17 官医
洛陽の朝は、なお霜の気配を残していた。焼け跡の敷石には白い結晶がかすかに光り、崩れた門楼の影が長く伸びている。鼓楼の鼓がひとつ鳴ると、荒れ果てた城下の役舎に、眠りの底から引き戻されるように灯がともっていった。
通りには早くも人影がある。瓦礫の間から炭を拾う男、倒れた塀を薪にする女、荷車に菜を積む農夫の姿。馬の鼻息は白く、辻には冷え切った灰が薄く舞い、踏めば小さく音を立てる。かつての都は、いまや半ば廃墟と化していたが、吏舎の奥だけは一日の始まりを告げる緊張に包まれていた。
張機はその一室に坐していた。几上に並ぶ木札は十。そこには今日の巡診の割り当てが細かに記されている。孝廉に推され、官の名簿に載ってから、筆と薬とが同じ几の上に置かれる日が増えた。書吏が低く読み上げる。
「西北の村、病者多し。咳と発熱、流民混じる」
「南の郭外、凍瘡相つぐ。油乏し」
張機はうなずき、札に朱を置いた。荒れた街に人が戻るほど、病もまた集まり、今年の冷えは骨に入る。医の目に映るのは、熱や咳だけではない。飢えと疲れが脈の底に沈んでいた。
「本日の診は、ここに記し残していただきます」
書吏が書簡を差し出す。
「心得ている」
兵が二名、従者として添えられると聞かされ、張機はうなずいた。洛陽は戦乱で荒れ果て、盗賊も流民も入り乱れている。医一人では人も不安であろうと、太守の配慮であった。
そこへ、甲の音が戸口に響き、鞍を備えた馬が引かれてきた。張機は医箱を革紐で括り、記録簿を懐に収める。外に出れば、空は薄青く、焼け野にわずかに芽吹く麦が霜に震えていた。残り火の匂いが、風の底にまだ淡く残っている。従う兵が黍餅を囓りながら言う。
「先生、人の息は書簡より早うございますな」
張機は小さく笑って答えた。
「まずはその息を確かめよう」
こうして一行は洛陽の外郭を抜け、西北の村へと歩み出した。城壁の陰が遠のくにつれ、声は細り、代わって土の冷たさが足に伝わってくる。
城下を離れるほどに畑は痩せ、霜を受けた葉は黙して陽を待っていた。道は三つに分かれ、それぞれに人の群れがある。荷車を押す者、肩に幼を負う者。流民の衣は擦り切れ、靴底は泥に剥げている。瓦礫の影から焚火の煙が立ちのぼり、焦げた穀の匂いが鼻をかすめた。皆が急ぐのは、先に行けば温い場所があると知っているからである。
張機は小さな空地を見つけ、兵に合図して火を借り、書吏に鍋を用意させた。風は冷たく、喉は乾きやすい。薬より先に、温みが要る。
「まず湯を。冷えた喉に温みを与えるのが先だ」
群れが寄り、老女が進み出た。
「先生、咳が止まらず、夜も眠れませぬ」
張機は脈に指を当て、静かに告げる。
「乾きと冷えが胸にある。これを煎じて飲めば潤いが戻る」
そうして診療の手が途切れた時、焚火の向こうから澄んだ声が響いた。
「失礼ながら、道を尋ねたい」
人垣を分けて現れた青年は、痩せた体に骨格の端正さがあり、眼は清らかに澄んでいた。身なりは粗いが、言葉の立ち方が違う。兵が答えに迷うと、青年は礼を尽くして言った。
「洛陽を抜け、官路に入るには、どの道が早いでしょう」
張機は一歩進み出て答える。
「急ぐ道でも、まずは火にあたり、湯を口にしていきなさい」
青年は笑みを含んで湯を受け取り、喉を潤した。その一口が、ひととき乱世の角を丸める。
張機は焼け残った土壁の家を借り、臨時の診療所とした。壁は崩れ、屋根もところどころ破れていたが、焚火の熱を閉じ込めるには十分である。秤や匙を並べ、帳を広げた。外の騒がしさを背にして、ここだけは理が通る場所にしたかった。
「子と老いた者を先に。書吏、札を切れ」
「承知しました」
