3,初めての思い
ホワイト一家は家に戻ると、明るくメアリーに出迎えられた。
「おかえりなさいませ。楽しんできましたか?」
「大変だったわ。宮殿で火事があったのよ」
ヘレンは大きな帽子を外してそばにいた若い侍女に渡した。
「まあ! 皆さん怪我はありませんか?」
「何ともないよ」
フィンレーはにこりと笑った。イザベラは暗い顔のまま黙って部屋に戻ると、メアリーもすぐに後を追ってきた。
「お嬢様。ご無事で良かったです」
メアリーはイザベラの羽飾りを外しながら言った。
「メアリー、私死ぬかと思ったのよ。火事が起きた時ちょうどお手洗いに取り残されて。ブルー家のご長男が助けてくれたの」
「そうでしたか……! 本当にご無事で何よりです。お嬢様がいなくなったら私は生きていけませんよ。亡くなった奥様にも顔向けできません」
メアリーは目に涙を浮かべた。
「私、助けられて家族の所に行ったら泣いて喜んでくれるんじゃないかと思ったの。抱きしめてくれるって。でも期待した私が馬鹿だったわ。お父様とお兄様は一応安心していたようだけど、お母様に人騒がせって言われた」
「人騒がせ? なんて酷い」
メアリーは怒って更に涙を流した。イザベラは愚痴が止まらず喋り続けた。
「アルバートも、魔法が使えるくせに何もしなかった。私があのまま死んでたらみんなどう思ったのかしら」
「そんな事言わないでください!」
メアリーは泣きながら大きな声を出した。イザベラは驚いて言葉を止めた。
「……冗談よ」
「冗談でも……マーガレット様が聞いたら悲しみます」
マーガレットとは亡くなった母親の名前だ。イザベラは微笑んだ。
「分かったわ。もう言わないから。……何度お母様の所に行きたいと思ったか。でも火事に遭って、死にたくないと思ったの。明日テオドールさんにお礼を言いに行かなきゃ」
「ええ……」
メアリーは手で涙を拭き、イザベラのネグリジェを用意した。
家に戻ったテオドールだったが、両親が無言でさっさと別の部屋に入っていく様子を見てため息を吐いた。あんな事があってもお互い心配一つしないなんて呆れるな。テオドールはすぐに服を脱いでシャワーを浴びた。火事で付いた汚れを洗い流して部屋に戻ると、頭の中にバルコニーで夜空を眺めるイザベラの横顔が浮かんだ。
『もう、どこ行ってたのよ。人騒がせね』
母親にそう言われた時のあの悲しそうな笑顔も――。話を聞いたからにはどうも放っておけないと感じた。
「何もできないとは情けない」
アルバートは父親であるエリス・ブラックにそう言われて肩をすくめた。
「申し訳ありません……」
「テオドール・ブルーの魔法が陛下や貴族たちに知れ渡っただろう。お前も負けてはいられないぞ」
エリスは険しい顔で息子を見た。
「薬は飲んだのか?」
「はい、もちろん……。ですが水の魔法はあまり練習したことがなくて」
「今回は仕方がない。魔法薬の研究を何としても成功させるんだ。いいな?」
エリスの威圧に、アルバートは小さく返事をした。
「は、はい」
アルバートは部屋に戻ると、大きくため息を吐いた。国王に認められているのは自分だ。あまり心配することはない……。アルバートは自分に言い聞かせた。
翌日、イザベラは昼食を終えた後服を着替えた。水色のアフタヌーンスーツを着て、つばの広い白の帽子を被りコーデを決めた。白い手袋も忘れずに着けると、着替えを手伝ったメアリーが訊いた。
「どちらへ?」
「テオドールさんの所よ。もしみんなに聞かれたらグリーン家のシャーロットと養護施設へ行ってる事にしておいて」
「承知しました。行ってらっしゃいませ」
メアリーに見送られて家を出ると、通りを走るタクシーに乗り込んで言った。
「時計屋までお願い」
時計屋に着くと、イザベラは車を降りて店の中に入った。並べられている数々の腕時計を見て、じっくりと悩んだ。どれが似合いそうかしら。店長の助言を受けながらイザベラは一つ選ぶと、代金を支払って再びタクシーに乗り込んだ。
魔法学校では、授業を終えたテオドールがトイレでアルバートと鉢合わせた。
「おお、アルバート。研究は順調か?」
