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18 餃子

 洛陽の西に薄い雲がたなびき、日の輪は冷たい光だけを落としていた。焼け野を渡る風は骨まで沁み、地を這う霜は白く硬い。瓦礫の間にはまだ煙の匂いが残り、折れた梁は黒く焦げている。冬は音を削り、人の声まで短くするものだと、張機は思った。


 野営に適う空地を見つけると、兵が手早く焚火を起こし、書吏は戸口の片隅に板を渡して道具を並べた。鍋は二つ、大きい方は湯を沸かし、小さい方は薬草を煎じる。周りには流民がまばらに集まり、子らは指先をこすり合わせながら火を覗き込んだ。火の傍へ寄るほど、肩の角が落ち、息が少し長くなる。


 「凍える者を先に」


 張機はそう言って、油の盃を火にかざした。


 「雪を擦り付けてはならない。冷えの刃が深く入るだけだ」


 母親が袖口で子の手を包もうとすると、張機は布の端をとって見せた。


 「この力で巻きなさい。強すぎても弱すぎてもいけない」


 母はうなずき、子はうっすら笑って小さな歯を見せる。笑いは熱ほどには人から人へ移らないが、火のそばでは幾分か早い。


 兵のひとりが黍餅を割って差し出した。


 「先生、腹の虫の言うことも、紙より早いようで」


 張機は笑みを返す。


 「腹が鳴れば理も鈍る。まず温め、次に整える」


 風はまだ鋭い。夕刻が早足で迫り、影が長く伸びた。野営の輪の外から、肩に布をかけ、胸を押さえた老人が現れる。張機が脈に触れると、鼓動は弱く、呼気は浅い。冷えに飢えが重なっている。


 「麦門冬を少し、甘草を少し」


 書吏が袋から草を取り、指示どおり秤にのせた。鍋の湯に落とすと、甘い香りが風の向きを変え、輪の外側にいた者たちが一歩ずつ近づく。湯気が立つだけで、人は救われたような顔をする。煎じ薬を待つ間にと、張機は焚火を見て言った。


 「皮を練り、草を仕込む。口から行く薬もある」


 兵が首をかしげる。


 「薬を食べるので」

 「食に薬を借りるのだ。同じ火で腹を満たし、身を癒す」


 張機は書吏に麦粉の袋を持たせ、左手で水を少しずつ落とし、右手で粉をまとめ始めた。寒さで指がかじかむ者は、火のそばに移り、代わりに別の者が捏ねを継ぐ。流民の女がひとり、黍粉を少し混ぜてもよいかと遠慮がちに言った。


 「よい。皮に腰が出る」


 女の頬に赤みがさし、手の動きに力が戻る。粉の白さが黒い地面に移り、場が少し明るく見えた。


 「具はどういたしましょう」


 書吏が問うと、張機は野に目を走らせた。野蒜のびるにらが枯葉の影に隠れている。乾した菜葉の束を持っていた老人が、躊躇してそれを差し出した。


 「ありがたく借りよう。後で菜湯を返す」


 張機が菜を刻み、塩の代わりに少しの醤を溶く。


 「香りは生姜、温みは大棗。だが今日は貴重だ。皮に譲ろう」


 兵が笑い、固い顔に皺を寄せた。


 「先生、俺たちの舌は薬の味に堪えますかね」

 「堪えられる舌は、明日も戦える舌だ」


 刻んだ菜をたらいに集め、煎じた草からほんの少量を取り、汁気に合わせて混ぜた。草の名は口にせず、指先で味を見る。苦みは輪郭だけ、香りがそれを包む。張機はうなずき、粉の塊を小さくちぎって掌で丸め、棒でのばして皮を作った。女たちが目を見張る。火の側で手の冷えが戻り、働きが戻る。


 「薄くのばし過ぎると、湯の中で破れる。厚いと冷えが残る。中ほどがよい」


 女は笑って返した。


 「先生、医も皮も中ほどがよいのですね」

 「理は外へ出過ぎず、内に籠もり過ぎず、だ」


 兵の鍋に湯が大きく泡立ち、白い湯気が立ちのぼる。目の端で幼い子が覗き込み、背伸びした足が震えていた。張機は子の前で皮に具を乗せ、親指で縁を寄せて耳のように折り、湯へ落とす。


