20 診帝
空は低く垂れこめ、冬の冷えが街路の石を封じていた。敷石には霜が残り、馬蹄の跡は白く固まっている。宮門の衛士は息を白くし、槍の鋒に薄氷がちらと光った。朝でありながら、都の中心は夜の底のように沈んでいる。
内殿の広間もまた張り詰めていた。梁の高みから垂れる帷幕は動かず、香炉から昇る煙だけがゆらりと揺れる。臣下は列を作り、誰も声を発さぬ。薄暗い光のうちに、帝の御座を囲む屏風が立てられ、その奥からは若い声が折々に咳を洩らすのが聞こえていた。
献帝・劉協は、寒熱が交互に押し寄せ、夜も安らげず、食も進まずにいる。脈は乱れ、胸の痞えを訴えていた。宮廷に集められた医らは符と祈祷を繰り返したが、病状は日に日に悪化している。ついに殿中で議論が起こった。
宦官の一人が声を高める。
「これは天の怒りでございます。巫を招き、壇を築き、祭を行うべきでありましょう」
官医の一人がうなずいた。
「符を焼き、水に溶かし、帝に服していただけば、必ずや熱は退くはず」
しかし別の官医が低くつぶやく。
「符はすでに幾度も服されております。祈祷も重ねました。それでも」
言葉は尻すぼみになり、広間の沈黙をいっそう重くした。香の煙さえ息を潜めたかに見え、董承がその隙を縫うように一歩進み出て、膝を折る。
「帝の御身は日に日に衰えております。効かぬものを続ければ命を損ねます。新たな手を探さねばなりません」
宦官が鋭い目を向けた。
「まさか、外の医を呼ぶつもりか。帝の枕辺を他人に委ねるなど、乱心の沙汰だ」
緊張が走り、文官たちは息を殺す。そのとき、列の端に控えていた曹操が、ゆるやかに口を開いた。声は低いが、磨かれた刃のように広間の隅々へ届く。
「符も祈りも効かぬことは、すでに見てきた。南陽の張仲景は草で兵を救い、流民を甦らせた。私はその手をこの目で確かめている。帝を救うに足る」
ざわめきが波のように広がった。
「草で帝を治すと申すか」
「祈りを疎かにしては、命を損なうのでは」
宦官たちは顔をしかめ、互いの目を探る。やがて屏風の向こうから、かすれながらも明瞭な声が落ちた。
「召せ」
一言であった。だが殿中の空気は震え、列の背にまで冷たいものが伝った。
使者が走り、門が開かれた。命は下り、走者は駆け出してゆく。霜の残る敷石を打つ足音が遠ざかるにつれ、広間の息づかいも細くなる。都はまだ凍りついていたが、呼ばれる名はすでに定まっていた。
そのころ張機は、巡診の記録を几にひろげ、墨の濃い字を重ねていた。そこへ急報が届く。
「帝の御前にて診よとのこと。すぐに参れ」
書吏は蒼ざめている。だが張機は筆を置き、静かに立ち上がった。
「帝であろうと人である。理に変わりはない。行こう」
医箱を肩にかけ、印札を帯に収め、二人の兵を従えて歩き出す。宮に近づくほど人声は遠のき、沈黙が厚く重なっていった。冷気は衣の隙から入り、足の裏にまで沁みる。
「南陽の張仲景、参じました」
殿に入ると、香の煙が幾重にも層をなし、空気は濃く澱んでいた。柱は冷たく、霜がまだ消えていない。臣下の列は固まり、誰も正面を見ぬ。曹操と董承だけが目を前に据えていた。
張機は定まった礼を尽くし、屏風の中へ進んだ。誰かが小さく息を呑む。屏風の内は静かで、帝が背凭れに身を預けている。額にはうっすらと汗、頬は蒼白、唇は乾いて紅が勝ち、脈は浮いて速い。張機は袖を整え、帝の手首に指を置いた。
脈の鼓は浅い。邪は皮膚の表にあり、熱はその門で暴れている。張機は静かに告げた。
「太陽の病。汗をもってこれを解すべし」
屏風の外で宦官が声を荒げる。
「汗を出させると申すか。帝を衰えさせる策を、帝の前で言い放つとは」
張機は揺るがない。
「弱るのは病を置くゆえです。汗は邪を外へ出す道。理を疑えば、救える命も遠のく」
帝は張機の顔をじっと見た。若い瞳には熱と冷えの揺らぎがあり、その奥に冴えが宿る。
