12 仁術
陣の朝は霜を噛んで白かった。夜半に張られた薄氷は、見張りの甲の隙間を凍らせ、薄衣の兵の袖まで固くする。だが、陣は静まらぬ。咳と呻きが、幕舎の影々に途切れず続いている。徴発された農夫あがりの兵は肩を寄せ合って身を丸め、熱に浮かされてうわ言を繰り返した。ある者は冷えた汗に濡れ、ある者は唇を赤く焼き、脈は浮き沈み定まらぬ。薪を焚こうにも手に力なく、ただ符を焚いて水に混ぜ、これを飲めば天が救うと互いに励ましあっている。だが唇は乾き、声は弱い。
張機は幕舎の口で足を止め、鼻先に刺さる煙と生汗の匂いを胸に引いた。背の薬箱が汗で湿り、重さを増している。
「病が陣を食っている」
ひとりごとのように告げると、最も弱った者から目をつけて膝を折った。
「天が、天が」
年若い兵が符を握りしめて震えている。指は紫に冷え、爪の色が悪い。張機は兵の手首に指を添えた。浮き、速い。胸に耳を寄せれば、息は短く焼けている。額は熱いが、肌の汗は冷たい。脈は散って落ち着かぬ。
「寒と飢えに火を孕ませた。陽と陰が争っている」
張機は静かに言い、符を握る手をそっと緩めた。
「符は持っていてもよい。だが、薬を先にしなさい」
古鍋を借り受け、井戸の水を汲ませる。水は浅く、底に泥が沈む。
「一度沈めて澄むのを待て。急くな」
水面の揺れを掌で測りながら、薬箱の包みを解いた。乾いた香が湿り気を帯びた幕舎に広がる。薪をくべ、火を起こし、湯気が立っては消えるのを目で追い、耳で鍋の音を聴いた。
「煮立てては駄目だ。火を落とし、静かに気を引き出す」
若い兵が不思議そうに覗きこむ。
「天に祈るより、鍋の音に耳を澄ませ」
張機は笑みもせずに言った。
ひと椀ごと、少しずつ口へ運ぶ。ひと口、ふた口。ごくりと喉が鳴る。ほどなく兵の胸の波がゆるみ、額に玉の汗が浮いた。
「汗が出た」
周りの兵は息を呑み、符を握る手が宙で止まる。
「天符ではなく、煎じた薬で」
「薬は天に勝るのか」
声は小さい。恐れと希望が半々の調子である。
「勝つも負けるもない」
張機は布で汗を拭いながら応えた。
「天は天として巡る。だが、お前の胸は、お前の脈で生きる。脈が乱れれば、理で整える。天に願う心は否めぬが、病を下げるは理だ」
張機はそれだけ言って、次の兵へ移った。高く乾いた咳を連ねる者、肩で息をする者、寒さに歯を鳴らす者。同じ熱でも、顔はそれぞれ違う。
「衣を重ねすぎるな。汗は出すが、冷えは呼ぶな。濡れた布は早く替えなさい。水は一度に飲むな、少しずつだ」
言葉は短く、手は休まず。脈の浅深、浮沈、遅速を指で覚え、煎じの火加減を耳で測り、瞳に光の戻る時を目で待つ。
幕舎の隅には、まだ頬にあどけなさを残した少年兵が伏せていた。胸を上下させながら、母上とうわ言を繰り返している。張機は脈に触れた。速く、荒い。だが芯は残っている。椀を傾けると、少年は顔を背けた。
「母上……」
「飲めば帰れる。飲めば母上に会えるぞ」
その一言に、少年はわずかに唇を開き、煎じを受け入れた。やがて額に汗が滲み、肩の緊張がほどけていく。夜更け、彼は眠りの中で、畑が見えるとつぶやいた。
その声を背に、張機はまた別の隅へ歩を移す。そこには年老いた兵が藁に身を横たえていた。腰は曲がり、歯は半ば抜け、乾いた笑いを浮かべている。
「わしはもう長くは持たぬ。天に任せたほうが楽よ」
張機は脈に指を添え、静かに首を振った。
「まだ堅い。命は残っている。だが疲れが深い。せめて次の粥までは、私に任せよ」
老兵は目を丸くし、やがて笑う。
「粥一杯で命が延びるなら、粥に頭を下げねばな」
その夜、彼は静かに椀を空にした。