「お前には関係ない事だ」
「いいだろ別に。ん? それは?」
テオドールはアルバートが急いでポケットに入れた小瓶を指さした。
「……何か?」
アルバートは平然とした顔で言い手を洗い始めた。テオドールも隣に行き手を洗いながら言った。
「いや、新しい魔法薬でも入ってるのかと」
「何でもない。傷を治す魔法薬だ。紙で指を切ってしまってね」
アルバートは足早にトイレを出ていってしまった。陽気な顔をしていたテオドールだったが、アルバートが去った途端に眉間にしわを寄せた。あの薬はもしかして……まさかブラック家たる者が魔力増加薬に頼るとは思い難いが、火事の時何もしなかったのを見ると納得がいく。テオドールは疑いをもちながら友人のトーマスの元へ向かった。
イザベラはたった一人で魔法学校の前へやって来た。タクシーを降りると、立派な校舎を見上げた。門からは授業を終えた生徒たちがはしゃぎながら出てきている。少ないが女子生徒の姿もあった。アルバートに見つからないように陰に隠れて待っていると、昨日の舞踏会で会った令息が声をかけてきた。
「イザベラ嬢ではありませんか! アルバートは今実験室に籠っていて……」
「違います」
イザベラは食い気味に否定した。
「その……テオドール・ブルーさんはいらっしゃる?」
「テオドール? もうすぐ来ると思いますよ。あれ、浮気ですか?」
「そんな。昨日助けられたお礼です……。アルバートには言わないでください」
イザベラは俯き気味で答えた。令息が明るく返事をして去っていくと、イザベラは深呼吸してテオドールが来るのを待った。
テオドールがトーマスと一緒に門を出ると、大きな帽子を被った女性と目が合った。テオドールは、恥ずかしそうにそっと微笑むイザベラに思わず目を奪われた。
「イザベラ嬢」
すぐに駆け寄ると、イザベラはトーマスの方を見て言った。
「突然来てすみません。お友達と一緒でしたら出直します……」
「いいえ」
テオドールはとっさに大きな声で否定した。二人の雰囲気を察したトーマスはにやりと笑うと、テオドールの肩をポンと叩いた。
「練習はまた今度な」
「あ、ああ。すまない」
トーマスはそのまま走っていってしまった。少しの間沈黙が流れると、イザベラは慌てて先ほど購入した腕時計の箱を両手で差し出した。
「昨日助けてくださったお礼です。ありがとうございました。本当はディナーに招待したいですが、アルバートがいるので家族が許してくれないでしょう……」
「お気遣いありがとうございます。嬉しいです」
テオドールは笑顔で箱を受け取った。イザベラは何とか落ち着いた態度を保った。
「……これで失礼します。本当にありがとうございました」
「待って」
テオドールはスーツのポケットの中から小さな紙を取り出し、イザベラに差し出した。
「イザベラ嬢はオペラを観たことはありますか?」
イザベラは紙を受け取った。よく見ると、舞台のタイトルと上映時間が書かれていた。
「いいえ、ありません」
「では一緒に行きましょう。ちょうどチケットを二枚手に入れたんです。明日の夜ですよ。……アルバートの事が気になるようでしたらこれは捨てて構いません」
テオドールは会釈をすると、くるりと背を向けて去っていった。イザベラはもう一度手元のチケットを見つめた。オペラなんて連れていってもらったことがなかったわ。
『この世界は思っているよりも広い』
もっとたくさんの事を知りたい。イザベラはチケットを丁寧に折り畳んでポケットにしまった。
次の日の夜、イザベラは煌びやかなドレスを着て劇場へ向かった。車を降りてスーツ姿のテオドールを見つけると、近づいていき声をかけた。
「こんばんは、テオドールさん」
テオドールはイザベラの姿を見るとすぐ笑顔になった。
「イザベラ嬢。来てくれないかと思いました」
「アルバートとの約束だと嘘を吐いてきました」
イザベラはいたずらっぽく笑った。そして、テオドールは自分の腕を差し出した。
「行きましょうか」
「はい」
イザベラはテオドールと腕を組んで劇場へと入っていった。上映前席に座っていると、テオドールは尋ねた?
