第53話
午後の時間は、やはりイートインスペースの椅子にぼんやりと座り、座り続けて腰が痛くなると病院の外に出て用もなくぶらぶらと歩いたりしていた。歩き疲れると再び病院に戻り、そこが自分の専用の席であるかのようにガラスの前のイートインスペースの椅子に座る。テーブルに頬杖をつきながら、ガラスの向こうの世界で建物の入口から吐き出されたり吸い込まれたりする人たちの頭を眺めていた。
そのようなことを何度か繰り返していると、ようやく由貴の腕時計の針は午後二時半近くを指し示した。
少し早いかとも思ったが他にすることもない。この中央ホールで待つのも、脳神経内科の待合スペースで待つのも同じだと思い、席を立つ。階段で二階から三階に上がり、階段を出てすぐの通路を右に進んでいく。数時間前にも歩いた道を、同じように歩いた。
脳神経内科の受付に着くと、午前中に座っていた中年の女性事務員とは別の若い女性事務員が受付の前に座っていた。「お願いします」と、受付票を彼女に手渡す。すると彼女はにこやかに笑いながらそれを受け取り、にこやかに笑いながら、「お名前をお呼びするまで、そちらでお待ち下さい」と隣の待合スペースを指し示す。
待合スペースの長椅子には三人の患者が座っていた。皆七十歳を超えていそうだ。三人とも、どこか虚ろな表情で目の前の白い壁を見つめている。由貴は自分ひとりが何か異物であるかのような感覚を抱きながら、三人から一番離れた席に腰を下ろした。自分も目の前の白い壁を見つめていると彼らと同じになってしまう気がして、目を伏せ、自分の足元を理由もなく見つめていた。
午後三時きっかりに、受付にいた若い女性事務員が「杉原さん、中にお入りください」と声を掛けてきた。
ドアに一度ノックをしてから診察室の中に入る。
由貴が診察室に入ると、入って左側にあるデスクでは佐藤医師が目の前のモニターを黙って見つめていた。黒縁眼鏡の奥に覗く目は、午前中と同じように何の感情も込められていない。由貴もその視線に釣られるようにモニター画面に視線を送る。そこには黒い背景に白い円形のものがいくつか映っているのが見えた。入口近くに立っていた由貴からは距離があってはっきりとは見えない。ただ、そのような白い円形にどこか見覚えがあった。すぐに、以前、記憶障害についてネットで調べた際にサイトの一つに掲載されていた、人の脳の輪切り画像だと気づいた。
まさか、あれは私の頭の断面なのだろうか……。
画像そのものというより、その画像を見つめる佐藤医師の無表情な顔のほうが気になった。この無表情は何を意味しているのか。嫌な胸騒ぎを感じながら、佐藤医師に「失礼します」と声をかけて目の前の丸椅子に座った。
由貴の声に、初めてその存在に気づいたかのように佐藤医師は視線を由貴の方に向けた。やはりその眼鏡の奥の目からは感情といったものを読み取ることはできなかった。これから目の前の男からどのような宣告を受けるのか。その先にあるのは天国なのか、地獄なのか。緊張で、膝の上に乗せたショルダーバッグの端を強く握りしめていた。
佐藤医師は開口一番、次のような言葉を口にした。
「ご安心ください」
由貴はその言葉の意味がすぐには分からなくて、「え?」と聞き返す。
「杉原さんの脳には何の異常も見られませんでした」
何の……異常もない……?
佐藤医師はモニターにいくつか映っている白い円形の一つをマウスで選択する。するとモニターにその白い円形が大きく映し出された。手元のペンを手に取り、その円形の一部を指す。
「ここが杉原さんの脳における、海馬と呼ばれる場所です」
頭蓋骨と思われる円い輪の中にくねくねしたものが映っている。ペンの先はその中央にある、白くて円い、うずらの卵のような形をしたものを指し示していた。
「認知症の患者は、この海馬に萎縮が見られます。それによって様々な記憶障害が引き起こされるのです。しかし杉原さんの海馬には萎縮も、萎縮の兆候も見られません。
以上から、杉原さんが若年性認知症だとは考えづらいです。
それに脳の他の部分も確認したのですが、全く異常は見られませんでした。外傷の痕跡のようなものも一切ありません」
目の前の男の言葉がすぐには理解できない。だけど、徐々にその言葉の意味が由貴の中で輪郭を持ち始める。
私は……認知症ではないんだ……。
緊張で硬くこわばっていた身体から力が抜けていく。
「杉原さん、良かったですね」
佐藤医師の言葉はその意味とは裏腹にひどく冷静で、その口調には少しも嬉しそうな感じはみられなかった。たとえその宣告が良いものだとしても、悪いものだとしてもいつでも冷静でいること。その姿勢は職業上、必要に迫られて身につけたものなのだろう。
「良かった……」
佐藤医師の言葉とは正反対に、由貴の口から零れたその言葉は、心の底から安堵したものであった。
しかし、すぐに別の疑問が由貴の頭に浮かび上がる。
もしそうなら、なぜ四月十七日と四月二十七日の二日間の記憶が自分の頭の中から喪失してしまったのか。若年性認知症でも外傷性の記憶障害でもないのだとしたら、何が原因なのか……。
由貴は佐藤医師の能面のような顔を見返す。
「あの……では、なぜ、四月十七日と二十七日の記憶が、私の頭から失われてしまったのでしょうか?」
「……それについてですが、おそらく心因性のものだと思われます」
「心因性?」
「はい」
佐藤医師は表情を一切変えることなく、静かに一度頷いた。




