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01 木主

 朝の光が丘の起伏をなぞり、畦の土は黒くやわらいでいた。鍬の刃が入るたび土は静かに返り、ほどけた息が地面から立つ。青い麦は風を受けていっせいに伏し、また起きて、遠目には水の面のように揺れた。白壁は日を返し、軒先の麻縄には晒し干しの衣が軽く鳴る。南陽の村の営みは、昨日と同じ手順で、今日を迎えていた。


 だがその中に、ひとつだけ異なる声が混じっている。張家の門には白布が掛けられ、哭の声が邸を覆っていた。


 堂の中央に柩が据えられ、その前に白木の木主が立つ。香は薄くたちのぼり、帷の端を掠めて流れた。粗麻の衣を着た親族は列をなし、蓆に膝をつき、胸を打って泣いている。泣き声は梁に返り、地に落ち、また起こった。木主の白さだけが、何ひとつ揺れずに残る。


 張機ちょうき、字を仲景は、その列に加わりながら、ただ木主を見据えていた。頬は乾き、唇は固く結ばれている。幼い身でありながら、その姿には凍った石のような硬さがあった。


 泣かぬは不孝と囁く声が背に刺さる。けれど張機は動かなかった。涙を流しても父は戻らぬ。胸を裂いて泣いたところで、木主の前に帰るのは己の声だけだ。忘れぬこと、刻むこと、それが自分にできる孝だと信じている。白木の色が眼の奥へ沈み、じりじりとうずく。


 兄の張靖ちょうせいは、白の衰絰さいてつを戴き、柩の傍らに坐していた。痩せた頬に淡い影が差し、背は真っ直ぐに保っていても、指先には力が入らぬのが見える。香の間に混じる薬の匂いが、ふと鼻を刺す。誓いの声は立派であった。だが張機の耳に残ったのは、その合間に洩れるかすかな息遣いである。胸の奥でひゅうと鳴る息を、兄は誰にも悟られぬように呑み込んでいる。病弱の身で家督を受ける。その重さが、言葉の端を冷たく擦った。学を守れば家は続く。だが、兄の憂いはどうなるのか。その問いは冷たく、胸の底に沈んで離れない。


 哭声が次第に細くなると、庭を渡る風が匂いを運んできた。供物の麦粥と塩漬けの菜。冬を越した青菜は酸を帯び、涙に濡れた麻衣の匂いと混じって喉を曇らせる。悲しみが満ちるほど、腹の空きはなお明らかになる。身体の理は、嘆きとは別の道を歩むのだと、張機は知った。


 「仲景さま、どうか一口でも」


 年老いた婢女はしためが器を差し出した。張機は受け取ったが、喉が固く、粥を飲み込めなかった。器を両手で抱えたまま、目を伏せている。湯気は指の間からほどけ、香の煙にまぎれて消えた。


 その時、奥から母の声がした。


 「仲景、こちらへおいで」


 堂横の室は薄暗く、香の煙が白布に沿って流れていた。母は木主に向かい、背筋を伸ばして坐している。疲れは顔に刻まれていたが、その瞳に曇りはない。哭の渦から一歩離れたこの暗がりだけが、かえって生々しい。張機は母の肩の線を見て、張家の内に残ったものの重さを見た。


 「泣かずともよいのです」


 母は振り向かずに言った。声は柔らかく、包むようであった。


 「人には人の孝があります。お前はよく見て、よく覚えておればよいのです。それも立派な孝なのですよ」


 張機は深く頭を下げる。母は静かに手を伸ばし、息子の袖にそっと触れた。言葉を重ねずとも、その温もりだけで十分だった。帷の外の哭声よりも、母の声と手の温かさの方が、張機の胸に深く染み入る。


 日が傾くごとに、客は来ては去り、去っては来た。郡の役人、郷の三老、父の友。誰もが決まりきった言葉を口にして帰っていく。履が石を打つ音、香を継ぐ音、盆の縁が触れる音が、絶えず邸を巡った。


 「惜しい人をなくされました」

 「徳は尽きず」


 どの声も似ていた。だが張機は耳を澄ませた。重い声、軽い声、目を正面から見る声、帷の影に視線を逃がしたままの声。それぞれに人の心が混じっていた。悲しみの顔を借りながら、利を量る息もある。涙の下に、真実の悼みを隠す者もいる。少年はそれをひとつひとつ拾い、心の帳に書きとめた。


 供物を運んでいた従者が突然、盆を落とした。乾いた音が土に響き、粥の汁が散った。従者はその場に膝をつき、顔を真っ青にして汗を流している。怒声が飛ぶより早く、肩が小刻みに揺れた。