「アルバートと本当に結婚するんですか?」
イザベラは俯いた。
「しなきゃいけないでしょうね。私にはどうにもできません」
イザベラはふと、前の席にやって来た家族連れが目に入った。これから始まる舞台に胸を躍らせ、笑い合っている家族の姿から思わず目を逸らしてしまった。やがて幕が開き、二人は舞台の方へ目を向けた。
鑑賞を終えて劇場の外へ出ても、舞台の余韻は続いていた。王子と平民の女性が深く愛し合い駆け落ちしていく――。イザベラは胸がいっぱいになった。
「オペラってこんなに感動するものなんですね。歌に引き込まれました」
「私もです。楽しんでいただけたようで良かった」
テオドールは安心したように微笑んだ。イザベラは劇場の中を振り返った。自分もあんな風に、本気で誰かを愛してみたい。
「テオドールさん。良ければ私の知らない事をもっと教えてくれませんか?」
テオドールは一瞬驚いて目を丸くした。
「それなら……ちょうどいい。土曜日に魔法学校の前に来てください」
期待させるような顔でテオドールが言うと、イザベラは戸惑いながらも頷いた。イザベラがタクシーに乗った時、テオドールはまた微笑みかけた。
「お気をつけて」
「テオドールさんも。ありがとうございました」
イザベラは上品に微笑んで手を振った。
テオドールが家に帰ると、母ナンシーが嬉しそうな顔で手紙をもってきた。
「テオ! 宮殿から招待状よ!」
「何だって?」
テオドールは手紙を受け取った。確かにテオドール・ブルーと名前が書いてある。
「あなたが火事を止めるのに協力したから、晩餐会に招待するって」
すると、父のリオも降りてきて誇らしげな顔をした。
「よくやったな。この調子でアルバートを超えるんだ! お前は私に似て優秀だからな」
この発言で、ナンシーがリオを鋭く睨みつけた。
「大学時代は下から数えた方が早かったくせによく言うわ。いつも見栄張ってばかりで恥ずかしい」
「何だと!」
「本当の事でしょう?」
テオドールはすっかり呆れてため息を吐いた。
「まあまあ落ち着けって。晩餐会は明日だってさ」
それだけ言ってテオドールは軽やかに自分の部屋へ駆け込んだ。
家に帰ってきたイザベラは、部屋でメアリーに髪を解いてもらった。
「本当はアルバート様との約束じゃないんでしょう?」
メアリーが穏やかな顔のまま訊いた。誤魔化しきれないと悟ったイザベラは笑った。
「何で分かったの?」
「そりゃあ、あんなに嫌がってたのに今日は嬉しそうに出かけていったじゃないですか」
「そんなに分かりやすかったかしら?」
「ええ」
メアリーはイザベラを咎めることもなく、いつものように部屋を出ていった。イザベラの頭にはテオドールの事ばかり浮かんだ。私には何もやりたい事がない。そもそも何があるのかを知らないから。
『土曜日に魔法学校の前に来てください』
テオドールの優しい目と微笑みがまた頭に浮かんだ。土曜日に何が待っているのかと期待しながら、そっと眠りについた。