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第3話


 それから朝まで客は一人もやってこなかった。

 朝の七時になって、勤務交代のため同僚がやってきた。私の勤務は夜の八時から朝の八時までで、その後は日中勤務の同僚と交代することになっている。

「おはようございます」

 控え室から店内に出てきた野中智恵は、私にいつものように元気に挨拶をする。

「ああ、おはよう」

 私は、彼女を見ずに答えた。

 智恵はどこにでもいるような普通の女の子に見えた。取り立てて容姿が良いわけでもないが、かといってそれほど悪いというわけでもない。街にいても、何の印象も無く目の前を通り過ぎていくような雰囲気を身にまとっている。

 もう同じバイトになって半年になるのだけど、私は彼女のことをほとんど何も知らない。コンビニにいる時間の他に何をやっているのか、学生なのか、それともフリーターなのか全く知らなかったし、別に敢えて知りたいとも思わなかった。私は基本的に夜番で彼女は昼番なので、交代のこの一時しか顔を合わす機会は無いこともあって、交わす会話は機械的な挨拶と、業務に関する連絡事項に限られていた。

 私は店の奥に行き、配送されてきた菓子パンのケースを持って店内に入る。そしてすっかり空っぽになっている陳列台に並べていると、智恵が、

「私も手伝います」

 と言ってそばに寄ってきた。

「いいよ。まだ交代の時間じゃないんだから。野中さんはまだ控え室で休んでいてよ」

「大丈夫です。体を動かすの、好きなんですよ」

 そのまま押し問答をするのも面倒だったので、彼女には別のコーナーの陳列を手伝ってもらうことにした。

 私の勤務時間が終わるまでの一時間、そのようにして過ぎていった。朝のコンビニは、通勤や通学に向かう人たちが朝食やら何やらを色々と買い込んでいく。私はレジに立ってその人たちの相手をしながら、ふと智恵に視線を向けた。

 真剣な顔をして、ひどく一生懸命に菓子パンを陳列していた。

 何で、そんなに一生懸命なんだろう……。

 別にそこまで一生懸命にならなくてもコンビニの仕事が回らないわけでもない。疲れないようにそこそこやっておけばいいのに。それが賢い生き方なのに。

 目の前の客に、「ありがとうございました」とお釣りを渡しながら、心のどこかではそんなことを考えていた。

 午前八時になって私は智恵に、

「じゃあ、俺はもうひけるから」

 と声をかけた。

 智恵は「お疲れ様でした」と深くお辞儀をする。そのお辞儀を背中に感じながら奥の控え室に入った。

 控え室は、ひどく狭い部屋だった。

 パイプ椅子が二つ壁の隅に立てかけられており、反対側の壁には荷物置き用として棚が据えられている。その棚の右は小さな更衣室へ通じるドアがあり、左には店長の事務机の置いてある事務室を通じて裏口に通じるようになっている。

 棚に置いてあるバッグを引っ張り出し、中からTシャツとジーパンを取り出す。初めの数日は更衣室で着替えるようにしていたのだが、別に視線を気にする人もいないので、そのまま控え室で着替えるようになっていた。

 ジーパンを履こうとして視線を下に向けたとき、ふと、床に赤いパスケースが落ちているのが目に入った。何だろう、とそれを拾い上げ、中を開いた。

 定期券と学生証らしきカードが入っている。

 学生証には、「野中智恵」と書かれている。

 どうやら智恵が床に落としてしまったらしい。何気なくその学生証に視線を走らせる。そこには、「I看護学校」と書かれていた。

「看護師を目指しているんだ……」

 私は自分でも気づかないうちに声に出して呟いていた。

 智恵が看護師を目指していることなんて全く知らなかったし、想像もしていなかったので始めは驚いたのだが、心のどこかでは、「やっぱり……」と納得するような思いもあった。

 先ほど店で見た、彼女が懸命に陳列棚に菓子パンを並べている姿を思い出す。

 目指すべき場所があって、一日一日をその目標に向かって懸命に生きているのだろう。そんな彼女が羨ましかった。そして同時に、嫉妬を感じた。

 私は軽く首を横に振る。

 その思いをすぐにでも自分の中から追い出さなければ……。

 そう自分に言い聞かせた。

 早く追い出さなければ、自分のこの存在の希薄さを認めてしまうような気がして怖かった。

 私は、そのパスケースを、棚の上に置かれた智恵のピンクのバッグの横にそっと置く。そしてひっそりと控え室を後にした。



挿絵(By みてみん)


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