表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/23

20 診帝

 空は低く垂れこめ、冬の冷えが街路の石を封じていた。敷石には霜が残り、馬蹄の跡は白く固まっている。宮門の衛士は息を白くし、槍の鋒に薄氷がちらと光った。朝でありながら、都の中心は夜の底のように沈んでいる。


 内殿の広間もまた張り詰めていた。梁の高みから垂れる帷幕いばくは動かず、香炉から昇る煙だけがゆらりと揺れる。臣下は列を作り、誰も声を発さぬ。薄暗い光のうちに、帝の御座を囲む屏風が立てられ、その奥からは若い声が折々に咳を洩らすのが聞こえていた。


 献帝・劉協は、寒熱が交互に押し寄せ、夜も安らげず、食も進まずにいる。脈は乱れ、胸の痞えを訴えていた。宮廷に集められた医らは符と祈祷を繰り返したが、病状は日に日に悪化している。ついに殿中で議論が起こった。


 宦官の一人が声を高める。


 「これは天の怒りでございます。巫を招き、壇を築き、祭を行うべきでありましょう」


 官医の一人がうなずいた。


 「符を焼き、水に溶かし、帝に服していただけば、必ずや熱は退くはず」


 しかし別の官医が低くつぶやく。


 「符はすでに幾度も服されております。祈祷も重ねました。それでも」


 言葉は尻すぼみになり、広間の沈黙をいっそう重くした。香の煙さえ息を潜めたかに見え、董承がその隙を縫うように一歩進み出て、膝を折る。


 「帝の御身は日に日に衰えております。効かぬものを続ければ命を損ねます。新たな手を探さねばなりません」


 宦官が鋭い目を向けた。


 「まさか、外の医を呼ぶつもりか。帝の枕辺を他人に委ねるなど、乱心の沙汰だ」


 緊張が走り、文官たちは息を殺す。そのとき、列の端に控えていた曹操が、ゆるやかに口を開いた。声は低いが、磨かれた刃のように広間の隅々へ届く。


 「符も祈りも効かぬことは、すでに見てきた。南陽の張仲景は草で兵を救い、流民を甦らせた。私はその手をこの目で確かめている。帝を救うに足る」


 ざわめきが波のように広がった。


 「草で帝を治すと申すか」

 「祈りを疎かにしては、命を損なうのでは」


 宦官たちは顔をしかめ、互いの目を探る。やがて屏風の向こうから、かすれながらも明瞭な声が落ちた。


 「召せ」


 一言であった。だが殿中の空気は震え、列の背にまで冷たいものが伝った。


 使者が走り、門が開かれた。命は下り、走者は駆け出してゆく。霜の残る敷石を打つ足音が遠ざかるにつれ、広間の息づかいも細くなる。都はまだ凍りついていたが、呼ばれる名はすでに定まっていた。


 そのころ張機は、巡診の記録を几にひろげ、墨の濃い字を重ねていた。そこへ急報が届く。


 「帝の御前にて診よとのこと。すぐに参れ」


 書吏は蒼ざめている。だが張機は筆を置き、静かに立ち上がった。


 「帝であろうと人である。理に変わりはない。行こう」


 医箱を肩にかけ、印札を帯に収め、二人の兵を従えて歩き出す。宮に近づくほど人声は遠のき、沈黙が厚く重なっていった。冷気は衣の隙から入り、足の裏にまで沁みる。


 「南陽の張仲景、参じました」


 殿に入ると、香の煙が幾重にも層をなし、空気は濃く澱んでいた。柱は冷たく、霜がまだ消えていない。臣下の列は固まり、誰も正面を見ぬ。曹操と董承だけが目を前に据えていた。


 張機は定まった礼を尽くし、屏風の中へ進んだ。誰かが小さく息を呑む。屏風の内は静かで、帝が背凭もたれに身を預けている。額にはうっすらと汗、頬は蒼白、唇は乾いて紅が勝ち、脈は浮いて速い。張機は袖を整え、帝の手首に指を置いた。


