だと言っているだけだ。鍋は一つだ、皆に行き渡るように」
「先に銭を置いたのはこっちだろう」
間に入ったのは痩せた男である。落ち着いた声で左右に掌を見せ、互いの言葉を短く受けて返す。強くも弱くもなく、喉に引っかかる角を丸めてゆく。その横顔に、張機は覚えがあった。
「仲平」
男がこちらを向き、目尻に笑みを寄せた。
「仲景。まさか、こんな所で顔を合わせるとは思わなかった」
言い争いは男の手振りで収まっていった。鍋は二つに分け、列を交互に進める。男は周りへ礼を言い、張機の前に立つ。
「変わらないな」
「お前の方こそ。昔と同じく、人と人の間を和でつないでいる」
二人は近くの小さな酒肆に入った。黍の粥の匂いと薄い酒の香りが混じり、炭の火が丸く揺れている。王誼は盃を指で転がし、笑って言った。
「お前と顔を合わせると昔のままに戻った気がするな。伯求も、伯達も、みんなそろっていた頃に」
「あの庭先のことを思い出すな。白布の下で誓ったこと、私も今も忘れてはいない」
王誼はうなずき、酒をひと口含む。
「俺はもう声を張らない。官を正すなんて柄じゃないさ。ただ、人と人の間で和をつくることぐらいは出来ると思ってきた。だが、こうも世がざわつくと、長くは続けられそうにない」
張機はわずかに笑みを含ませて言う。
「それでも人は和を求める。お前がいれば、場が和らぐ。私は医の理を学んだが、人の心を和らげる術は、お前から教わった」
王誼は盃を置き、ふっと肩を竦めた。
「言うようになったな。仲景も」
張機が返すより早く、戸口から急いた足音が割って入る。
「先生、吏舎から使いが。急患です。寒と熱が交互、口が苦いと泣いています」
王誼は立ち上がり、手を振った。
「行け。俺はここで待つ。戻れたら、また飲もう」
張機はうなずき、医箱の革紐を締め直す。外へ出ると風はいっそう冷たく、砂を含んで頬を打った。足音が敷石に急かされ、辻を曲がると、知らせの通り人垣ができている。
急患の家は市の裏の狭い横道にあった。土壁の内は薄暗く、寝台の影で青年が身を折っている。額は熱く、背には寒の戦慄が走り、目は光を避けた。口苦しく、咽は乾くという。胸と脇に手を当てれば張りがあり、息は浅い。脈は弦のように張り、時に速く、時に遅い。
母が手を揉みながら言った。
「今朝は寒がって布を増やしましたが、昼には熱くて布を払い、汗をわずかに。夜にはまた寒いと震えます。粥は二さじ、すぐ戻しました」
張機は静かにうなずき、舌の色と潤いを確かめ、口内の乾きを見る。中央はやや乾き、左右に湿が寄っていた。腹を軽く叩けば、右脇が先に嫌がる。灯の位置を動かし、青年の息のひと山ひと谷を数えてゆく。
同行の書吏が囁く。
「桂枝の汗か、承気の下しでございましょうか」
「どちらも違う。表でも裏でもない。半ば表にあり、半ば内にある。汗をつよく求めれば衰え、下せば中がほどけて戻る」
青年の胸脇へ掌をすべらせ張りのほどを測ると、張機は医箱を開き、草を一つずつ並べた。
「柴胡を主とし、黄芩で熱をおさえ、半夏でつかえをほどき、参で気を支え、甘草で和し、生姜と棗で内を温める」
母が不安げに見つめる。
「汗は出さずに、熱も下げずに、治るのでしょうか」
「道はひとつではない。山を越えるにも、谷から回ることがある。今は胸脇の張りをほどき、邪を外でも内でもない道からゆっくり追い出す」
煎じ薬の支度をしている兵へ、張機は火加減を示し、器を湯で一度すすがせてから草を入れさせた。
「鍋は弱火で長く。沸き立てぬよう、湯の面を保て。香が立ったら碗に三度分ける。熱すぎず、冷ましすぎず、口を潤しながら少しずつ」
初めの碗を青年に含ませる。喉が拒むように狭まるが、半夏の香が次第に下へ落ちていった。二碗目で額の汗が珠になり、胸の張りがゆるみ、息が深く入る。三碗目には目の上の重みがわずかに浮き、青年は布の上に指を伸ばして脇をさすった。嫌がりの強さが引いている。張機は脈をとり、弦の張りが和んだのを確かめた。
「今夜は粥を薄く、量は少なく、湯を枕元に置け。汗を求めず、汗がにじむに任せて身を冷やすな。明け方にまた来る」
母は深々と頭を下げ、書吏は震える手で記す。
『半表半裏、胸脇苦満、口苦、咽乾。柴胡、黄芩、半夏、参、甘草、生姜、棗。弱火、三服、夜半の湯。』
