1年後に結婚する君と過ごす、甘々な同棲生活
4月。
目が覚めると、味噌汁の良い香りが鼻腔をくすぐった。
耳を澄ますと聞こえてくるのは、軽快なリズムで食材を刻む包丁の音や、お湯が沸いたことを知らせる電気ケトルの高音。
毎日耳にする何気ない音の数々は、朝一番から俺に幸せを感じさせた。
寝室を出てリビングへ向かうと、朝食を用意していた「彼女」はすぐに俺に気が付いた。
「あっ、おはよう、琥太郎」
俺を見るなり、「彼女」はニコッと微笑む。
葛西琥太郎、21歳。現在恋人の茅ヶ崎詩音と同棲しています。
土曜日の朝8時。
お互いに大学のある平日は忙しないけれど、今日は二人とも休みなので、ゆっくりしていられる。
テレビの情報番組を流しながら、俺は詩音の作った朝食に舌鼓を打っていた。
今朝のメニューは、ご飯と味噌汁と卵焼き。俺も詩音も朝はご飯派なので、我が家の朝食は和食と決まっている。
卵焼きを一つ口の中に放り込むと、ふと詩音がじーっとこちらを凝視しているのに気付いた。
もしかして、寝癖で髪の毛が面白おかしくなっているのか? そう思った俺は、手櫛で軽く髪を整える。よし、これでオーケー。
寝癖は直ったはずなのに、しかしどういうわけか、詩音は依然として俺を見つめ続けたままだった。
何かを期待するような詩音の瞳を見て、俺はようやく理解する。
……あっ。これは感想を求められている系ですね。
俺はもう一度卵焼きをよく味わってから、素直な感想を口にした。
「すごく美味しい。いつもありがとうな」
俺の好みに合わせた、少し甘めの卵焼き。前に「卵焼きは甘い方が好きだ」と言ったのを、覚えてくれていたらしい。
この卵焼きは、詩音が俺のことを思ってくれている証拠だ。だからこそ、一層美味しく感じる。
褒められて「よしっ!」と小さくガッツポーズをする詩音が、無性に愛らしかった。
その後もテレビを観ながら朝食を進めていると、詩音が「ねぇ」と声をかけてきた。
「今日って2人ともお休みじゃん? しかもめっちゃ良い天気だと思わない?」
「そうだな。洗濯物も、よく乾きそうだ」
「……」
俺の返答がお気に召さなかったのか、詩音はリスのように頬を膨らませて不満を強調する。……あー、はいはい。そういうことですね。
俺はすぐに最適解に思い至った。
「……せっかく良い天気なんだし、どこか行かないか?」
表情が一変し、途端に笑顔になる詩音。クソ可愛いな、おい。
「行く行く! 琥太郎とだったら、地球の裏側にだって一緒に行っちゃう!」
「月曜から大学があるし、地球の裏側は無理だろ。その代わり、ショッピングモールの映画館に行かないか? 観たい映画があるって言ってたよな?」
「覚えててくれたんだ!」
「そりゃあ、まぁ。彼氏ですから」
「彼氏ですから」。自分で言ってて、小っ恥ずかしくなった。
詩音の彼氏という肩書きに、俺はまだ慣れていないようだ。
映画の上映時間を調べると、なんとあと2時間後らしい。
俺は洗い物と洗濯担当、詩音は俺をドキドキさせる為のおしゃれ担当という役割分担をして支度をし始める。
家事と身支度を終えて、玄関で詩音を待っていると、
「はい」
彼女は俺に、薄手のカーディガンを渡してきた。
「映画館は寒いからね。これ、必要でしょ?」
「……確かに。よくわかったな」
「そりゃあ、彼女ですから」
どこか恥ずかしそうに、詩音は言う。詩音も俺の彼女という肩書きに、まだ慣れていないようだった。
