第7話
空が次第に明るくなってくる。
雨もいつの間にやんでいたらしい。春の空が次第に赤く染まっていくのをガラス越しにぼんやりと眺めていた。
午前五時を回ると再び、客がぽつりぽつりと店内に入ってきた。私は、その客の会計をしつつ、それ以外の時間で早朝の商品の陳列を済ませていく。体を動かしていると何も考えずに済む。自分のこれからの将来のことも、父親のことも、そして、あの夢のことも。私は、頭の中を真っ白にして機械的に仕事をこなしていった。
「おはようございます」
事務室のドアが開いて智恵が入ってきた。店内の時計に視線をやると午前七時半を針は示している。いつの間に交代の時間が近づいていることに気づいた。
「おはようございます」
「製品の陳列、手伝います」
智恵のその申し出に、変に抵抗するのも面倒だったので、
「お願いします」
とだけ答えた。智恵は、一度奥に引っ込み、製品を載せた台車をがらがらと店内に運び込んだ。そして手際よく商品を棚に陳列していく。とりあえず陳列は智恵に任せておけばいいだろう。私は私でレジに立って、これから出勤する人たちの朝の買い物の会計を済ませていった。
そのときだった。
店の片隅で、がらがらと大きな音がした。続いて、男の
「何すんだよ!」
という怒声が続く。何事かと驚いてレジから視線を転じると、惣菜売り場の前で、智恵が一人の客に必死に頭を下げていた。台車からいくつか弁当が落ちて散乱しているのが見える。どうやら、智恵が台車を客にぶつけてしまったらしい。
「すみません。本当に、すみません」
智恵は何度も何度も頭を下げている。
私はレジの前の客に、
「すみません」
と小さく頭を下げてレジを離れ、智恵とその客に歩み寄った。客は、高校生くらいの若い男で、髪は金髪に染め、耳にはピアスをつけている。服装は、だぼだぼの服をだらしなく着崩していた。
「どうしましたか?」
「こいつが、その台車をぶつけてきたんだよ。弁当の汁で服が汚れたじゃねえかよ」
ズボンのすそに目を転じると、床に散乱した弁当から飛んだらしいおかずの一部が小さく付いていた。
私は智恵の耳元で小さく、
「床の弁当を片付けてください」
と言う。そしてその男性客の前に立ち、ふかぶかと頭を下げて、
「本当に申し訳ありません。ズボンのクリーニング代をこちらから負担させてください」
と言った。頭の上から男の声が降ってくる。
「それだけじゃあ、こっちも収まりつかねぇよ」
私は下げていた頭を上げ、男を正面から見た。
「それでは、何をすればよろしいでしょうか」
「そうだな……。土下座をすれば、考えないでもないな」
男の煽るような声に、私はぎりっと歯に力を入れる。隣で智恵がはらはらしながら視線を送っているのを感じた。私は、「分かりました」と言い、ひざを床についた。そして両手を床に置いて、頭を下げた。
「こいつ、本当に土下座していやがる。馬鹿じゃねぇの」
男の嘲笑交じりの声、周りの客のざわつく声が脳天に降ってくる。それでも私はじっと頭を下げ続けた。男は、
「馬鹿じゃねぇの。面倒くせぇ」
捨て台詞を残して店を出て行った。
私は頭を上げ、ゆっくりと立ち上がる。すぐ目の前に、今にも泣き出しそうな智恵の顔があった。
「あの……。すみません……」
「別にいいよ。ただ床に手をつけて、頭を下げた格好をしたってだけだから……」
「え?」
「それ以上の意味なんて無いよ……。少なくとも俺にとっては無いから……」
「……」
「それよりも、その弁当の片づけをお願いします」
智恵は、私のその冷めた声に驚いた表情を浮かべ、慌てて床の掃除を始める。
私はレジに戻り、並んでいる客の対応を続けた。