外へ出ると、冬の匂いが肺に落ちて澄んだ。張機は空を見上げ、夜の星の少なさを数える。市のほうから炭の明かりが線のように伸び、風が乾いた袋を鳴らした。火の温みを求め、酒肆へ戻る道を急ぐ。
戸を開けると、王誼が温炉のそばに坐していた。湯気が立ち、盃が静かに光る。
「戻ったな」
「戻った」
張機は医箱を下ろし、炭に掌をかざした。王誼は湯を碗に注ぎ、差し出す。
「顔に粉がついている。相変わらず、土と書の匂いがする」
「今夜の病は、表でも裏でもなかった。胸と脇の間に、邪が居座っている。汗を出させても、下しても駄目だ。道を作って出してやるしかない」
王誼は目を細めて笑い、酒をあおった。
「そういう道を探す時の顔をしている。昔と変わらない」
「変わるものもあれば、変わらぬものもある」
短い静けさが落ち、炭がぱちりと鳴る。王誼は火から視線を外し、低く言う。
「仲景。俺はもう、ここには長く留まらない」
「どこへ」
「決めてはいない。決めないまま動くほうが、今はいい。人の間に和をつくるってのは、場所に根を張ることではないのかもしれない」
張機は王誼の横顔を見た。灯が頬の骨を細く照らし、瞳の中の明かりが揺れている。
「仲平。お前の和は無駄じゃない。私も何度も救われた。その和が消えても、私は書き残す。お前のことも」
「俺のことは書かなくていい。和はその場であればいい。消えてもいいものさ」
「消えてよいものと、残さねばならぬものがある。私は後者を記す」
「なら、俺は前者を守る」
王誼は盃を置き、ふっと笑った。
「仲景。お前は理を記す。俺は人の間に和を残す。やり方は違うが、どちらも先へつながる道だ」
張機は静かに答える。
「道は別れても、向かう先は同じだ。お前はずっと私の友だ」
王誼は答えず、ただ小さくうなずく。火は小さくなり、炭の赤が奥へ引いた。王誼は立ち上がり、戸口に向かう。
「会えて良かった。明け方に発つ。見送りはいらない」
「分かった」
戸が開き、冷気が灯の揺れを長くした。王誼の影は廊に伸び、やがて闇に溶ける。
張機は火の名残を見つめ、しばし動かなかった。湯の表に揺れる灯が、残された言葉のように胸へ刺さる。筆を執れば消えてしまう温もりもある。だが書かずにいれば、形を留めぬまま消える。張機はそっと筆を取り、札に墨を落とした。筆先の黒は夜と交わり、灯の揺れとともに沈んでゆく。
やがて闇が薄らぎ、鳥の声がかすかに響くころ、張機は再び医箱を肩に掛けた。
まだ東が白まぬ刻、張機は例の家へ向かった。青年は汗をうっすらまとい、胸の張りは軽く、口の苦みは薄いと言う。脈は弦がほどけ、指先に温が戻っている。張機は二服を加え、鍋の火を再び弱く保たせた。
戻る道すがら、人の流れがひとかたまりで北へ向かっていた。荷を背負い、肩に子を負い、目を伏せて歩く群れの端に、見慣れた肩の線が見えた。王誼に似ていた。張機は足を止めたが、声は出さなかった。肩の線は振り向かず、群れの中へ沈んでいった。
吏舎に着くと、張機は筆を取る。札は冷たく、墨は静かに広がった。
『半表半裏。寒熱往来、胸脇苦満、口苦、咽乾。汗らせず、下さず。柴胡を主とし、黄芩、半夏、参、甘草、生姜、棗で和す。弱火、三服。夜半に湯。翌朝に脈和す。』
筆先が止まり、余白が息をした。張機はさらに行を割き、短く記す。
『王誼、来たりて、和を語る。去ると言う。友として、ここに名を留む。』
書吏が戸口に立っていた。張機は目を上げる。書吏は何も言わず一礼して去った。
昼、青年は起き上がった。胸の張りは消え、熱と寒の往復は止まり、粥を半碗受け入れる。母は碗を握りしめ、涙を拭いた。謝の言葉は途切れ途切れで、張機はうなずいて次の家へ向かう。
夕刻、風はまた砂を運んだ。張機は几に戻り、朝の行に細い追記を足した。
『胸の張り、半ばに居す。道をつくりて出すべし。』
外で更鼓が鳴る。湯気は見え、理は見えぬ。見えぬものを渡すために、見えるものを書き留める。王誼の和は消えてよいと言った。だが和を生んだ人の影は、書けば薄れ、書かねば途絶える。張機は灯を絞り、筆を置いた。医箱の留め金を確かめ、枕元の湯に手をかざす。胸の内では、去る者と残る者の足音が交わり、やがて遠のいていった。翌朝の冷えと、次の札の白さが、同じ方角を指している。




