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16 乱世

 鼓の音が城門に響き、南陽の府に人々が集まっていた。この日は孝廉に推挙される者の名が読み上げられる日であり、官の門前は祝う者と詮索する者で満ちている。その人波の中には、張機の名を待つ声もあった。


 「張氏の仲景こそふさわしい」

 「いや、医は尊いが、官には別の才も要る」


 ささやきが往き交い、視線がひとつの影を探している。


 張機は群れの端に立っていた。背から薬箱を降ろし、衣の裾を整えながら、府の門を見つめる。身を慎むほどに、胸のうちでは誇りと疑いがせめぎ合った。医として歩んできた足で、官の壇に立つべきなのか。救いの手が、役目の鎖に繋がれぬか。


 鼓の音が収まると、府の石段に文官が姿を現した。朝の光の中で、巻かれた詔書が広げられる。


 「南陽張氏、仲景。孝廉に挙がる」


 その一声に、人々の間にざわめきが走った。農夫は手を叩き、町の商は口笛を鳴らす。


 「張様が」

 「やはりあの医師だ」


 声は入り混じり、ひとつの名が空に舞った。


 張機は石段の下に立ち、深く頭を垂れた。眼差しは穏やかであっても、胸は静まらぬ。病む者を救うために草を煎じてきた手が、今や官に召される。喜びの底へ、重い問いが沈んだ。官に出れば、救えぬ命も増えるのではないか。


 歓声のただ中で、張咨が進み出た。太守の衣は朝日に光り、その声は広場の隅々に届く。


 「南陽の士よ、見よ。張仲景はただ薬を携えるのみならず、その心は民に寄り、その言は真を語る。これこそ孝廉にふさわしき者である」


 その言葉に、群衆はさらに沸いた。子を抱いた母は涙を拭い、老人は杖を突いてうなずく。


 「この人に救われた」

 「この人の粥で命をつないだ」


 誰もが自らの体験を重ねて、張機の名を祝った。


 その夜、張家の邸には灯が連なり、親族や郷里の士が集った。盃が並び、麦餅と棗が器に盛られ、酒の香が部屋に満ちる。祝いの言葉は多い。けれど乱世の気配は、笑いの合間にも消えぬまま残っていた。


 「仲景よ、これからは都に出るのだな」


 伯祖が盃を掲げ、弟子を見やった。誇りと、ふとした寂しさが眼の奥にある。張機は盃を受け取り、静かに答えた。


 「先生の教えがなければ、この日もありませんでした。しかし、都に出れば、もうこれまでのように一人一人を救うことはできぬやもしれません」


 伯祖は笑う。


 「一人を救うも、千を救うも、根は同じだ。お前が心を曲げねば、その理はどこにあっても変わらぬ」


 親族たちがうなずき、盃が鳴り合った。だが黄巾の乱の余波、飢え、疫病、そして洛陽での宦官の専横。祝う声の背後で、不安の影はゆっくりと広がっていく。


 そして歳月は、南陽の士をも否応なく渦へ巻き込んでいった。


 董卓討伐の檄が飛び、江東から駆けつけた孫堅への兵量供出を断ったが為に、南陽太守・張咨は斬られた。軍を動かすには糧がいる。民を生かすにも糧がいる。善悪の名に還元できぬ、ただ一陣の戦の果て。昨日まで府の石段に立ち、民に言葉を賭けた人物が、今日には塵とともに消える。それが、乱世のならいである。


 洛陽の街に立つと、空気そのものが煤けているように思えた。かつて王朝の威容を誇った朱門の上に黒煙が垂れこめ、瓦屋根の端には焦げの匂いが染みつく。遠くで響くのは鐘の音ではない。崩れ落ちる建物の軋みであった。


 宗資は敷石の上に立ち尽くし、目の前を駆け抜ける群衆を見送った。母が子の手を引き、老人が背を丸めて荷を背負い、若者はただ走るばかり。声は叫びとなり、泣きとなり、誰もが何かを失いながら逃げ惑っている。


 「これが都か」


 胸の奥で呟きが漏れた。孝廉に挙げられ、意気込んで洛陽に足を踏み入れたのは、ほんの数年前のことだった。そのときの期待は、すでに灰となって瓦礫に埋もれている。会議の場では宦官の影が重く、士人は沈黙するしかなかった。そしていま、董卓の軍が都を焼き、かつての皇城は焔に包まれている。宗資は己の立場を測りかね、ただ変わり果てた姿を見て取るより他なかった。


 燃え盛る楼門の影で、ふと人影が揺れた。人の波を逆らい、一歩も退かずに立つ姿。背は逞しく、声を張り上げぬのに、胸に火を宿すような佇まいである。宗資の胸が強く打った。