◇
一緒に観た映画は、とても面白かった。
二人で一つのポップコーンを食べて、お互いの飲み物を一口ずつ味見し合って、ラブシーンではどちらからともなく手を握り合って。
誰から見ても、俺と詩音は「恋人同士」だった。
俺と詩音は、これから一生愛して合っていけるんだろうな。多分じゃない。確信さえある。でも――
映画が終わり、ショッピングモールの中を歩いている時、ふとショーウィンドウに飾られたウェディングドレスが目に入った。
純白の綺麗なウェディングドレス。女性ならば、誰でも一度は着てみたいと思う筈だ。
ウェディングドレスを眺めながら、俺は詩音に言った。
「お前ももうすぐ、これを着るんだよな」
「もうすぐじゃないよ。まだ、先だよ」
1年後、彼女は結婚する。
毎朝夫に「おはよう」と微笑みかけて、夫の好みに合わせた卵焼きを作って、休みの日は夫と一緒にデートをする。それが詩音の、近い将来で。
だけどその夫とは、俺ではない。俺の知らない、別の男だ。
詩音は名家の御令嬢で、小さい頃から嫁ぎ先が決まっていたとか。俺みたいな庶民とは、本来住む世界が違う。
だから、俺と詩音は夫婦になれない。1年という期限付きの、恋人同士なのだ。
◇
6月。
バイトを終えて帰路に立つと、雨が降っていた。
季節は梅雨。たとえ朝晴れていても、午後から天気が急変することも十分あり得る。毎年のことだというのに、そのことをすっかり失念していた。
……失敗したな。こんなことなら、折り畳み傘くらい鞄に忍ばせておくんだった。
小雨になるまで時間を潰そうと思い、スマホをいじり始めると、いきなり肩を叩かれる。振り返ると、
「お疲れ様」
詩音が俺の分の傘も持って、迎えに来てくれていた。
「琥太郎、傘持ってなかったと思ったからさ。はい、これ」
「サンキュー。マジで助かった」
俺は詩音から傘を受け取る。本当、最高の彼女だよな。
傘があるなら、雨宿りの必要もない。傘を開こうとすると、隣で詩音がポツリと呟いた。
「……良いなぁ」
詩音の視線の先には、相合い傘をしているカップルがいた。
腕を組み、肩を寄せ合い、こんなにも大雨だというのに、カップルの表情は晴れ晴れしている。
同じく恋人がいる身としては、羨ましいと思って当然だろう。
しかし俺と詩音はそれぞれ傘を持っているわけだから、相合い傘なんてする必要はない。二人で一本の傘を使えばその分濡れる箇所も増えるわけだし、非効率だといえる。
……まぁ、世の中効率なんかよりもずっと大切なものがあるんだけどね。
俺は開きかけていた傘を、スッと閉じる。
「おい、詩音。この傘、骨が折れてるぞ」
「嘘!?」
「ホントホント。だから……その傘に、俺も入れてくれないか?」
「! うん!」
恋人に嘘をつくのはいけないことだけど、今は土砂降りなんだ。水に流してくれたって良いだろう。
飛びつくように俺の腕にしがみつき、肩を寄せてくる詩音。
彼女のこんな笑顔が見れるなら、たまには大雨も悪くないと思った。
◇
8月。
俺たち学生にとっては夏休みのシーズンが到来していた。
大学生の夏休みは、高校までのそれとは違う。
期間も長いし、バイトをしているから使えるお金も多いし、交友関係だって広がっている。
恐らく人生で最も自由な夏休みを、俺は恋人と一緒に謳歌していた。
貴重な大学生の夏休みを引きこもって過ごすだけなんて、もったいない。
