第21話
ベッドの上だった。
昨日コンビニのバイトから帰って、その後に智恵から電話がかかって来た。そこまではぼんやりと覚えている。だけどそれから風呂に入った記憶もベッドの中に入った記憶もない。疲れていた私は寝ぼけていて風呂も入らずにベッドの中に入ってしまったらしい。ベッドわきに置いている時計を見ると針は午前七時を指していた。
一度大きな伸びをした。特に今日は予定も無かった。そのまま寝続けていても誰も文句を言う人はいないのだけど、かといって自分の中にはすでに眠気が残っていなかった。頭の片隅に、さきほど夢の中で見たいくつかのシーンがこびりついていた。
あの夢は何だったのだろう。
そして夢の中で突然見えてきたあのシーンは何だったのだろう。
ベッドの上で横になりながらしばらくそのことを考えていたのだけど、結局私の中からはそれにつながるような記憶は一つも出てこなかった。このままベッドの上に横になっていても仕方がないと思い、布団を押し下げ上半身を持ち上げる。そしてそのままベッドの外に降り立った。
私の住むワンルームの部屋では、ベッドから洗面所まで数歩でたどり着ける。ベッドから立ち上がった私はその洗面所のドアを開け、中に入った。水を出そうとして蛇口に左手をかける。そしていつものように何気なく目の前の鏡に目をやった。
「あ!」
私の口から小さな悲鳴が上がる。
そこにはいつもの私の顔、青白い冴えない男性の顔が映るはずだった。だけど、その映るはずの顔と実際に映った顔は全く別の顔だったのだ。夢の中で見てきたあの女性の顔がその鏡には映っていた。鏡の向こう側で驚愕の表情を顔に貼り付け、こちらをじっと見つめていた。
その光景を目の当たりにして、私は混乱した。
どういうことだ?
まだ私は夢の中にいるのか?
だけど私の体は、今、自分が夢の中にいないことを私に伝えてくる。それはうまく言葉にはできなかったけど、私自身の実感として、その今、私がいる場所は夢の中ではないと教えてくれていた。
だとしたら……。
私はその状況に耐えられなかった。鏡の前に立ち続けていると私自身の存在がどんどん瓦解していく。そのような感覚が自分の中にあった。
洗面所を飛び出す。そして靴を履いて家の外に飛び出した。そのまま家に居続けると、自分が狂っていくと思った。
私は歩き続けた。
どこに向かっているのかも分からなかった。ただ、ひたすら歩き続けた。やはり今、自分が夢の中にいるという感覚は無かった。街を歩いている足の感覚は、確かに自分以外の何物でもなかった。春の朝の空気を感じている肌の感覚は、私自身のものだった。
通勤のために駅に向かう多くの背広を私は早足で追い越していく。そして私は今、自分が駅に向かっているということを知った。そうか、あの改札前の鏡に私は向かっているんだ。そんなことをぼんやりと考えたりしていた。その中でも早足で歩き続ける私の足は、私の意志を完全に離れてひたすら動き続けていた。
駅には二十分ほどで着いた。
朝七時を回った駅前は、通勤、通学に向かう人たちで溢れていた。改札口に上がる階段をスーツ姿の人たち、学生服姿の人たちが黙々と登っていく。じっと顔を伏せ、足元だけを見つめている。その人たちにとって周りの世界は存在しなくて、ただひたすら歩くことだけが意味があるかのようだった。私は一人、その人の群れの中に入っていき、同じように階段を登っていく。だけど、彼らの目的と私の目的は全く違っていた。私はただ改札口の前に設けられている鏡で自分の姿を見たかっただけだった。自分の存在をそれによって確かめたいだけだった。ただそれだけのために階段を上り続けていた。
階段を登り切り、あと少しで鏡の壁というところで私は立ち止まる。
私の後ろを歩いていた人が、突然立ち止まった私を見てちっと小さく舌打ちをした。そして私を迂回するようにして私を追い抜いて行った。だけど私にはもはやそんなことはどうでもよかった。あと一歩前に進めば、何かしらの真実が手に入るのだ。そう信じていた。私は一歩前に踏み出す。そして左側を向き、真正面から自分の顔を映した。
そこには、いつも以上に白く青ざめた、さえない男の顔が映っていた。いつも鏡の前で見ていた私自身の顔だった。
心底からほっとすると同時に、心底から混乱した。
どこまでが夢で、どこまでが現実なのか。
自分が狂ってしまったのか、それとも自分を取り巻くこの世界が狂ってしまったのか。
私には何一つ分からなくなっていた。