 何顒。


 南陽の川辺で義を語り、声を掲げた友。党錮の禁の嵐の中で消息を絶ったはずの男。その背に違いないと、目は言った。


 だが次の瞬間、群衆が押し寄せ、姿は炎と煙に呑まれて消えた。呼び止める言葉は喉に詰まり、声にならぬ息が漏れただけであった。人の波が過ぎ、炎の縁だけが残る。


 宗資は足元の敷石に膝をつき、指先で煤を払った。熱はまだ生きていて、刺すような痛みを残す。鼻孔には油と木材の焦げる匂い、その奥に、どこかで煮えたぎる粟粥の匂いが混じった。救いの鍋と、奪い合いの鍋が、同じ湯気を上げている。


 大路の端に、瓦礫を積み上げただけの小さな市が立っていた。粗末な敷物の上に塩の小塊、黒く湿った薪の束、ひびの入った壺が置かれる。掟は顔を失い、塩も薪も、人の腹と喉の乾きだけに値段がついた。


 「粟はないか」


 宗資が問うと、売り手の女は肩をすくめる。


 「ないことはないよ」


 女は小さな袋をつまみ上げ、指をひねって量をごまかした。


 「ただし、今朝の値は今朝の値。昼にはまた上がる」


 宗資は持ち合わせの銅を数え、袋をひとつだけ受け取る。食べるためではない。宿に残した書生二人の腹を満たすための、わずかな手当てである。紙片に自分の名を書き、女に渡した。


 「不足分は明日」


 女は紙片を鼻先で笑い、しかし受け取って袖にしまう。


 「明日が来ればねえ」


 空は煤に曇り、日輪は布で隠された灯火のように弱々しかった。


 宿へ戻ると、二人の書生が肩を寄せ合って座っていた。ひとりは南陽の若者で、早口に易を引く癖がある。もうひとりは潁川えいせんの出で、筆記の手際だけは達者であったが、心根はまだ少年の色を残している。宗資は粟の袋を几に置き、湯を沸かすよう指示した。彼らの口に入るのは、焚き付けにした書簡の燻る臭いと、薄くのびた粟の味である。


 「都は、どうなります」


 南陽の若者が問うた。宗資は外の風の音をしばらく聞き、言葉を選ぶ間だけ、自分の息を整える。


 「西へ移るという。人も官も、天子も」


 言い終えると、言葉が自分のものではないように冷えた。


 「ここは、焦げ跡と瓦礫のみを残すだろう」


 潁川の少年が、恐る恐る続ける。


 「では、我らも」


 宗資は頷いた。


 「身を移すだけが道ではない。だが、ここに立ち止まっても、誰の助けにもならぬ」


 釜の湯気が薄く立ちのぼり、額の産毛を湿らせる。張機ならば、ここで粥に生姜を少し落とすところだろう。冷えた腹を温め、喉に通りやすくし、汗の出方を見ながら匙を運ぶ。そこに官は要らぬ。ただ理が要る。宗資は匙をとり、二人に分け与えた。


 「熱いものを少しずつ。熱さに惑うな」


 外では、人の叫びと蹄の響きが重なり合った。戸を細く開けると、武装した一団が駆け抜ける。誰の旗下であるかは、旗の紋が煤で潰れて分からない。秩序はそこにあるが、顔を持たない。顔を持たぬ秩序ほど、人を冷やすものはなかった。


 宗資は戸を閉じ、几の上の書簡を引き寄せた。書き付けたい衝動が胸に満ちる。しかし筆が動けば、言葉は主語を欲し、主語は名を名乗り、名を名乗れば、いつか誰かの刃が文の外から伸びてくる。書簡は白いまま、墨の香だけが薄く広がった。


 夜、宗資は焼け残った廟の軒下に身を寄せた。梁は黒く、像は半ば煤に埋もれている。香炉の灰を掻き回した痕があり、誰かがここにも祈りを求めたのだと知れた。


 廟の庭に、老人が一人立っていた。背は丸く、白髪は灰を吸って鼠色に見える。老人は燃えた瓦を一枚拾い上げ、宗資の前に差し出した。


 「これを見なされ」


 瓦の裏には、古い刻印が残っていた。


 「昔、儒官がここで経を講じた。瓦はそのとき焼かれたものだ。学は焼けぬと思っていた。だが瓦は焼け、人も焼ける」


 老人は笑い、瓦をまた地に戻す。


 「だが、声は残る。誰かが覚えておるうちは」


 宗資は深く礼をし、老いた男の背が闇に消えるのを見送った。


 覚える。


 その言葉は、遠い夜の川辺で張機が言った約束に、静かに重なった。声の強い者、声の柔らかな者、そして声を潜める自分。そのいずれの声も、覚えておかねばならぬ。覚えることは、沈黙の中でできる最も強い仕事である。


