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「本体」

作者: 咲花楓

 これは、夏限定でとあるプールの清掃のアルバイトをしていたときの話。

 営業が終わるのがだいたい六時くらいだったのだが、その後の私の最初の仕事は落とし物の回収だった。というのもそのプールはかなり大きめの施設で、売店などもかなりあるような、賑やかな場所だったのだ。だからそこに来る人はたまに、落とし物をしてしまうのだ。

 まず手始めに、プールサイドなどの確認。と言ってもここには殆ど落とし物はない。あったとしても誰かがすぐに気付いて届けてくれるからだ。

 問題はその次。プールの中だ。

 この施設には大きめのプールが三つある。一つは輪型の流れるプール、一つは流れない浅めのプール、そして標準の二五メートルプールだ。

 これらのプールの底を注意深く観察していると、落とし物があるのだ。何かの鍵、髪留めなど、その多くはあまり価値の感じられないようなものばかり。稀にスマートフォンや財布なんかも落ちているが、当然画面は付かないし紙幣はびしょびしょでどちらも使い物にはならない。

 落とした人は気の毒だが、こちらとしても何とも言えない悔しさが残る。

 とまあ、こんな感じで落とし物を回収した後で、本格的に清掃に入っていく。

 ……正直に言うと、この行程でプールに入れるのが良いと思ったからこのバイトに応募した。まあ別に清掃も苦手なわけではないしもう客もいないので、これで給料が貰えるのは私にとっては好都合だった。

 

 そうして働き始めて、一週間が経ったある日のこと。

 私はいつものように、施設へと向かっていた。人混みは私とは逆方向に流れていく。

 空はまだ明るいが、そこには確かな夕暮れの赤が見えていた。夏の日の夕はどうしてこう哀しい気持ちになるのか、なんて考えていた。

「そういえば○○くんさ、まだ”本体”見てない?」

「本体……ってなんすか?」

 更衣室の隅、作業用の水着を身につける私に一つ年上の先輩がそう言った。

 ”本体”、という聞き覚えの無い単語に疑問を覚える。

「あれ、聞いてない?」

 先輩は少し驚いたような、そしてどこか僕を哀れむような目で見つめてくる。

「落とし物さ、あるじゃん。たまーにあそこに、”本体”あるんだよね。」

 不思議だった。いつも爽やかな先輩の笑顔が、どこか引きつって見えたからだ。

「いやあの、本体って……」

「まあ、見りゃわかるよ。じゃ、今日もよろしくね。」

 その質問に答えることは無く、先輩は話を逸らし更衣室から出て行ってしまう。

 そういえば、前は清掃をしていたと聞いたことがある。先輩はもともと清掃担当だったが、突然昼のスタッフに変えたらしいのだ。

 そこに入れ違いというか、穴埋めのような形で私が入ったのだ。

 本体、という聞き慣れない言葉を引きずりながら、私は更衣室を後にした。

 本体、と言えばなんだろうか。イヤホンの本体?それとも、スマートフォンとか?いや、スマートフォン本体なら既に何度か見ている。まあ、事切れた物だらけだが。

 疑問は途切れない。そのままの足でプールへと赴き、流れの止まったプールに片足を沈めた。

 先ずは流れるプール。ゴーグル越しに水底を見ていく。

 いつも通り、髪留めとかそういうのだらけだ。別に、何も面白くは無い。

 一通り見たので、次は流れない方のプールへと入る。こちらはそこまで水深が深くないので、水面の上からでも水底を見通すことができる。故に落とし物も見つかりやすいのだ。と言っても今日は何もなかった。まあ、落とし物が無いのは良いことだ。

 最後に二五メートルプール。ここは割と水深があって、小さな子供などは入らないよう表示がしてある。

 私はゴーグルを付け水底を眺めながら、水面泳いでいた。

「おっ」

 見つけたのは財布。普通の長財布だ。プールサイドに上がった私は躊躇なくその中身を覗く。

 そこに水浸しの紙幣はなかった。続いて小銭の入ったポケットを開ける。そこも空だった。

 それどころか、この財布にはレシートもカードも、そういった類のものは何一つ入っていない。

 こんな財布、普通持ってくるだろうか。なんだか君が悪くなり、すぐに財布をカゴの中に放った。

 結局今日はこんなもんで、特段面白い物も見つからなかった。まあ大体いつもこんな感じだし、別に何も感じない。

「本体って、何なんだろうな。」

 そんな疑問だけが、微かに残った。


 夏休みももう終盤に差し掛かった。私はいつものように施設を目指す。

 更衣室から先輩を見送った後、いつものようにプールサイドへと向かっていた。思えばもう、招待の解らない「何か」のことなんて、もうとっくに忘れてしまっていた。


 今日も特に面白い物はない。面白さを求めること自体が間違っているのかもしれないな、と水から上がる。今日はやけに、風が肌寒い気がする。

 もう二つは見終わったし、最後は二五メートルプールだ。そうして片足を沈ませる。その深い青の底に。

 いつも通り、私はゴーグル越しに水を見通す。

 ふと、遠くに何か大きい物が見えた。

「ん?」

 何だあれ、と疑問に思って近づく。

 こんなプールにあんなに大きな物があるだろうか。普通に持ち込まれるものが、こんな場所にあるだろうか。それならそうと、この大きさで気付かれはしなかったのか。

 この大きさのもので、考えられるなら……

 一歩、また一歩と近づく。

 すぐ側まで行って、それはようやくはっきりと見えた。


 その生気の無い目は、こちらを見つめていた。


 すぐにプールサイドに上る。出来るだけ遠く、水から遠ざかる。

 血の気が引いた。あれは、人だった。

 しかも子供。あの深い青の中、地に足が付いていなかった。

 きっともう息は無かった。それなのに、こちらを見つめていた。

 薄暗い水の中、こちらを見つめる真っ黒な目が、嫌でも脳裏にこびり付いた。

 私は、先輩の言葉を思い出す。本体。


 それぞれの居場所への切符である鍵、髪を結う髪留め、自らの富を保管する財布。

 それら全ては人によって保有されている。

 ならば、先輩の言っていた”本体”、とは。

 所有物の”本体”とは。

 水の世界に浮かんでいた、あの”本体”とは。


「はぁっ、はぁっ、」

 気付けば私は、荷物を抱えて家路へと着いていた。

 真夏の夜なのに、冷たい風が肌を撫でる。

 それはきっと、水に濡れているからではない。

 確かな恐怖が、そこにあった。

 ――

 「……なんだよ、あれ」

 ひとりぼっちの家、浴槽の中で震えながら今日の事を考える。

 あの瞬間、目の前には見たことも無い世界が広がっていた。それはゆっくりと、私の思考を侵食する。

 きっと、見てはいけなかった。あの”本体”に、関わってはいけなかった。

 未だ収まらない心臓の拍動が、嫌でも部屋に響き渡るようだった。もう忘れてしまいたい。そんなことを願いながら。


 水音がひとつ、またひとつと滴る。

 不意に、何か冷たい感触が走った。


 私は確かに、何かに足を掴まれるのを感じた。

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