 「浮いたら一息待て。皮が息を吸って、柔らかくなる」


 子がきらきらした目で見た。


 「耳みたいだ」


 輪のそこかしこから笑いが生まれ、寒さは少し退いた。


 最初の一皿は老人へ、次に働き手へ、そして母と子へ。順を示せば、言は少なくて済む。口に運んだ兵が目を丸くした。


 「温かい。腹の底が広がるようだ」


 張機がうなずく。


 「生姜の影がそこにある。影は見えぬが温い」


 日は落ち、空の色は墨に近づいた。焚火の周りに小さな灯がいくつも点り、それぞれが小さな家のように人を包む。皮を包む手は止まらず、湯の中で耳は増えてゆく。子らは数を数え、母らは笑い、兵は警戒の眼だけを忘れなかった。眠りたい者ほど、まず腹を満たす。


 やがて、ひとりの若い兵が手の甲を見せた。


 「先生、指の先が痺れて、熱いのか冷たいのか分からぬ」


 張機は指を取り、皮膚の色と硬さを見る。


 「火に近づけ過ぎたな。温みはゆっくりでよい。油を薄く、布は軽く」


 兵は息を吐いた。


 「戦では急ぐことばかり覚えます」

 「急げば理は逃げる。理は歩くものだ」


 そのとき、野の外れで、風に乗って細い声がした。


 「符を求めよ。神の名を紙に記し、病を払う」


 張機が目をやると、痩せた男が布を広げて符を並べていた。今宵の寒さに似合わず、声だけが高い。近づきかけた子の母が、ためらいがちに足を止める。


 「先生、符は」


 張機は首を横には振らぬ。代わりに静かに言った。


 「祈りは心を温める。だが符は火にならぬ。火はここにある」


 そう言って、新しい皿を男にも差し出す。


 「腹を温めよ。火と湯が道を開く」


 男は皿を受け、目を伏せた。


 「すまぬ。喉の仕事で生きてきた」

 「喉も腹も、同じ身の内だ」


 夜気がさらに下り、星がひとつ、ふたつと顔を出す。皮を包む手は、人の数だけの癖があり、若い女の包みは小鳥の嘴のように尖り、老いた男の包みは岩のようにどっしりと厚い。鍋では耳が増え続け、湯の表面にいくつもの輪が広がった。


 書吏が帳を持って来て、焚火の明かりに目を細める。


 「先生、配った数と、草の分量を記したく」

 「よい。耳の大きさも心に残せ。次の寒さに備わる」


 書吏は苦笑し、筆を走らせた。


 「耳の大きさまで帳に記すのは、初めてです」

 「数字は明日を呼び、形は今日を忘れぬようにする」


 一息ついたところで、さっきの老人が椀を両手で抱え、近づいた。


 「先生、胸が楽になった」


 張機はうなずき、脈を再びとった。鼓動は先ほどより温みを帯び、呼気は深くなっている。


 「今夜は横になり、腹を冷やすな」


 老人は何度も礼を述べ、灯の向こうへ戻っていく。


 火の輪が広がるほど、人の声は丸くなる。兵のひとりが空を見上げ、呟いた。


 「明日は雪でしょうか」


 書吏が耳を澄ます。


 「風が湿ってきました」


 張機は鍋の湯気に顔を寄せ、草の香りの変わり目を嗅ぐ。


「今夜は早めに眠ろう。夜半の冷えが強い」


 兵はうなずき、交代の見張りの順を決めた。交代表の端に、書吏は小さく耳の印を描く。笑いがまたひとつ生まれた。


 そのとき、焚火の袂で小さな騒ぎが起こった。幼子が椀を落とし、熱い汁が手にかかったのである。母親が声を上げ、子が泣き、輪が波のように揺れた。張機はすでに立っていた。


 「冷水に手を入れるな。火から少し離し、風を当てよ。次に油を薄く、布で軽く包め」


 涙の中で子の呼吸が落ち着き、母の手から力が抜ける。張機は母の肩に手を置いた。震えは病の前触れにもなる。今は怖れを止めるのが先であった。


 「熱は皮の浅いところに止まった。明朝、皮が突っ張れば、草を少し塗る。怖れるな」


 母は深く礼をした。泣き顔は火に照らされ、うっすら汗が光っている。


 鍋の耳はなお増え続ける。兵が数を数え、子らがそれに声を合わせる。二十、三十、四十。数字は火の側では歌になり、歌は腹へ届く。張機は耳をひとつ手に取り、噛んだ。皮は薄すぎず、具はほどよい苦みを温みが抱いている。