 翌朝、宗資は城外へ向かう人の流れに身を入れた。荷車には小麦の束、破れた衣、割れた茶碗、抱えたのは持てるもののほとんどすべて。背に負う子は眠り、母は眠らぬ。男は前を見据え、足だけが行き先を知っている。


 城門の外、土道の脇に一人の書肆が店を出していた。火から救い出したばかりの書巻が、濡れた絹のように重く並べられている。頁を繰るたび、灰が舞った。


 宗資は一巻を手に取り、薄く焼けた縁を撫でた。


 「売っているのか」

 「売るより、渡すに近いね」


 書肆の男は肩をすくめた。


 「持っていても、燃えるだけだ。持って行く人がいれば、どこかでまた読まれるかもしれぬ」


 宗資は銅を二枚だけ置いた。男はそれを見て、巻を二つ差し出した。ひとつは易、ひとつは春秋。宗資は迷わず春秋を懐に入れ、もうひとつの易を男に返した。


 「これは若い者に渡してくれ。占いの言葉だけが先に立つと、心が空になる」


 男は笑い、頷いて巻を引く。


 「あんたの顔は南陽の人だ。南へ行くのか」


 宗資は首を横に振った。


 「西へ。しばしだけ」


 男は、遠くの黒い煙を指す。


 「長くは留まるな。煙は人の心まで燻す」


 群れから離れ、宗資は一度だけ大路の方へ戻った。燃え落ちた楼門の脇に、銅の塊が溶けて固まったものが転がっている。形は失われ、ただ重さだけが残っていた。名は残り、姿は失われる。姿は消え、名ばかりが剥き出しに立つ。人の世の残り方は、いつもどちらか一方であるように見えた。


 そのとき、瓦礫の陰に、きのう見た背がまた立っていた。人の流れに逆らい、ただそこに立つだけで、周囲を押しとどめる気配の背。宗資は思わず名を呼びかけそうになり、喉の奥でそれを抑えた。近づけば、違う顔かもしれない。違う顔であれば、胸の中で燃えているものの形が崩れる。遠いままで確かなものがある。宗資は足を止め、ただ背の輪郭を目に刻んだ。


 背は、ふと振り返った。


 目が合ったかどうか、宗資には分からぬ。煙が間にあり、距離があり、時が割り込んでいる。それでも、確かに誰かの眼は、炎の向こうでこちらを見た。


 次の瞬間、兵の列が割り込み、背は人波の中に解けていった。宗資は追わず、両の拳を静かに握る。追うことが道なら、あの夜に誓った。違う道を行くこともまた、誓いのかたちである。


 西へ向かう群れに戻る直前、宗資はまっすぐ南の空を見た。そこには南陽があり、川があり、川辺に立つ二人の友がいるように思えた。ひとりは鍋の湯気とともに理を立て、ひとりは見えぬ闇の中で義を灯す。自分は、風の向きと人の歩調を合わせる役だ。声を荒げず、声を失わず、ただ歩みの乱れを撫でて直す。小さく、だが確かな仕事。


 宗資は懐の春秋に触れ、書簡の温度を確かめた。書はまだ冷たい。だが手の温もりを受ければ、文字は息を吹き返す。文字が息を吹き返せば、人は言葉を取り戻す。


 「行こう」


 宗資は二人の書生に呼びかけた。荷は軽く、心は重い。だが、重いものを背負ったまま歩く術を、人は持っている。


 城門の外で、西へ向かう群れが再び大きくうねった。前方で誰かが叫び、後方で誰かが泣く。宗資はその波の中で、歩幅を静かに整えた。乱れた歩調に合わせて、一歩だけ遅らせ、一歩だけ速める。その些細な調整が、人の群れの転びをひとつ減らす。転ぶ人がひとり減れば、下敷きになる子がひとり減る。自分にできることは、いまはそれだけで十分だ。


 都の背後で、楼門が崩れ落ちる音が響く。振り返らぬ。宗資は、遠い南の星と、近い西の煙の間に、自分の足場を見つけた。約束は途切れていない。煤の切れ間に、薄い青が残っている。


 洛陽の炎と煙を背に、人々の流れは西へと移った。董卓の兵が都を握り、天子のこしは長安へと遷される。東漢の都は、ひとつの終わりを告げていた。だが、その荒廃のただ中で、ひとつの名が静かに広がっていく。


 南陽の医師、張仲景。


 病める兵を救い、飢える民に粥を分け与えたその姿は、乱世の中でも確かな記憶となり、人の口から口へと渡っていた。やがてその名は、帝を悩ます病を治すべく、都が探し求める医の候補として囁かれることになる。


 乱世は続く。だが、その只中でこそ、張機の道はさらに試されるのであった。



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