 脈のつづみは浅い。邪は皮膚の表にあり、熱はその門で暴れている。張機は静かに告げた。


 「太陽の病。汗をもってこれを解すべし」


 屏風の外で宦官が声を荒げる。


 「汗を出させると申すか。帝を衰えさせる策を、帝の前で言い放つとは」


 張機は揺るがない。


 「弱るのは病を置くゆえです。汗は邪を外へ出す道。理を疑えば、救える命も遠のく」


 帝は張機の顔をじっと見た。若い瞳には熱と冷えの揺らぎがあり、その奥に冴えが宿る。


 「朕は天下の主である。主の身に、そなたの言う理が通ずるか」


 張機は口元をわずかに和らげた。


 「主もまた人。寒に侵され、熱に苦しみます。理は位に従わず、身に従います」


 帝は短くうなずいた。


 「任せる」


 張機は医箱を開き、桂枝・芍薬・生姜・大棗・甘草を取り出す。秤で量を測り、器に水を張った。香炉の火を移し、薬を煎じ始める。薬草が煮える匂いは甘くも辛く、湿った殿内をゆるやかに満たす。


 「これは汗を和らげ、寒を退く。屏風を寄せ、隙を塞げ。衣を重ね、火を近くに」


 従者たちは慌てて動く。宦官はなお不安げに顔を見合わせる。


 「本当に汗を」

 「帝の身が弱れば、誰が責を負う」


 張機は一瞥もせず、鍋の音にだけ耳を澄ませていた。


 やがて椀に注がれた薬は淡く色づき、湯気を立てる。張機は帝に差し出した。


 「少しずつ、口を乾かさぬように」


 帝は椀を受け、口に含む。草の香りが喉を通り、熱が胸の内でほどけていく。時が落ち、殿の物音は薄れた。額に玉のような汗が浮き、首筋を伝って衣に吸われる。肩のこわばりはほどけ、呼吸は深まり、胸のつかえは和らいだ。張機は脈を取り、浅さが退いてゆくのを指先で確かめる。


 屏風の外で、宦官がためらいの足音を立てた。董承は腕を組み、曹操は遠い目をして一点を見ている。やがて帝は衣の前をゆるめ、静かに息を吐いた。


 「寒が引いた」


 張機がうなずく。


 「邪は外へ出ました。今は渇きを追わず、湯を少し含ませ、身を冷やさぬこと。汗は道であり、道が閉じれば身は静まります」


 帝の頬に薄紅が差し、視線が澄んだ。わずかな笑みが浮かぶ。


 「そなたの医は確かである。都に留まり、朕の側にあって務めよ。朕の身も、朕の国も、そなたの力を借りたい」


 張機は深く礼をした。だが声は揺るがない。


 「帝の御身は草で癒せます。汗で邪をい、火で身を温め、食を慎み、息を整える。私はそれを怠りません。しかし、国の病は草と汗では癒えません。人を救うは医の務め。天下を救うは政の理。道を違えれば、どちらも損なわれます」


 殿に衝撃が走った。宦官は目を見開き、文官は息を呑む。曹操の口元だけが動き、笑みとも影ともつかぬものが浮かんだ。


 帝は沈黙し、やがて深くうなずく。


 「よい。人にはそれぞれの務めがある。朕は朕の務めを果たす。そなたはそなたの務めを果たせ」


 張機は言葉を添えた。


 「理は見えませぬ。ゆえに記し残すしかないのです。今日の脈、今日の汗、今日の火。その一つひとつが、やがて見知らぬ者を救いましょう」


 帝が笑みを深める。


 「記せ。朕もまた、朕の務めを記す」


 張機は深く一礼し、薬具を収めた。屏風の奥にはまだ帝の息遣いがあり、外には凍てついた空気が待っている。


 屏風の外へ出ると、殿の空気はわずかに変わっていた。緊張の層が剥がれ、静けさが柔らかい。曹操が一歩進み出て言った。


 「見事だ」


 張機は応じた。


 「身に従いました」


 曹操は短く目を細め、口元にかすかな笑みを浮かべた。


 「惜しいことだ、仲景。だが、お前の道は確かだ」


 それ以上は言わず列に戻る。董承は小さく息をつき、宦官は互いに目を合わせて身を引く。張機は深く一礼し、殿を辞した。外の空気は冷たく、汗の蒸気は扉を出てすぐに消える。


 吏舎への道すがら、張機は胸に言を刻む。帝の病は治せるが、国の病は治せない。その隔たりが筆を重くし、記録を促した。帳を開き、筆を走らせる。


 『太陽病。汗にて解す。桂枝の要、衣と屏風、火と香、湯の温、汗の量、汗後の慎。帝といえども理に従う。』


 墨の香がひろがり、灯が揺れた。張機は深く息を吐く。理は見えぬ。だが湯気は見える。湯気に理を乗せて後へ渡すこと、それが医の務めである。国の病を癒せぬとしても、人の病を癒す理を残す。その道だけは、どの夜にも曇らなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