「朕は天下の主である。主の身に、そなたの言う理が通ずるか」
張機は口元をわずかに和らげた。
「主もまた人。寒に侵され、熱に苦しみます。理は位に従わず、身に従います」
帝は短くうなずいた。
「任せる」
張機は医箱を開き、桂枝・芍薬・生姜・大棗・甘草を取り出す。秤で量を測り、器に水を張った。香炉の火を移し、薬を煎じ始める。薬草が煮える匂いは甘くも辛く、湿った殿内をゆるやかに満たす。
「これは汗を和らげ、寒を退く。屏風を寄せ、隙を塞げ。衣を重ね、火を近くに」
従者たちは慌てて動く。宦官はなお不安げに顔を見合わせる。
「本当に汗を」
「帝の身が弱れば、誰が責を負う」
張機は一瞥もせず、鍋の音にだけ耳を澄ませていた。
やがて椀に注がれた薬は淡く色づき、湯気を立てる。張機は帝に差し出した。
「少しずつ、口を乾かさぬように」
帝は椀を受け、口に含む。草の香りが喉を通り、熱が胸の内でほどけていく。時が落ち、殿の物音は薄れた。額に玉のような汗が浮き、首筋を伝って衣に吸われる。肩のこわばりはほどけ、呼吸は深まり、胸の痞えは和らいだ。張機は脈を取り、浅さが退いてゆくのを指先で確かめる。
屏風の外で、宦官がためらいの足音を立てた。董承は腕を組み、曹操は遠い目をして一点を見ている。やがて帝は衣の前をゆるめ、静かに息を吐いた。
「寒が引いた」
張機がうなずく。
「邪は外へ出ました。今は渇きを追わず、湯を少し含ませ、身を冷やさぬこと。汗は道であり、道が閉じれば身は静まります」
帝の頬に薄紅が差し、視線が澄んだ。わずかな笑みが浮かぶ。
「そなたの医は確かである。都に留まり、朕の側にあって務めよ。朕の身も、朕の国も、そなたの力を借りたい」
張機は深く礼をした。だが声は揺るがない。
「帝の御身は草で癒せます。汗で邪を逐い、火で身を温め、食を慎み、息を整える。私はそれを怠りません。しかし、国の病は草と汗では癒えません。人を救うは医の務め。天下を救うは政の理。道を違えれば、どちらも損なわれます」
殿に衝撃が走った。宦官は目を見開き、文官は息を呑む。曹操の口元だけが動き、笑みとも影ともつかぬものが浮かんだ。
帝は沈黙し、やがて深くうなずく。
「よい。人にはそれぞれの務めがある。朕は朕の務めを果たす。そなたはそなたの務めを果たせ」
張機は言葉を添えた。
「理は見えませぬ。ゆえに記し残すしかないのです。今日の脈、今日の汗、今日の火。その一つひとつが、やがて見知らぬ者を救いましょう」
帝が笑みを深める。
「記せ。朕もまた、朕の務めを記す」
張機は深く一礼し、薬具を収めた。屏風の奥にはまだ帝の息遣いがあり、外には凍てついた空気が待っている。
屏風の外へ出ると、殿の空気はわずかに変わっていた。緊張の層が剥がれ、静けさが柔らかい。曹操が一歩進み出て言った。
「見事だ」
張機は応じた。
「身に従いました」
曹操は短く目を細め、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「惜しいことだ、仲景。だが、お前の道は確かだ」
それ以上は言わず列に戻る。董承は小さく息をつき、宦官は互いに目を合わせて身を引く。張機は深く一礼し、殿を辞した。外の空気は冷たく、汗の蒸気は扉を出てすぐに消える。
吏舎への道すがら、張機は胸に言を刻む。帝の病は治せるが、国の病は治せない。その隔たりが筆を重くし、記録を促した。帳を開き、筆を走らせる。
『太陽病。汗にて解す。桂枝の要、衣と屏風、火と香、湯の温、汗の量、汗後の慎。帝といえども理に従う。』
墨の香がひろがり、灯が揺れた。張機は深く息を吐く。理は見えぬ。だが湯気は見える。湯気に理を乗せて後へ渡すこと、それが医の務めである。国の病を癒せぬとしても、人の病を癒す理を残す。その道だけは、どの夜にも曇らなかった。




