15 理権
南陽の野を渡る風は、夜半の冷えを残しながらも、早朝には土の匂いを含んでいた。幕舎の外では、かすかな霜が地を覆い、草の先には白い露が光っている。遠くで鶏の声がまだ夢のように散らばり、兵らの吐く息は白く、冷えを孕んだ空気に重なって流れた。
張機は疲れの抜けぬ手で薬箱の紐を結び、幕を出る。徹夜で脈を取り続けた耳には、なお遠くの咳が響いているようで、静かな朝の気配の中にも呻きが混じる気がした。
兵たちの幕舎の前には、干された布が並んで揺れている。昨夜、張機が濡れたままでは病が戻ると言いつけたものだった。それを守る兵たちはまだ若く、眼の下に濃い影を刻んでいたが、口元にはかすかな安堵の色も見えていた。
「昨夜よりも楽になった」
「汗が出た。符よりも効いた」
囁きは半ば恐れ、半ば驚きであった。視線は自然と幕舎の外に出てきた張機へと集まる。だが張機は気づかぬように、ただ地を見下ろし、土の湿りを履の底で確かめていた。
薬箱の中にはまだ乾いた草が残っている。だが数は少ない。
「これでは足りぬ」
小さな声で呟き、張機は夜明けの空を仰いだ。
その時、遠くから馬の蹄音が聞こえた。初めは土を叩く小さな震えであったが、やがて近づくにつれて規則正しく重なり、陣の入口へと迫ってくる。兵らがざわめいた。
「太守だ」
「張太守がおいでになる」
やがて、馬影の先に張咨の姿が現れた。鎧の肩に朝日を受け、その後ろには従者たちが数名、整然と続いている。
張咨は馬を降り、歩を進めた。甲冑の継ぎ目から洩れる金属音が、朝の静けさに重く響く。兵たちは背筋を伸ばし、誰もが口をつぐんだ。
張機は振り返りもせず、薬箱の蓋を閉じていた。張咨はその前で足を止めた。
「やはり、ここにいたか」
その声音は低かったが、硬さはない。むしろ、探し求めていた者にようやく出会ったような響きがある。
「先の陣で、お前が薬を煎じて兵を救う姿を見た。その時の光景は忘れられぬ。名も告げずに立ち去ったお前の姿は心に残った。あれ以来、ずっと気にかかっていたのだ」
張機は深く礼を取ることもなく、ただ静かに答えた。
「病む者があれば、そこに行くだけのこと。名など要りませぬ」
張咨はしばし張機を見つめ、眼を細めた。その背後で、従者たちが互いに視線を交わす。
張咨はゆっくりと歩を進め、幕舎の中を見渡した。そこにはまだ呻き声を上げる兵が横たわり、干された布の下で温かな椀を抱く者もいる。昨夜まで死の影が濃かった陣に、わずかに色が戻りつつあるのが分かった。
「名を求めぬか」
張咨は独りごとのように言う。
「だが、それでは世に残らぬ。お前のような者が官にあってこそ千を救えるのだ」
張機は薬箱を肩に掛け直し、張咨をまっすぐに見た。
「官にあれば救える。その理は分かります。しかし、官に身を置けば、救うべき者を選ばねばならぬこともあるでしょう」
兵たちが顔を見合わせた。昨夜、自らを救った医師が、太守に向かって臆せず言葉を返している。胸の内に驚きと敬意が入り混じる。
「私は南陽の村々を見てきました。粟の屑すら買えぬ子が、冷えた草の上で母の胸にすがりつき、夜明けを待たずに息を絶つ。官に秩序があるなら、なぜその声が届かぬのでしょう」
「お前が見た村の飢え、私も知っている。だが、それを一つ一つ掬っていては、乱世の奔流に呑まれる。だからこそ、律を立て、秩序をもって粟を分けるのだ。それをせねば、飢える者はさらに増えるのだ」
張咨の眉がわずかに動いた。
「選ばねばならぬことはある。だが、選ばなければ誰も救えぬ。秩序なく薬をばらまけば、すぐに尽きる。法を守り、秩序を保つことで、万人に道が行き渡る。これが官の務めである」
「されど病は、官を待ちませぬ」
張機の声は静かである。
「飢えも寒も、戸籍や銭の有無を問いませぬ。目の前で命が尽きようとするとき、秩序を説くより、まず一椀の粥と薬を差し出すことこそ急務です」
兵たちの中から、低い声が漏れた。
「まさしく」
それは以前、張機から粥を受け取った老兵の声であった。
「この方の粥で、わしは命をつないだのです」
張咨は老兵に目をやり、しばし黙す。そして再び張機に向き直った。
「急を救うは医の道。だが世を治めるは官の道。お前は医を重んじるが、世に広く効かせるには官が要る。もし医が官と交わらねば、ただの点火のように散るのではないか」
張機は首を横に振る。
「医が官に仕えれば、官の秩序に縛られ、声なき者を切り捨てる恐れがあります。私はその理を恐れるのです」
その時、幕舎の隅で伏せていた少年兵が身を起こした。かつて、母を呼び続けていた若者である。彼は緊張で額に汗を滲ませながら、かすれた声を上げた。
「太守様。この方がいてくださらねば、私は」
その言葉は途中で途切れたが、十分であった。張咨の従者たちは互いに目を見交わし、誰もが張機の力を認めざるを得ぬ。
張咨は腕を組み、深く息をついた。
「恐れるか。だが、それを恐れながらも道を貫くならば、お前は真に医の士であろう」
張機は静かに答える。
「私はただ、目の前の命に耳を澄ますのみです」
張咨はしばし黙し、やがて笑みを浮かべた。
「理を守る者は多い。だが、権に屈せず理を守る者は少ない。ましてや乱世にあってはなおさらだ」
張咨は幕舎の外に歩を移し、広がる陣を眺めた。昨夜まで死の影に覆われていた兵らの間に、わずかながら活気が戻りつつある。火のそばで布を干す者、薬草を刻む者。呻きはまだ絶えぬが、その声には生の色が混じっていた。
「見よ」
張咨は低く言った。
「お前の理は、この陣に息を与えている。符や祈りではなく、草と水で兵が立ち上がった。これを奇跡と言わずして、何と呼ぶべきか」
張機は首を横に振る。
「奇跡ではありません。ただ、理を守ったまでです」
張咨は静かに笑みを浮かべた。
「張仲景、お前の理を都が知らぬままでよいと思うか。いや、むしろ都こそ必要としている」
張機は黙して朝の空気を吸い込む。東の空が白み、雲の端を黄金に染めている。やがて彼は掌を見つめ、脈の鼓動を確かめるように指を閉じた。
「都に出れば、救えぬ者も増えるやもしれません」
張咨は一歩寄り、まっすぐに見据える。
「道を知る者が官に立たねば、救えぬ者は減らぬ。世を変える力となれ、仲景」
張機はしばし沈黙したのち、静かに応じた。
「ならば、私の理を曲げぬことを約してください」
張咨の眼が光を帯びる。
「約束しよう。官の秩序に縛られても、お前の口から出る言葉まで縛ることはできぬ」
その声には確信があった。
やがて、東の空に陽が昇り、陣全体を赤く染める。夜明けの光が、二人の顔を照らしていた。




