6,波乱
ジョンはゆっくりとイザベラに詰め寄った。
「もしや、今まで出かけていたのはアルバートとではなくテオドール・ブルーだったのか?」
イザベラは唾を飲み込むと、目を逸らさずに頷いた。
「はい」
すると、ジョンは怒りに任せてイザベラの頬を叩いた。ヘレンとフィンレーは息を呑んだ。その場の空気が一気に凍りついた。イザベラは思わず頬を手で押さえた。痛かったけれど、実の父親に叩かれた事がショックで涙すら出てこなかった。するとフィンレーが、力なく遠くを見つめて立ち尽くすイザベラの肩を抱いた。
「父上、いくらなんでもやり過ぎです! ベラ、行こう」
イザベラは兄に連れられて部屋へ戻った。様子がおかしいと察したメアリーも部屋の中へ駆け込んできた。フィンレーはイザベラをベッドに座らせると、自分も隣に腰掛けた。
「ベラ、何であんな事を。急にテオドール君と結婚したいだなんて」
「お嬢様……! 旦那様にそう言ったのですか? なんてこと!」
メアリーも息を呑んだ。イザベラは絶対に涙を流さなかった。
「後悔はしてないわ。私はテオと結婚する」
「ベラ……!」
フィンレーは大きくため息を吐いた。フィンレーが出ていった後も、メアリーは涙を流しながらイザベラの手を握った。
「お嬢様、何もできない私をどうかお許しください」
「やめてよメアリー」
イザベラは顔を逸らして涙を流した。
「お嬢様はブラック家に行ってもきっと幸せになれますよ。わざわざ三つの家門の間に波風を立てることないでしょう」
「私はテオじゃなきゃ嫌。テオはすごく優しいの。私を愛してくれてるわ」
イザベラはこれまでにないくらい泣き叫んだ。
「お父様と今のお母様は私を愛してないのに、結婚相手すら好きな人じゃ駄目なの? 私は一生愛されずに寂しく生きろって言うの?」
今まで溜めてきた思いが溢れ出し、自分でも驚くくらいだった。メアリーはイザベラを我が子のように抱きしめた。
「ごめんなさい、お嬢様。でもお嬢様が愛されていないなんてあり得ません。私が愛しています。マーガレット様もそうですよ。赤ん坊だったお嬢様にいつも愛してると言っていました。寂しく生きるだなんて、お嬢様がそんな事を言う姿は見たくありません」
「メアリー……ごめんなさい……!」
イザベラは常に一番近くで愛情を注いでくれたメアリーを思い出し、泣きながら謝った。
「お嬢様が謝るのはやめてください。私はただ見ていることしかできない一介の使用人です。申し訳ありません」
メアリーは切なげに、優しく言った。イザベラはメアリーに抱きついて長い間子供のように泣いていた。
テオドールも、寝る前に心を決めて父親のもとへ歩み寄った。イザベラのために勇気を出さなくては。
「父上」
「どうしたんだ? かしこまって」
テオドールは深呼吸してから言った。
「ホワイト家のイザベラ嬢と結婚したいんだ」
「な……!? 急に何を言い出す。イザベラ嬢はアルバートと婚約しているだろう。冗談はよせ」
「冗談じゃない。イザベラ嬢も俺との結婚を望んでる」
テオドールの真剣な眼差しに、父リオは困惑した。横で聞いていた母親のナンシーも怪訝な顔で立ち上がった。
「何ですって? どういう事?」
「言葉の通りだ。俺とイザベラ嬢はお互いに結婚を望んでる」
「あなた……婚約者のいるホワイト家の令嬢と会っていたというの?」
ナンシーは口元を手で押さえ、震える声で訊いた。
「ああ。彼女はアルバートとの結婚を嫌がってる」
「だからってわざわざブラック家を敵に回すような事を……! 絶対にならんぞ」
リオは顔を真っ青にした。テオドールは揺らぐことなく背筋を伸ばして立ち続けた。
「いつも喧嘩ばかりしてるくせに……こういう時は二人して俺を責めるのか?」
ナンシーはリオをちらりと見てばつが悪そうな顔をした。
「でも……この話はわけが違うでしょう? ブラック家の長男の婚約者を奪うなんて」