やがて、隣の幕から担ぎ込まれてきた男がいた。胸を焼かれるように咳き込み、呻きの合間に父の名を呼んでいる。事情を聞けば、同じ陣に父も徴され、別の幕で臥しているという。張機は息荒き兵に椀を渡し、言った。
「まずお前が立て。立てば父に会える」
男は涙をこぼしながら煎じを飲み、やがて額に大粒の汗を流す。翌朝、父の幕に案内され、二人は震える手を取り合い、周囲の兵までが目を赤くした。
陣の端では兵ばかりでなく、流民の影もあった。痩せた女が幼子を抱き、必死に乳を含ませようとしている。天に祈ればとすすり泣く女に、張機は粟を薄く煮て粥を作った。
「まず母が口にせよ。腹が空けば乳は枯れる」
女はためらったが、兵に勧められて匙を取る。温かさが喉を過ぎると、顔に血が戻った。
翌朝、わずかに乳が下り、幼子は泣きやんで眠った。女は布の裾で涙を拭い、兵に深く頭を下げる。その傍らでは、熱に浮かされた若者が符を握りしめ、誰の手も拒んでいる。
「これは黄天の証だ。手放せば死ぬ」
熱に浮かされた瞳は狂気に似ていた。張機は符を奪わず、その手を包んで温める。
「持っていてもよい。だが飲め。飲めば黄天も喜ぶ」
椀を差し出すと、若者は喉を震わせて煎じた薬を受けた。夜明け、符は指の間から滑り落ち、灰となって消える。兵たちはその灰を見つめ、囁いた。
「天より草が勝ったのか」
幕舎を見回せば、床の藁は湿り気を帯び、兵らの身をなお冷やしている。張機は藁を掬い、鼻で匂いを嗅いだ。
「濡れている。これでは熱を下げたそばから寒にやられる。乾いた藁を屋外から持ち、濡れたものは火の傍で干せ。布は重ねるな、汗を拭いてから掛けなさい」
若い兵は驚いた顔で布を裂く。
「半分でも乾いていれば力はある」
裂け目から糸が垂れ、笑いが漏れた。重苦しい空気にわずかに和らぎが生まれた。しかし病の相は一様ではない。汗を噴き出す者もあれば、逆に一滴も出ず顔を紅潮させる者もある。張機はその一人ひとりを見て、火加減と配合を改めた。
夜半、ある兵は汗を滝のように流し、呼吸が荒くなった。
「汗が出すぎている」
張機は脈を取り、火を弱め、麻黄と桂枝を減らし、甘草を増した。やがて汗は細かな粒となり、呼吸が整う。逆に別の兵は熱に浮かされながら汗が出ず、顔は赤いままだった。
「門が閉じている」
張機は麻黄を増やし、火を強める。香は鋭く立ち、やがて額に細かな汗が現れた。
「これでよい」
張機は布で拭い、少量の水を口へ運んだ。
こうして一夜が過ぎるころ、幕舎の空気はわずかに緩んでいた。咳はまばらになり、呻きは浅くなり、眠りの呼吸が増えていく。鍋の底には澱が沈み、張機はそれを掬って布に包み、火の傍で乾かした。
「無駄にするな。種火と同じだ。いずれ役に立つ」
噂は幕の外へこぼれ、火番の兵までが耳をそばだてている。
「天符ではない。薬だ」
「薬は天より先に効くのだ」
声は抑えても、火の粉のように広がっていく。
そのざわめきの中、幕舎の入口に影が差した。南陽太守・張咨である。鎧を着けた従者を従え、彼は病む兵を一望し、やがて鍋の前に目を留めた。
「この者らを救ったのは」
従者の問いに、兵たちは一斉に医師を指差した。張機は顔を上げず、鍋の縁に掌をかざし、余熱を測っている。
張咨は言葉をかけず、ただ静かにその光景を胸に刻んだ。名も素性も問わず、黙して立ち去る。ただひとつの思いが心に深く残った。彼の者の姿を忘れてはならぬ、と。
夜が落ちる。火は低く、しかし途切れない。天は高く、巡る。理は低く、しかし手の中にある。張機は指に宿る脈の鼓動をもう一度確かめ、鍋の蓋を少し開けて、湯気の向きを掌で読んだ。




