第5話
3
夢を見ていた。
今自分は眠っていて夢を見ているのだということをはっきりと認識していながら、夢の中に存在している。人はときどきそのような夢を見ることがあると思う。今、私はそのような状態にいるのだ。
そうかと言って、自分の体を自由に動かせるわけではない。別の誰かが体を動かし、私はその人の目になって見るだけ。耳になって聞くだけ。そのような状態にあった。
私の前には、公園が見えた。どこにでもあるような公園。狭い入り口を抜けると、この世界にぽっかりと空いている穴のような開けた空間が広がっている。その空間を取り囲むように木々が並んでいるのだけど、その空間の上には遮るものは何も無い。青空と太陽がただ佇んでいる。太陽が直接目に差し込み、私の中の誰かが、眩しそうに目を細める。そのとき頬を擦るような風が吹き、梢をサーサーと揺らす音が聞こえる。
そんな公園の真ん中に、私は誰かの体を借りて立っていた。
必死になって何かを探している。
この人は、一体、何を探しているのだろう……。
声に出そうとしても、声には出ない。
ふと、視線が一点に止まる。
先ほど私が入ってきた公園の入り口に、誰かが立ってこちらに向かって手を振っている。
よく見ると、髪をショートカットにした三十代くらいの女性が顔に満面の笑みを浮かべながら、私を真っ直ぐに見つめていた。その静かで、穏やかそうな表情に視線が止まる。その顔には見覚えは無かった。私はこれまでの人生でこの人に会ったことは無い。
それなのになぜだろう。その笑顔を見ていると、心の中にぽっかりと大きな穴が空いているような感覚が胸で疼く。
私は、大切な何かを忘れてしまっているのではないだろうか……。
そんな思いが強烈に私の心の中をつかみあげる。
頬に水滴が流れる感触がする。そして、今、自分が泣いていることに気づいた。
私は、ゆっくりと目を開ける。
目の前には、いつもと同じような薄汚い天井が見えた。
頬に何か違和感を感じる。指で擦るとその指が濡れた。私は、自分自身も泣いてしまっていることに驚いた。夢の中で感じた、大切な何かを忘れてしまっているのではないかという喪失感が今でも鮮明に自分の心の中で疼いていた。
「あの夢は、何だったのだろう……」
私の声が、殺風景な部屋にこぼれる。視線を横に滑らせて壁時計を見ると午後三時を指している。締め切ったカーテンの隙間から春の午後の穏やかな日差しが部屋に陰影を作っていた。近くのバス道路を車が行きかう音が聞こえてくる。
この部屋は、実家から少し行ったところに借りているワンルームの小さい部屋だった。実家に住むことも別に良かったのだが、両親の無言の「大学まで行かせてやったのに、何をやっているんだ」と責めるような視線が息苦しくて、大学を卒業してからすぐに家を出た。バイト代だけでは生活は楽ではなかったけど、別に贅沢をするわけでもないし、お金のかかる趣味があるわけでもない。その日その日を何とか暮らしていた。
私は、しばらくベットの上でぼうとしていた。
あの夢は、何だったのだろう……。
今度は心の中で呟く。
夢の中で見た女性。
私よりも年上に見えた。その顔には全く見覚えが無い。それでいて、夢の中で彼女の顔を見たとき、泣きたくなるような懐かしさが心の中を一杯にした。長い間会うことができなくて、そしてようやく再会できたような、そんな懐かしさだった。
誰だったんだろう……。
いくら思い出そうとしても、全く記憶の中に彼女の顔は存在していない。
私は一度大きな伸びをし、それ以上そのことを考えるのを止めた。
なぜだったのだろう、そのとき、ふと、今朝バイト帰りの道の途中で不気味な青年に言われた一言を思い出していた。
「あなたは、神の存在を信じますか?」
あのとき彼は、ひどく真剣な眼差しで私に言った。
本気で神なんて信じているのだろうか?
私は、自嘲気味に笑う。
神なんて存在するわけがない……。
神なんて、弱い人間が何かに縋り付きたくて作り出した幻想に過ぎない。きっと、そうなんだ……。だって、もし神が存在するのなら、神は何のために私をこの世界に送り込んだというんだよ……。私は、何のために生まれたというんだよ……。私がこの世界に生まれた理由なんてどこにもない。だからこそ、神が存在するわけがないんだ……。
寝起きのぼんやりした頭で、そんなことを考えていた。
私はもう一度大きなのびをして、ベットから起き上がった。
机に目をやると、携帯電話の緑色のランプが点滅している。手を伸ばして携帯を開くと、メール受信欄に「父親」という表示があった。私は、機械的にそのメールを開く。
「祐樹。家に来なさい。お前の今後について、一度、よく話し合おう」
それだけだった。
私はその文に二度目を走らせた後、携帯の「削除」ボタンを押す。そして携帯を机の上に放り投げた。
どうせ、息子がフリーターだと世間体が悪いからなんだろ……。
どうせ、自分のことしか考えていないんだろ……。
頭の後ろで腕を組みながら、そんな言葉が自分の心の中にあふれてくる。
そのときの私は、何よりもそのように思っている私自身が自分のことしか考えていないのだということを知らなかったし、知ろうともしなかった。