煎じ薬の湯気が立ち上ると、民の肩が和らいだ。老が呟く。
「符を焼き、水に溶かせば熱が退くと聞きましたが」
張機は穏やかに答えた。
「祈りは心を温める。だが熱を退けるのは草の理だ」
老は深くうなずき、隣の女は涙を拭った。信じるものが移れば、怖れもまた移る。
そこへ、先ほどの青年が戸口に立った。
「先生、この方も診ますか」
書吏が問い、張機はうなずく。
「入れ。手を温め、脈を見せなさい」
青年は袖を捲り、手首を差し出した。張機は脈を探り、静かに言う。
「夜更けまで筆を執り、寒を抱え、食を疎かにしてきたな」
青年の眼が驚きに揺れた。
「先生はただの医師ではないと見える。官にある御仁か」
「孝廉に推され、巡診を任じられている。だが官にあろうと、することは変わらない。人を救うことだ」
青年は笑みを含み、やや声を張る。
「医にも官があるとは。筆を執る者には新鮮に響く」
張機は微笑んだ。
「命に官も賤もない。ただ苦を減じるために理を用いる。それが医だ」
張機は青年に処方を書き与えた。紙片の上に落ちる墨の黒は、外の灰よりも確かである。
「四十に至れば眉が脱する徴がある。だが今なら救える」
青年は紙片を眺め、やがて几に戻した。
「ありがたいが、今は急ぎの道。薬は用いません」
「言葉だけでも残ればよい」
青年は戸口で振り返り、静かに言う。
「世では理より声の大きさが先に立つ。だが筆を執る者として、理を残したい」
張機は目を細めた。
「声は一時、理は久し。命を支えてこそ、理は伝わる」
青年は深く一礼し、群れに紛れていった。
張機はその背を見送り、焚火の煙が夜風に散るのを眺めた。墨の香りがかすかに漂い、今日の出会いは名を記さずとも心に刻まれることを知った。名よりも先に、生きるための理が要る。その余韻が胸に残るまま、外から叫び声が飛び込んだ。
「子が倒れた!」
母が幼子を抱えて駆け込んでくる。頬は蒼く、指先は赤黒く腫れて裂けかけていた。
「先生、この子が」
張機は即座に声を張った。
「火を寄せよ。湯を沸かせ。布を急げ」
幼子を抱き取り、母に言う。
「胸に息をあてなさい。おまえの温かさを渡すのだ」
母は必死に息を吹きかける。張機は油を温めて皮膚に塗った。
「布を」
母は涙に濡れながらうなずき、布を巻いた。幼い身の震えがやがて鎮まり、ひと息が胸の奥へ入る。やがて幼子の唇に色が戻ると、泣き声が高らかに響いた。
「生きている!」
母が叫ぶと、群れからも安堵の声が重なり、焚火の炎は一層明るく揺れる。張機は火に手をかざし、独り言のように呟いた。
「命の声は、理の後にやって来る」
群れが静まったころ、あの青年が離れていくのを張機は見た。紙片を懐に戻さず、胸に当てたまま北へ向かう。焚火の光が背を追い、道の闇へと送り出していった。ひとの行く先はそれぞれだが、寒さだけは等しく追いすがる。
夜が更けると、張機は几に向かい、奏案を整えた。筆先は静かに走り、今日の患者と処方を記してゆく。書吏が恐る恐る問う。
「名を記せば、先生の手柄になりますのに」
張機は筆を止め、墨の滴を見つめた。
「救いは名ではなく徴につく」
傍らの兵が小声で囁く。
「洛陽は荒れ、戦の影も近いと聞きます。それでも先生は、こうして筆を執られる」
張機は目を上げた。
「騒がしさも静けさも、医には等しい。ただ人を救うことが務めだ」
その声を聞いた書吏は胸に手を当て、深く息をする。丘の向こうに遠火が揺れ、馬蹄の響きが夜を裂いた。張機は灯を絞り、戸口の布を撫でる。
「明朝は南の村。風が変わる」
霜が軒を縁取り、息が白く立つ。張機は医箱と記録簿、官印を確かめ、馬に括りつけた。道は静かに延び、官の務めと医の志が同じ方角を指している。