 「これでよい」


 誰にともなく言うと、周りにいた女たちがほっと息をついた。


 「先生の舌は厳しいと聞いておりました」

 「舌は厳しく、腹はやさしく、だ」


 野の向こうで枯枝が鳴り、遠い蹄の音が夜をかすかに震わせた。兵が立ち上がり、耳に手を当てる。


 「通りすがりか、賊か」


 張機は首を横に振った。


 「音が軽い。荷は持たぬ。寒さから逃げる足だ」


 やがて音は遠ざかり、焚火の輪に安堵が戻った。


 皿がひと巡りしたころ、張機は煎じ薬の鍋を見やり、草の袋を確かめた。明日の分を少し取り分け、皮の残りを包んでおく。冷えればまた湯で戻せる。


 「書吏、耳と草の記録を一つにしておけ。明日の腹と身に続く」


 書吏はうなずき、帳の余白に小さく線を引いた。


 火の光が低くなり、星は増え、空は深く沈んだ。野営の輪のあちこちで、手を重ねて眠る影がある。兵の背は壁のように黒く、子の寝息は細い笛のように軽い。張機は少し離れた石に腰をおろし、湾曲した耳の皿をひとつ手元に置いた。


 「術は厨にも灯る」


 声は小さく、火の音とまじり、夜に吸い込まれた。そこへ、書吏が筆と書簡を持って来る。


 「先生、奏案を今のうちに」


 張機はうなずき、膝の上に書簡を広げた。墨は寒さで硬く、筆先は思うように走らぬ。焚火の明かりが紙の端で揺れ、影が文字を飲み込む。


 「数、症、処、そして今日のこと」


 書吏が復唱する。


 「奏案に耳も記すのですか」

 「記す。人の腹と心に届いた理は、明日の薬になる」


 兵が近づき、膝をついて声を潜めた。


 「先生、都の東で兵が集まっているとか。行き場を失った者が道を塞ぐとも」


 張機は筆を止める。


 「道は塞がっても、灯は塞がらぬ。灯があれば、人は寄る」


 兵はうなずき、見張りの持ち場に戻っていった。書簡には今日の輪が、文字の輪となって残る。


 『凍傷、咳、飢え。薬草、油、布。耳、数、順。』


 張機は墨を置き、息を白く吐いて筆先を洗った。


 「救いは名ではなく徴につく」


 言葉は火のきしみと共に夜へ吸われ、焚火の上で赤い火の粉が小さく跳ねる。


 ほどなく、雪が降り始めた。初めは粉のように軽く、やがて音もなく地に溜まり、焚火の縁で融け、湯気となって昇る。兵が肩を叩いて合図し、上に布を渡した。野蒜と韮の匂いがまだ薄く残り、湯の面には小さな油の輪がいくつも広がっている。張機はその輪を見つめ、明日の輪を思った。


 輪は食卓の輪であり、また患者の輪であり、理の輪でもある。


 「先生」


 さきほど符を売っていた男が、火の向こうから声をかけた。


 「わしも手伝いましょう。明日、子らに皮をのばすのを教える」


 張機がうなずく。


 「手があれば、火は長くもつ」


 男は照れ笑いをし、布の袖で手の汚れを拭いた。


 雪は静かに降り続き、野の音をさらに遠くする。耳は鍋の底から最後のいくつかが浮かび、眠りかけの子の口へ運ばれた。母が布を直し、兵が火を足し、書吏が帳を閉じる。夜は深いが、輪は温い。張機は耳の皿をそっと地面に伏せ、立ち上がった。


 「明朝、湯を早く。皮は少し残っている」


 書吏が承知と短く返し、兵が巡りに出る。


 空の雲は薄く割れ、冷たい星の群れが見えた。焼けた梁の黒い影が雪に沈み、崩れた土壁の向こうに、遠い光がちらりと揺れた。誰かがまた火を起こしたのであろう。灯は点と点でつながる。点が増えれば、道にも見える。張機はその光の方角に目をやり、医箱の蓋に手を置いた。腹を満たす湯と、身を整える草。どちらも同じ火で煮える。


 彼は静かに息をつき、輪の内へ戻った。雪の降りやむ気配はまだない。だが火の上に重ねた鍋は、細く歌うように鳴り続けている。



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