「奪ったんじゃない。二人で始めた事だ。彼女がアルバートや家族からどんな扱いをされてるか知ってるか?」
必死な訴えも虚しく、リオが断固として拒否した。
「駄目だ! 学校で成績を超すのはいい。しかしお前が何と言おうと世間からはブラック家の長男から婚約者を奪ったようにしか見えない。余計な争い事を作るな」
リオは動揺しながら寝室へ向かっていってしまった。ナンシーも一気に弱った様子になりため息を吐いて部屋に戻っていった。落ち込んだテオドールが部屋に戻ると、心配そうに従者の男が尋ねた。
「何かあったのですか?」
「いや……」
テオドールは何も言わずにソファーに座り込んだ。
翌日、家を出ようとするイザベラに向かってヘレンが叫んだ。
「ちょっと! どこへ行くの!」
「……あなたには関係ありません」
イザベラが無視して出ようとしたが、ヘレンは腕を掴んで引き止めた。
「またテオドールに会いに行こうとしてるの? 駄目よ!」
「違います。グリーン家のシャーロットからお茶会に誘われているので」
「そうやって嘘吐いて! 来なさい!」
ヘレンは腕を引っ張って部屋に連れていこうとしたが、イザベラは強く振り解きバッグの中から手紙を取り出した。
「これが招待状です。時間に遅れちゃうわ。それとも、ホワイト家は娘をお茶会にも出席させずに監禁していると噂されたいですか?」
ヘレンはばつが悪そうに一歩後ろに下がった。イザベラは最後に言い放った。
「いつも私の事なんか放置してるくせに。そんなに株が欲しいですか? 今でも十分派手に暮らしてるでしょう。ああ、元は貧しい貴族でしたっけ」
「あなた……! 母親に向かって……」
「母親面しないで!」
イザベラは叫んで玄関を出ると、大きな音を立てて扉を閉めた。ヘレンはビクッと肩を震わせると、唖然として胸に手を当てた。
「まあ怖い……あんな子だったかしら?」
車を降りたイザベラは、天使のように笑うシャーロットに出迎えられた。
「ベラ! いらっしゃい!」
シャーロットはイザベラの手を取って邸宅の庭へ案内した。
「招待ありがとうチャーリー」
「こちらこそ来てくれてありがとう。あと二人来るわ」
庭の丸テーブルには既に二人の令嬢が座っていた。
「イザベラ・ホワイトさん? ごきげんよう」
「ごきげんよう」
イザベラは微笑み返した。やがてもう二人の令嬢が到着すると、使用人たちがお茶とお菓子をテーブルに並べた。お菓子を食べながら談笑をしていると、令嬢の一人がイザベラに尋ねた。
「イザベラさん、挙式はいつなの?」
シャーロットを含め他の皆も興味津々で身を乗り出したが、イザベラは目を泳がせた。
「えっと……アルバートとは結婚しないわ」
「え!? 確かに婚約してるって言ったのに」
シャーロットは目を丸くした。
「一体どうして?」
令嬢たちも心配そうに尋ねた。
「父が婚約を決めたけれど、私には他に好きな人がいるの。だからアルバートとの婚約の話は忘れて」
「まあ、お父様は許してくれるの?」
シャーロットに訊かれて、自信がないイザベラだったが確信したように言った。
「それも分からないけど、とにかく私はアルバートとは結婚しないわ」
「そうなのね。ブラック家の長男だなんて完璧な結婚相手に見えるけど、あなたの好きな人って誰なの?」
令嬢の質問で皆の視線がイザベラに集まった。イザベラは恥ずかしそうに口にした。
「ブルー家のテオドールさんよ」
皆は顔を手で覆って息を呑んだ。
「嘘! ブルー家だなんて。アルバート様は何て言うのかしら」
「恋の三角関係ね!」
きゃっきゃとはしゃいでいた令嬢たちだが、イザベラの気持ちは不安でいっぱいだった。シャーロットが言った。
「でもアルバートさんはあなたの事を好きみたいだったわよ?」
「でも火事の時助けてくれたのはテオドールさん」
イザベラが言うと、皆は胸をときめかせた。
「きゃあ! 無事に結婚できるといいわね」
