09 約束
母の葬が明ける前後から、別の寝台が増えていった。
遠縁の老人は夜明け前に静かになり、働き盛りの従兄は朝の熱にうわ言を言い、幼い従弟は昼寝から二度と目を開かなかった。室には急ごしらえの寝台が並び、盆と布と水が絶え間なく行き交う。水を汲む桶の音、濡れた布を絞る音、浅い咳が、同じところを巡っていた。
張靖は、倉と帳を手放さなかった。昼は倉前で筆を動かし、夜は内室を見回り、咳を胸の奥へ押し戻すように歩いた。熱と飢えのあいだで家が揺れるほど、兄は足を止めぬ。止めた瞬間に、崩れるものがあると知っているからである。
「兄上、どうか休んでください」
「眠れば事が後ろへ回る。後ろへ回れば、人の腹が空く。もう少しだ」
「もう少しで済むなら、言いません」
張靖は笑った。笑いのあとに、短い咳が続く。宗資が碗を持って来て、張靖へ差し出す。
「飲んでから帳に戻ってくれ。話はそれからでいい」
言い方は柔らかいが、引き返さない芯がある。張靖は半分ほど口に運び、目で礼を言った。
「宗資、お前には助けられてばかりだ」
「助け合っているだけさ。俺ひとりじゃ到底まかなえない。ここには仲景がいる」
日にちが重なるごとに、邸の音は減った。かつて賑やかだった夕餉は静かになり、器の数は目に見えて少なくなる。厨では石臼の音が途切れ、庭を渡る洗い張りの布は短くなった。それでも門は閉ざされず、人の往来は細りながら続く。誰かの明日を一つでも繋ぐために、戸口は開いたままになっている。
「熱が下がらない」
「腹が止まらない」
「脈が弱い」
同じ言葉が、別の顔でやって来る。宗資は短く返事をして走り、張機は盆と布を手に続いた。伯祖は依然として郡外にある。頼む手が遠いなら、今ある手で支えるほかない。そう言い聞かせるというより、そうするしかない日々であった。
ある家では、老父が息子の額を撫でながら座していた。
「昨夜から熱で、言葉が途切れるばかりで」
張機は脈に指を置き、乾いた舌を見て、碗の水を少しずつ含ませる。
「いまは身体を起こさないように。布を替え、息を荒らさぬことだけ」
宗資は黙って手桶を運び、戸口の隙間を布で塞いだ。
「風を引き込むと冷えが刺さる。今夜は特に」
別の家では、若い母が子の手を両手で包み、眼だけで助けを求めていた。張機は肩に軽く触れた。
「この子は、呼べば戻る。呼ぶ言葉を短く、はっきりと」
母は震える声で名を呼び、子は小さく瞬いて母の方を向く。宗資は布を差し出し、母の手に乗せた。
「出来る分でいい。今はそれで十分だ」
日暮れ時、宛の市の片隅では、物々の手が迷いながらも伸びていた。人は、捨てる順番を決め、差し出す順番を学んでいく。宗資は短い買い物をすませ、張家へ戻る道すがら、ふと足を止めた。
「仲景」
「うん」
「さっきの子の母親に呼べば戻るって言ったな」
「身体が言葉を持たない時は、外からの声が支えになる」
「そうだな」
宗資はうなずき、笑って見せる。
「お前の言葉は硬いけど、温かい」
季が移るにつれて、張靖が床に就く時間が長くなった。朝の咳は延び、昼の息は浅く、夜の汗が枕を濡らす。帳は宗資が担ぎ、張機は水を替え、布を絞り、脈をとった。宗資は寡黙に手を貸しながら、時折、薄皮のような冗談を落として兄弟の顔をほころばせる。
「伯達、仲景が焼いた餅は硬いぞ。歯が欠ける前に俺が食べておく」
「それは助かる」
張靖は息を継ぎながら笑った。
「硬いのは餅か、仲景の気性か」
笑いが去ると、内室の気配がまた重くなる。その重さの中で、灯の輪だけが細く揺れた。
その夜、灯の輪の中で、張靖が張機を呼んだ。
「仲景」
「ここに」
「昔の約束、覚えているか」
「忘れておりません」
「俺は家を守る。お前は見て覚える。あれは変わっていない」
