14 洛陽
洛陽の朝は、南陽の空気とはまるで違っていた。乾いた風が城壁の石を撫で、街路には早くも人の群れが寄せてくる。朱塗りの門は日を受けて眩しく、瓦の端には白い光が散った。都の明るさは、あまりに硬い。
宗資は、まだ慣れぬ官服の襟を直し、玉堂殿へ続く石段を仰いだ。孝廉に挙げられ、洛陽へ呼び寄せられてから幾日が過ぎた。胸には希望があったはずだが、いま満ちているのは重苦しい冷えである。石の匂いが鼻につき、息が薄くなる。
会議の場に座しても、若き議郎の声がまっすぐ届くことはない。宦官らは目で語り、言葉少なくして事を決した。名のある士人でさえ眉を伏せ、石床に沈黙を落としている。耳に届くのは書簡を開く乾いた音と、遠くで鳴る鼓の響きばかりであった。宗資は腹の底へ息を沈め、ただ場の流れに身を合わせた。
これが都の空気なのだと、彼は思う。南陽で夢見た清流の議論はここにはなく、声を潜めることこそが処世の術であった。
会議の後、宗資は街へ出た。表通りは賑わいを見せ、織物の山が築かれ、銅銭が飛び交っている。華やかな声と、香油の匂い。だが、それは富める者の幻にすぎぬ。
洛陽では粟や麦の値が日ごとに跳ね上がり、かつて十銭で買えた一斗の粟が、いまや百銭を積んでも半量に満たなかった。米はさらに貴く、庶民は手を伸ばすこともできぬ。塩は官が握り、薪の束は銅と同じ重さで売られ、寒を凌ぐことすら容易ではない。母は髪を切って売り、子は瓦を拾って銭に換えようとする。だが、その銭で得られるのは、粟の屑ばかりである。
宗資は路地をひとつ曲がった。光景は一変する。母が痩せた子を抱き、粟を一握りでも乞う声が響く。老人は地に座り込み、差し出した手は虚しく揺れ、誰も振り向かぬ。麦は値を上げ、薪も庶民の手には届かない。薄い衣の肩が、風に小さく震えた。
宗資は足を止め、裾を掴む小さな手を見下ろす。瞳は乾ききり、声も出ていない。懐に手を伸ばしても、銅銭は数枚しかなかった。あまりに少なく、与えても救えぬと知れたとき、手は宙で止まり、そのまま引き戻された。彼は顔を伏せ、ただ人の流れに紛れて歩き去った。
なぜ手を差し伸べられないのか。胸の奥に問いが生まれる。声を上げれば叩かれ、銭を投じても救える数は限られている。与えても一人を救うにすぎず、翌日にはまた飢えが戻ると知れたとき、その思いは形にならず、指先から零れ落ちていった。
宗資は洛陽に出仕してから幾度も、旧友の名を耳にしようとした。何伯求のことである。かつて南陽の川辺で、義を語り、声を掲げよと熱を放っていた男。党錮の嵐が吹き荒れたのち、投獄され消息を絶ったと人は囁いた。だが真実は霧に隠れたままである。
宗資は同僚の士人に探りを入れた。
「伯求は、いまどこにいるのか」
返ってくる答えは決まっていた。
「声を上げた者は、闇に消えた。名を問うな」
その言葉には恐れが混じり、話題を続けることは許されぬ気配があった。洛陽の石壁の内では、囁き一つが命を削る。宗資はうなずくよりほかなく、唇を結んだ。
市井でも耳を澄ませた。酒肆に集う若者の中には、まだ何顒の義烈を語る者もあった。だが、その声はすぐに口元で消される。
「聞かれれば、我らも同じ穴へ落ちる」
震える手で盃を覆い、視線を逸らす。笑いは薄く、背は硬い。宗資の胸には、焦げつくような思いが残った。あの川辺で、友は確かに言ったのだ。
「義を語る士がいるかぎり、俺もその一人でありたい」
その声は烈しく、揺らぐものではなかった。だが洛陽の大路には、その姿はなく、名を呼ぶ声さえ風にさらわれる。宗資は敷石を踏みしめながら思う。義を掲げた者は闇に飲まれる。沈黙を選ぶ者は生き残る。その現実が、重く背にのしかかってきた。
宗資は夜ごと宿の灯を落とすと、几に肘をつき、遠い南陽の空を思い浮かべた。静かな眼差しで脈を取り、草を煎じては人を救おうとする張機の姿である。彼は声を張り上げて世を動かそうとはしなかった。ただ、病の床に伏す者の息を聴き、冷えた指を包み、理に従って熱を鎮めた。その姿は、洛陽の広間で声を潜める士人たちよりも、はるかに強く見える。
宗資の胸にふと、あの川辺の夜がよみがえる。張機は覚えると言った。義を掲げる何顒も、和を求める自分も、共に記憶すると。
声を掲げた友は闇に沈み、医を選んだ友は遠き南陽に在る。では自分はどこに立つのか。宗資は胸に問いかけた。義を叫ぶこともできず、医の道を歩むでもない。ただ人の声に和をもたらす。それが己の資質だと分かっている。だが、この洛陽では和を説く声は、かえって風に散る。
宗資は筆を置き、静かに掌を眺めた。その手は剣を握るには細く、鍬を振るうにも頼りない。ただ、人の言葉を受け止め、調和を保つための器にすぎぬ。義を掲げる強さも、病を癒す知も、自分にはない。だが、誰かの声を和らげることならできる。会議の場で睨み合う名士たちを、ほんの一言で落ち着かせたこともあった。小さな力ではある。されど無意味ではなかった。
宗資は深く息を吐いた。自分の弱さを否定するのではなく、受け入れねばならぬ。声を上げられぬ臆病もまた、自分の一部だ。その臆病を抱えたまま、なお和を守ることが、自分の道なのだと。
彼は几の上にある油灯の炎を見つめた。揺れやすく、消えやすい。だが闇を裂くには十分である。その光を誰かに渡せれば、それでよい。
夜が降り、洛陽の空気は昼の熱を失い、冷たい風が敷石を撫でていた。宗資は吏舎からの帰途を避け、静かな城壁の影を選んで歩いた。人影はまばらで、遠くに灯るのは胡麻油を絞った小さな燈籠の光ばかりである。
城門を仰げば、天は澄み渡り、無数の星が瞬いていた。南に目を凝らせば、そこには南陽の空が続いているように思えた。石の都の上にも、同じ星はある。
宗資は胸の奥で二人の姿を思い描いた。義を掲げ、炎のように声を放つ何顒。病に挑み、人を救う道を歩む張機。そして、声を上げぬまま和を守ろうとする自分。道は違えど、三人の心は星の光のように糸で結ばれているのではないか。星は遠い。だが見上げる限り、途切れることなくそこにある。同じ星を、張機も、何顒も、今どこかで見ているだろうか。
宗資はふと唇に笑みを浮かべた。
「俺たちは散ったわけではない。ただ、異なる道を行くだけだ」
声は風に紛れ、誰にも届かぬ。だが彼にとっては、それで十分であった。宗資は衣の裾を正し、もう一度だけ星を仰ぐ。胸の奥に残る震えは消えずとも、その震えが彼を支えていた。
星の光は、遠く離れた三人を、静かに結んでいた。




