10 決意
澄んだ空に高い雲が浮かび、それが遠くで薄くほどけていた。田畑には旱の跡が濃く残り、粟や麦の畑は枯れている。だがその中に、風に揺れるわずかな穂があり、薄金の粒をこぼさず抱えていた。大半は尽きながらも、なお立つものがある。その姿は、荒れゆく世の中にあっても灯を絶やさぬ者たちのように見えた。
伯祖が張家の門前に差しかかったとき、まず目に入ったのは軒先に掛けられた白布であった。風がそれを鳴らし、影を庭に落とす。旅塵をまとったまま、伯祖は歩を止めた。白布は言葉を要さぬ。そこに立つ者へ、何が失われたかを真っ先に告げる。
張靖も、その母も、もうこの世にはいない。
胸の奥に、言葉より早く重さが落ちた。洛陽や郡の仕事に追われ、災いの地を巡っていた自分が、弟子の家族の死に間に合わなかった。その悔惘が、白布の色より濃く心を覆う。伯祖は短く息を吐き、馬を下りた。足取りは確かである。庭に立つ張機が師に気付き、深く拱手した。まだ若い背が、以前よりずっと細く見えた。
伯祖は静かに目を閉じ、そして低く言った。
「多くを失ったな」
張機は言葉を持たず、ただうなずく。口を開けば涙が先に落ちると分かっていたからである。伯祖はその沈黙を受け止めた。心は慰めの句を重ねれて軽くなるものではない。
しばし、風の音だけが庭を通った。白布が鳴り、その音が敷石へ落ちては消える。伯祖は耳を澄ませ、やがて続けた。
「だが、人は尽きても志は残る。仲景、お前は何を見て、何を選ぶのか」
師としての厳しさと、人としての痛みとが、ひとつに溶けた声音であった。張機は顔を上げられず、胸の奥で問われた言葉を繰り返す。
何を見て、何を選ぶのか。
夜の張家は広く静まり返り、室には誰の気配もなかった。かつては人の往来で賑わった廊も、今は風が吹き抜けるだけである。庭先の白布を夜風が鳴らし、影が敷石に細く揺れた。
師が去ったあと、張機は廊に座し、その空虚を見渡していた。母の声も、兄の咳も、もうどこにもない。倉前の筆は置かれたまま、扉も固く閉ざされている。耳に届くのは、風の音と白布の鳴る音ばかりであった。静けさが、かえって家の隅々を浮き立たせる。そこに在ったものの形が、在らぬことで逆に濃くなる。
ここに残っても、成せることは少ない。
胸の奥で言葉が形を取ったとき、張靖の声が蘇った。
俺が家を守る。お前は見て覚えろ。忘れるな。いつか使え。
あの時は、その言葉を言葉のままに受け取っていた。だが、今になって分かる。張靖は張機に、家に縛られず、外に出て歩めと言っていたのだ。守る者が守った場所に、守られる者が縛られては志が痩せる。張機は掌を握り、膝の上で爪を立てるようにして思った。喪の白布は別れの印であると同時に、残された者の歩みを促す札でもある。
庭を渡って宗資が来た。灯を背に、影が長く伸びる。宗資は白布の前に立ち止まり、しばし黙していた。その沈黙は、言葉より多くを語る。
「これからどうする」
宗資の問いに張機は白布を見上げた。風に鳴る布は冷たいはずなのに、不思議と温かい光を帯びているように見える。張靖が守った家の重さも、母の温かさも、何顒の声が残した熱も、その白の奥に沈んでいる。
「私は医の道を歩む。兄が守った家から離れ、託された意思を、人々のために使う」
言葉を口にした瞬間、胸の奥で凝り固まっていたものが少し解けた。兄との約束も、母の笑みも、友の烈しい叫びも、みな自分の歩むべき道へ繋がっている。迷いは消えぬ。だが迷いを抱えたままでも、足を前へ出せる形が定まった。
宗資は黙ってうなずく。二人はしばらく並んで白布を見つめた。夜は澄み、星々が冷たく光る。その下で、張機の決意は静かに根を下ろしはじめた。
宗資は廊に腰を下ろし、膝に腕を置いた。灯の明かりが彼の頬を照らし、影は庭の白布へと長く伸びていく。
「伯求なら、沈黙せずに声を張り上げたのだろうな」
低くつぶやく声に、張機は黙って耳を傾けた。
「烈しすぎると思っていた。けれど、あいつの声がなければ俺たちは揺さぶられもしなかった。あいつが消えた今だからこそ、俺は思うんだ。声を繋がなければって」
宗資の声は烈火ではなく、炭を燃やす火のように静かで長く残った。すぐに爆ぜはしない。だが絶やさずに周囲を温める強さがある。
「俺は儒を捨てない。言葉の力を信じようと思う。けれど、言葉だけじゃ足りないのも分かっている」
宗資は張機を振り返り、真っ直ぐに言った。
「仲景。お前は人の声も苦しみも、みな刻んで離さない。きっと俺と違う形で、この世に残すだろう」
張機はしばらく口を閉ざしたまま、掌に爪を立てるようにして考え込む。何顒の烈しさでもなく、宗資の言葉でもなく、自分の道。見て覚えたものを、いつか使う。だが使うとは、声を張ることだけではない。
「私は、人を診る」
言葉は小さいが、揺れなかった。
「声を聞くだけではなく、体に現れる熱も冷えも、痛みも。生きているもの全てを見て、覚えて、そして救う」
その一言は、これまで積み重ねてきた日々が凝縮したものだった。すべてが胸の奥で結び合い、その答えを形作る。宗資は目を細め、深くうなずいた。
「そうだな。それがお前の道だ」
二人の間に、再び沈黙が降りる。しかしその沈黙は重さではなく、決意を固める石のように、確かにそこに置かれた。宗資はしばらく黙したまま、廊の上で指先を擦り合わせていた。
「あいつらがもしここにいたら、どう言うだろうな」
何顒の烈しい声と、張靖の静かな声が、夜の風の中で重なって聞こえる気がした。張機は答えず、ただ白布を見上げた。月光を受けて揺れるそれは、悲しみの印であると同時に、残された者への問いかけのようでもある。
「伯求なら声を張り上げ、兄上なら沈黙を選んだかもしれない。けれど」
張機はゆっくりと言葉を紡いだ。
「私は、声と沈黙のどちらかを選ばない。人の体に残る熱や冷え、声にならぬ痛みを見て、覚え、そして救う。それが、私の歩む道だ」
宗資はその言葉を静かに受け止め、深くうなずく。
「いい答えだ。伯求も伯達も、きっとそうあれと願っていたはずだ」
二人の間に落ちた沈黙は、これからを支える礎のように確かだった。白布は月明かりを受け、静かに揺れ続ける。
「仲景」
宗資が小さく呼んだ。
「俺は洛陽に行く。伯求の意思を継ぎ、官を正す道を探る」
「私は各地を巡る」
張機ははっきりと応えた。
「医師として、人を救う道を行く」
その瞬間、星の光が二人の影を淡く縁取った。それぞれの道は別れていく。けれど、同じ願いの下に結び合っていた。張機は白布の揺れを胸に収め、宗資は灯の消えかけた輪を見下ろす。夜の冷たさの中で、二人の言葉だけが、確かな熱を残していた。