8月も下旬に入り、多少は暑さも落ち着いた頃、俺と詩音は旅行に来ていた。
詩音が泳ぎたいと言ったので、行き先は海になった。
買ったばかりの水着姿ではしゃぐ詩音は、とても可愛らしくて。海なんかよりも見惚れてしまっていた。
楽しい時間は、あっという間に過ぎるもので。二泊三日の旅行は、気付けば最終日に突入していた。
帰りの新幹線までのカウントダウンは、もう始まっている。
俺たちは二人並んで砂浜に座り込み、夕日を眺めていた。
「旅行も、今日で終わりだね」
「そうだな」
「楽しかったね」
「あぁ。名残惜しいというか、帰りたくなくなるよな」
非日常は、現実を忘れさせてくれる。
少なくともこの三日間、詩音が別の男と結婚することを考えることはなかった。
「だったら、帰らなくても良いんじゃないかな?」
「え?」
「このまま旅行を続けて、もっと遠くの、知らない土地に行ってさ。誰にも見つからない場所で、楽しい旅を続けるの。いつまでもいつまでも、旅を続けるの」
詩音の言う「誰にも」が特定の誰かを表しているのは、言うまでもなかった。
「ねぇ、次はどこに行く?」
求めるような、すがるような目で詩音は俺を見る。
駆け落ち、愛の逃避行。なんてロマンチックな響きだろうか。
でも、そんなの所詮言葉だ。現実じゃない。
俺も詩音も、それはよくわかっていた。だから――
「帰らないとダメだろ。バイトもあるし、大学もある」
「……うん。そうだよね」
今日の思い出を、ずっと忘れない。そう心に誓って、俺たちは自分たちのいるべき場所へ帰っていった。
◇
12月。
バイトが終わり家に帰ると、詩音がサンタの衣装を着て俺を出迎えてくれた。
「お仕事お疲れ様、琥太郎! メリークリスマス!」
「メリークリスマス。ほい、頼まれていたケーキ」
「ありがとう! 私の好きな、苺のやつ?」
「あぁ。店長に頼んで、苺をサービスしてもらった」
「やった!」
苺が沢山乗ったホールケーキや、チキンの丸焼きなどなど。二人で食べ切れる量じゃないけれど、一緒に過ごせる最後のクリスマスなんだ。盛大なくらいが丁度良いだろう。
ちょっと高めの赤ワインも開けて、程よく酔いも回ってきたところで、俺は手のひらサイズの小箱を取り出した。
「ん? 何それ?」
「クリスマスプレゼント。受け取ってくれるか?」
「琥太郎からの贈り物だったら、何でも貰うよ。あっ、三行半はごめんだけどね」
ニシシシと笑いながら、詩音は小箱を受け取る。
「開けて良い?」
「もちろん」
小箱の中に入っていたのは……ペアリングだった。
リングの内側には、俺たち二人のイニシャルが彫ってある。俺が詩音の為だけに用意したという、何よりの証拠だ。
「婚約指輪を渡すわけにはいかないけど、これくらいなら許されるだろ」
俺は一度小箱を手に取る。
それから片膝をついて、開かれた小箱を詩音に差し出した。
「茅ヶ崎詩音さん。あなたを一生好きでいさせて下さい」
「……はい。私を一生、好きでいて下さい」
二人で交わした誓いの言葉と誓いのキスを、俺たちは一晩中反芻し続けた。
◇
2月。
気温が一桁台の冬の夜に、あろうことかエアコンが壊れた。
我が家にはこたつもファンヒーターもない。暖房器具と名の付くものに関しては、エアコンに頼り切りなのだ。
だから俺たちは、現在寒い部屋の中にいるわけで。
詩音は、大丈夫かな? 寒さで凍えていないかな?