令嬢たちはイザベラの恋を応援した。皆の前で言い切ったはいいけれど、これからどうしよう。父はかなり怒っていた。イザベラは笑顔を保ちながらも不安に駆られていた。
お茶会が終わって重い気持ちで家に帰ると、ジョンがイザベラの前に歩いて来て道を塞いだ。
「イザベラ。今日ブラック家の皆様を晩餐に招待した」
「そんな……」
「テオドール・ブルーの事は忘れろ。アルバートとも何度も会えば仲良くなれるはずだ」
ジョンは険しい顔のまま立ち去った。その後、イザベラは晩餐会の時間までベッドに横になっていた。テオドールからのハグが恋しくて、自然と涙が流れ落ちた。部屋のドアがノックされる音でイザベラは体を起こした。
「お嬢様、そろそろ着替えないと」
メアリーがクローゼットからドレスを持ってきた。
「食事が喉を通ると思う?」
「ご飯はしっかり食べないと体を壊しますよ」
メアリーはいつもの様に優しく声をかけた。イザベラは重い体を起こしてドレスのボタンを止めてもらった。鏡に映る自分は綺麗に着飾っているはずなのに、まるで死んだ人形のように見えた。いよいよ時間になると、ホワイト家全員でブラック家を迎えた。
「ようこそ」
ジョンはブラック家の皆に笑顔を見せた。
「招待ありがとう」
エリスはジョンと握手を交わした。後ろにいたアルバートがイザベラを見て手を振った。
「イザベラ、元気だった?」
「ええ……」
イザベラは口元だけを微笑ませた。
終始イザベラはあまり食事に手を付けず、元気のなさは皆に伝わっていた。心配したブラック家のグレイス夫人は、皆が食べ終わった頃に声をかけた。
「イザベラさん、アルバートと二人で外へ散歩でもしてきたら?」
「それがいいな」
エリスも頷くと、アルバートは意気揚々と席を立ってイザベラに手を差し出した。
「行こう」
イザベラは皆の視線が集まる中その手を取り、アルバートと二人で外へ出た。扉が閉まると、アルバートは手を繋ぎ直して道を歩き始めた。
「どこに行こうか。公園がいいかな? イザベラ、元気がないみたいだけどどうしたんだ?」
イザベラは顔も見ずに言った。
「あなたは舞踏会の日から今日まで私に会いたくはなかった?」
「もちろん会いたかったさ」
「晩餐会に招待されなかったらいつ会いに来るつもりだったの?」
「それは……魔法薬の研究で大変で。もしかして寂しかったのか?」
アルバートは鼻高々にそう言ったが、その瞬間イザベラはサッと手を離して立ち止まった。
「私……あなたと結婚しないわ」
「何だって?」
「あなたとは結婚しない。私の事は忘れて。ごめんなさい」
すると、アルバートはイザベラの両肩を掴んで揺さぶった。
「急にどうした……! 何が嫌なんだ? 僕の何が気に入らない!?」
「そういう所よ! 痛いから離して」
アルバートはハッとして手を離した。
「悪かった……考え直してくれないか?」
「元々好きで婚約したわけじゃないわ。どうしてもあなたの事を好きになれない」
「そんなのこれからだろう。まだ数回しか会ってないし、これからお互い努力すればいい」
「もう遅いわ! あなたの人柄はもう知ってる。……テオドールさんとその友達は卑しくなんかないわ」
イザベラが涙目で言うと、アルバートは顔を顰めた。
「……あいつに会ったのか?」
「ええ、会ったわ。あなたと違って無理やり腕を引っ張ったりしないし、人を見下したりしない。テオドールさんとだって数回しか会ってないわ。だからあなたが努力しても無駄よ」
唖然としていたアルバートはイザベラを見て嘲笑った。
「それで? 僕じゃなくてあいつを好きになったのか?」
イザベラは涙を堪えながら、堂々と顔を逸らさずに答えた。
「そうよ」
「ふざけるな!!」
アルバートの怒号が響き、周囲にいた人たちがチラチラと二人を見た。居づらくなったイザベラは帽子を深く被り直すと、早足で家の方へ向かい出した。