張靖は呼吸を整え、言葉を継ぐ。
「だがひとつ足す。見たものを、いつか使え。書でも、手でも、両方でもよい。根を離れるな。道を忘れるな」
烈しい声ではない。だが抵抗の余地を残さぬ静けさがあった。張機はうなずき、返す言葉を短く胸で整える。宗資がそっと碗を唇に運んだ。張靖は小さく口を湿らせ、目で礼を言う。灯の明かりが細くなり、壁の影が長く伸びる。
翌日、空は白く乾き、白布は影を薄くした。張靖の呼吸は短く、間が長くなる。張機は手を握り、額を寄せた。張靖は眼差しで応じ、ほんの少し口角を上げた。幼いころ二人だけで交わした合図に似ている。
次の呼吸は、来なかった。
庭に、また白布が掛かった。木主がひとつ増え、その墨の運びは兄の筆致に似ていた。宗資は列に入り、深く頭を垂れた。
「伯達、お前を忘れぬ」
声は小さいが芯がある。張機は木主を見据え、母のときと同じく、涙を落とさなかった。落とせば薄れるものを、落とさず沈めておくために。
葬が明けても、邸の空気はふわりと軽くはならない。器の並びは広く見え、夜の灯は一つ減り、廊下の影は長くなった。それでも門の外から声がした。
「助けてくれ」
「熱が引かない」
「腹が止まらない」
同じ言葉が日ごとに届く。言葉の数が増えるほど、家の内の沈黙は深くなる。
ある夕暮れ、張機はふと、札も掲げぬ小屋の戸口に立ち尽くした。脈に触れた指が告げるものは、一つではない。高い熱ののぼる者がいれば、寒気に身を縮める者がいる。額に汗を浮かべる舌の乾いた者がいれば、唇は湿っても声の弱い者がいる。同じ病の名で呼ばれながら、そこに至る道は人ごとに違っている。
上から冷えが降りたか、内から熱が立ったか。外の邪が皮膚にとどまっているのか、内に入り込んで腸を損ねているのか。汗を出すべき者、留めるべき者。下すべき者、和すべき者、攻むべき者。その見分けに、脈も舌も、顔つきも、声も、みな何かを告げている。
見て、覚えて、忘れずに。母の言葉が、そこで形を持つ。見たものを使え。根を離れるな。兄の言葉が、その上から支え木のようにかかる。張機は静かに息を整え、目の前の老人の手を包み直した。
「今は汗を出すべきです。布をもう一枚。水は少しずつ」
別の寝台の若者には、逆のことを言った。
「汗はこれ以上追わない方がよい。今夜は起こさず、息を乱さぬように」
宗資が柱にもたれて、短くうなずく。
「同じ病でも、同じ手は利かぬ。お前が言うと、腹に落ちる」
「私も、今まさに覚えているところだ」
張機は自分の言葉を耳で確かめた。口に出すと、胸の中で散っていた灯が、ゆっくりと列をなしてくる。皮の上にとどまるもの、肌を越えて半ばまで入ったもの、深く臓を犯すもの。上へ昇るもの、下へくだるもの、内に結ぶもの。寒と熱、虚と実、表と裏。名を与えずとも、層は見える。
夜更け、張家の蔵前で、張機は灯芯を小箸でそっと立て直した。炎は丸くなり、少し背を伸ばす。書簡はここにあり、師の言は胸にある。目の前の現は手の中にある。母は覚えよと言い、兄は使えと言った。何顒の声は胸の底で燻り、宗資の言葉は足元を支える。
東の空に青がわずか混じるころ、門の外から足音が近づいた。
「張様、お願いだ」
掠れた声が戸板に触れ、控えめに板戸が叩かれる。張機は立ち上がり、袖を直した。宗資は無言でうなずき、先へ歩く。二人の影は並び、庭の白布をかすめて門をくぐった。
朝はいつも同じ顔で来るように見えて、毎日、違う相手の息を運んでくる。道と術、その両方を欠かさぬこと。胸の内で、言葉が一つの骨組みを取り始めていた。それはまだ名も持たぬが、のちに六つの層へと分かれ、冷えと熱、内と外、虚と実の道すじを指し示すであろう。今はただ、その前の夜明けである。
張機は静かに息を吸い、次の戸口へ向かった。