「琥太郎、寝ちゃダメだよ。寝たらもう二度と起きられないよ」
「遭難中の雪山か」
冗談を言えるくらいは、余裕のありそうな詩音だった。
今はまだ我慢出来ているけど、しかしいつまでも悠長なことは言っていられない。
冬の真夜中は、極寒だ。気温はこれから更に低くなる。
せめて今夜だけは乗り切ろうと、俺たちは家中から毛布やタオルケットを引っ張り出してきた。
「タオルケットに毛布に、羽毛布団……。二人で抱き合いながら包まれば、一晩くらいは凌げるよね」
「だな。……で、お前は何でパジャマを脱いでいる?」
寒さで頭がおかしくなったのか、いつのまにか詩音は下着姿になっていた。
「抱きしめ合って寝るんだよ? こっちの方が、良いんじゃない?」
「バカ言ってるんじゃない。冗談抜きで死ぬぞ」
ちぇーっと言いながら、詩音は渋々パジャマを着る。……案の定、盛大にくしゃみをしていた。
毛布等の中で抱き締め合い、互いの身体を温めながら、俺たちは眠りにつく。
まぶたを閉じたまま、ふと詩音は呟いた。
「寝られる?」
「今まさに夢の中に入ろうとした瞬間、お前に起こされた」
「それはごめんね。……私もね、寝られそうな気がするんだ」
ギュッと、詩音の俺を抱きしめる力が強くなる。
「不思議だよね。こんなに寒いのに、とっても暖かい。エアコンが壊れて不安なのに、凄く安心する。どうしてだか、わかる?」
「……正解は?」
「琥太郎がいるから。琥太郎に触れているから」
俺は詩音よりもほんの少しだけ強く、彼女の細い背中を抱きしめ直した。
「離したくない」
「離れたくないな」
このままエアコンが壊れていれば良いのに。そうすれば、詩音といつまでも抱きしめ合っていられるのに。
冬が終わって欲しくない。春になって欲しくない。
俺は切にそう願い続けていた。
◇
3月。
詩音と恋人同士になって、一年が経った。
恋人になって、一周年。本来なら祝福すべきことなんだけど、俺たちにとってそれは……終わりを意味していた。
その日目を覚ますと、既に詩音の姿はなかった。
笑いかけながらの「おはよう」も、すっかり甘くなった卵焼きもない。代わりにダイニングテーブルの上に置かれていたのは、一枚の置き手紙だった。
『面と向かってさよならすると、きっと離れられなくなっちゃうから。今までありがとう。愛してるよ』
甘い夢が覚めて、直面する現実。突きつけられた三行半。……俺だって、こんな贈り物はごめんだっての。
寂しくないとは言わない。
めっちゃ寂しいさ。みっともないかもしれないけれど、今すぐ大号泣したいくらいだ。
いつかこの日が来ることはわかっていた。覚悟もしていた。だからって、耐えられるかどうかはまた別の話だ。
「……この部屋って、こんなに広かったんだな」
ベタなセリフを口にしながら、俺は朝食を作ろうとキッチンに向かう。その時、ピーンポーンと玄関チャイムが鳴った。
「……ったく。こんな時に一体誰だよ?」
傷心を抑えて、玄関のドアを開くと、そこには――
「……え? 詩音?」
この家を去ったはずの詩音が、立っていた。
「お前、どうしてここに……?」
俺の疑問に答えることなく、詩音は抱きついてくる。
俺もまた、彼女を抱きしめ返した。
「向こうの方から、「結婚を辞めたい」って言われたの。向こうは向こうで、他に大切な人がいたみたい。だから私も、「大好きな人がいる」ってお父さんに言っちゃった」
決められた人生のレール、避けようのない運命。詩音たちは、最後の最後で抗ってみせたのだ。
「朝ごはんまだだよね? お味噌汁作って良い?」
「もちろん。ついでに卵焼きも頼む。大好きなんだ」
「わかった」
靴を脱ぎ、キッチンへ向かう詩音だったが、ふとその足が止まる。
詩音はこちらを振り返ることなく、俺に聞いてきた。
「お味噌汁さ、これから毎朝作って良い?」
1年という期限は、もう存在しない。
来年も再来年も、10年後だって、詩音の味噌汁を飲み続けようと心に誓うのだった。