 「朝から、何も入れておりませんで……」


 声も唇も、同じように震えている。年長の家僕が荒い声で叱り、すぐに粟粥を持たせ、陰に座らせた。従者は器に手を伸ばしながら、なお頭を下げ続ける。


 張機は従者を見つめた。空腹か、不安か。いや、どちらもだ。泣く日にも腹は減る。身体の理は悲しみとは別に動く。少年の眼はそれを確かに覚えた。人は一つの心だけで生きてはいない。


 庭の隅で、白髪の老人が張機を呼ぶ。


 「ひでりの折、父君が倉を開けて村を助けた。そのことだけは、皆、忘れぬ」


 それだけを言い、袖で目を拭って立ち去った。


 短い言葉は、長い影を落とした。張機の胸に市の記憶がひらく。宛の市は騒がしかった。竹が風に鳴り、秤の皿が乾いた音を返す。白粉の壺、絹糸、干し肉、塩の塊、鉄の鏃と鍬の刃。石に文字を刻む槌の音が拍を刻んだ。子どもの張機は父の歩幅を追いながら、その音を耳で覚えていた。今思い返せば、その音はどれも遠い。遠いが、掌の中に温度まで残っている。


 陽は西へ傾き、庭の影が長くなる。客の出入りが途切れた折、戸口が静かに開き、族長が譜牒を広げた。祖父や曾祖の名が並び、墨は古びている。張靖に家督が託され、鍵束が渡された。金具の音は細く軽かった。その軽さは、夜の底へ沈んでいくように聞こえる。


 裏手の倉では、縄が新しくわれていた。徴発に備え、麦も粟も数を記されている。洛陽の風聞も、遠いこととして誰もが囁いた。声は潜められ、火の粉を恐れるように焚き火に視線が落ちる。炎の色が揺れるたび、人の心も揺れた。


 暮れが深まるにつれ、庭に置かれた灯から油の匂いが立ちのぼった。哭の声はやみ、蓆の擦れる音、器の触れる音、宛の城下から遅れて届く更鼓の音が交じる。張機は木主を見据えた。白さは闇に重く、眼に留まり続けた。


 夜風に鍛冶場の槌音が混じる。郡の倉から矢羽根が束で出ていき、若者の名が控えられている。戦の声ではない。だが世の音は日に日に固くなっていた。子どもにも、それは分かった。柔らかな日差しの底に、刃のようなものが潜む。


 その夜、奥の間で張靖が弟を呼んだ。


 「張家は儒をもって世に立つ家。おまえも学を怠るな」

 「はい」

 「人を正す道と、人を救う術。どちらが先かと問うなら、道が先だ。道理なきところに術は根を張らぬ」   

 「……はい」


 正しい言葉ではあるのだろう。だが、それで兄の憂いは癒えるのか。張機は喉に上がった言葉をまた飲み込んだ。張靖の呼吸は細く、押さえた咳が闇に溶けた。灯の下で胸を張るほどに、背の内側で崩れぬよう踏みしめているのが伝わる。家を背負うのは声だけではない。身を保つことからして、すでに戦である。


 張靖は盃を指先で転がし、小箸で灯芯を摘んだ。炎が丸く立ち直る。


 「人は言葉で動き、物で生きる。粥を炊くのは言葉ではない。だが言葉なきところに人は集まらぬ。どちらも忘れるな」

 「忘れません」

 「よし。下がれ。灯を落とせ」


 灯が細く針になり、やがて消えた。闇が音を吸い、兄の呼吸だけが残る。張機はその拍に自分の息を合わせた。家の闇と、己の闇が一つに重なる。


 廊へ出ると、白布が闇に揺れ、庭の木主が月に照らされて立っていた。兄の誓い、従者の震える唇、遠い風聞、そして憂い。そのすべてが胸に沈んだ。


 庭の隅の梅が、ひとつ、音もなくほどけて落ちた。張機は拾い上げ、掌にのせる。花は小さく冷たかった。だがすぐにぬくもりで溶けた。少年は花を木主の前に供え、深く一礼した。声は出さぬ。出さぬことで守れる沈黙もある。


 母の言葉が胸に返る。目が覚えていれば、それも孝だ。張機は月下で目を閉じ、静かに息を整えた。目で見る。耳で聞く。鼻で匂いを嗅ぐ。肌で風を受ける。そうして、忘れない。


 やがて季節は、柔らかなものとなって家々を包む。硬きを包み、痛みを薄め、それでも消さずに残す。翌朝も、また同じように来るだろう。


 張家の家督は張靖の肩に。沈黙と問いは張機の胸に。南陽の春は、変わらず柔らかだった。



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