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周郎

作者: コルシカ

周郎


コルシカ



時は後漢の末、建安十三年(二〇八)秋、呉の将軍である孫権へ一通の書状が届けられた。


 ――近頃、天使の辞を奉じて、罪あるものを伐つ。旌旗、南を指し、劉琮、手を束ねたり。今水軍八十万の衆を治め、方に将軍と呉において会猟せん。


 「会猟とはな……」

 孫権は自虐的な笑みを浮かべたが、書状をもつ手は情けないほどに戦慄で震えていた。書状を送りつけた相手は漢の丞相・曹操であり、「会猟」とは戦争を意味する挑戦状だったからである。

 曹操はすでに中国北方を平定して中原の覇権を掌中に治め、華南制圧の大軍を発したのは同年七月のことだった。翌八月には挑戦状に名前の記されている劉琮を無血開城させて荊州を制圧、さらに南下し呉の孫権を屈服させる書状を送りつけた。長江を挟んでの合戦と見込み、公称「水軍八十万」を人工池の「玄武池」で訓練した上、満を持しての出陣である。

 「軍議で決したことです。もう、ためらわれますな」

 謀臣の魯粛が、孫権に向かって自信ありげに励ます。孫権はその碧色の眼を魯粛に向けた。

――紫髭碧眼。

 このとき二十七歳の孫権の容貌について、史書はこう記す。彼には明らかに、異境の血が混ざっていたようだ。また性格については、「身を低くし辱を忍び、才能がある者に仕事をまかせて緻密に計画を練るなど、……万人に優れ傑出した人物」と三国志の著者・陳守は評している。反面「疑り深く、容赦なく殺戮を行う」短所もあり、この十一歳年上の魯粛が強硬に主張していた主戦論に、自らが賛同したことへ、いささかの躊躇をおぼえていたのだ。

 「亡き御母上のご遺言を、思い出されませ。国内の事は張昭に問え、そして国外の事は……」

 孫権は、魯粛の進言に手を打って叫んだ。

 「国外の事は……。おおそうじゃ、国外の事は周瑜に相談せよ、と仰せられた!周瑜を、早う周瑜をこの柴桑まで呼びよせるように」

 魯粛は嬉しそうに、

 「周瑜は、もう水軍の訓練を終え、明日にもこの地に到着いたしましょう。ご心配なされませぬよう」

 と得意げにいった。

 「何やら騒がしいな」

 白銀の鎧兜を身にまとった周瑜が船から柴桑の地へ下り立ったとき、彼を待っていた人々からの異様な雰囲気から、思わず呟いた彼の第一声である。

 ――相変わらず、お美しい。

 周囲の呉の臣民が、ため息のように口々に囁きあった。

 周瑜は、三十三歳になるが水上訓練のために少し日に焼けたその肌は、より彼の美貌を引き立てているかに見える。

 ――東呉の美周郎。

 あるいは「周郎」と呼んで、呉の人民は彼を慕っている。「郎」は男につける通称であるから、「美しい周さん」とでも解釈すればいいだろう。謹直な史書でさえ「長壮にして姿貌あり」と記されていることからも、彼の美しさは推して知るべし、である。

 「やあ、公瑾(周瑜の字)待ちかねたよ」

 「おお、子敬(魯粛の字)か。久しぶりであるな」

 船から下りた周瑜は、真っ先に親友である魯粛の両手を握り、再会を喜ぶ。

 「軍議は大もめにもめてなあ。でも戦うことに決まったよ。君も異論はないだろう?」

 魯粛の幕舎への道すがら、魯粛は周瑜の美しい横顔を眺めながらいった。

 「もちろんさ。水軍で我が方が北方の寄せ集め(曹操軍)に負けることはない。でも、よく和平派の張昭どのをねじ伏せたものだな。少数派だったろう、こちら(主戦派)の方は」

 周瑜は自らも好む楽器の旋律のように、優雅な笑いをたたえる。

 「それがだよ……まあ、怒らずに聞いてくれ。劉豫州を味方に引き入れた。それで主公(孫権)もご決心なさったんだ」

 「劉備玄徳をか?そうか、ううむ……」

 周瑜が、眉間に皺を寄せる。

 劉備、字玄徳は黄巾の乱での旗揚げ以来、四十八歳の今日に至るまで安定した基盤となる領土を持ったことすらなく、自らを中山靖王・劉勝の末裔と名乗ることだけを唯一の食い種とし、この群雄割拠の乱世を乗り越えてきた人物である。曹操の荊州侵攻においては、荊州の主・劉表の食客となっていて、おりしも亡くなった劉表の跡を継いだ次男・劉琮に徹底抗戦を呼びかけたが無視され、やむなく軍を率いて南下したところを曹操に追いつかれ大敗北を喫していた。

しかし若い頃から学問よりは狩猟などの遊びやファッションに興味を持ち、劉備自身の才能はあまりなかったが、不思議と人を惹きつける魅力をもっているらしい。配下には、関羽、張飛、趙雲といった天下に名を轟かせた猛将たちが顔を揃えている。

 「公瑾(周瑜)、君が劉備を嫌っているのは承知の上だ。しかし、彼には武将の関羽が率いる一万の水軍がある。それに死んだ劉表の長男・劉琦が劉備を頼って数万の兵を養っているという。

 我が軍は多く見積もって、その数は五万だ。曹操軍は百万を号しているが、実質は二十万と見た。我が軍と劉豫州が同盟すれば、兵数の上では曹操軍の半分近くにはなろう。そうすれば、北方の軍勢は水戦に不慣れ、呉の勝利はぐんと現実味を帯びてくる」

 魯粛の説得を聞いて、周瑜は関心していった。

 「よく、それだけの事を調べ上げたものだ。いったいどうやってそれを?」

 「劉表の弔問役を買って出たからさ。そのときはまだ荊州が曹操に降伏するか戦うかがわからなかった。劉備を旗頭に、劉琦と劉琮が力を併せれば、彼らを手なずけて同盟友好関係を築こうと目論んだ。だが、南郡まで来たところで荊州は降伏してしまい、その目論みは水泡に帰した。

 そこへ劉備がほとんど身一つで荊州を脱出し、長江を渡って南に走ろうとしているという知らせが入ったんだ。そこで急いで劉備を追い、長阪という場所でようやく面会することができた」

 「いや、おれが知りたいのは、身一つで命からがら逃げてきた劉備が、なぜ数万の兵を用意できたかなんだよ。あの男が戦で負けて逃げるときは、決まって妻子を人質に捕られていただろう。それが、今回に限っては……負け戦を想定した上で、次の一手を打っておいたかのような周到さだ。それは、なぜだ?」

 周瑜が身を乗り出して、魯粛を問いただす。

 「それは、劉備が軍師をもつようになったからだよ」

 「軍師?誰かは知らぬが、抜け目ない男のようだな。行動の目的が明確で、直線的だ」

 「その軍師だが、公瑾(周瑜)の知り合いの弟なんだ」

 「おれの知り合いか。見当がつかないな」

 「諸葛謹どのさ。彼の弟で、名前が諸葛亮、字を孔明という。実はもう劉備の使者として柴桑に来ていて、軍議にも顔を出している。」

 諸葛謹は字を子瑜といい、もとは琅邪郡の出身だが、後漢の末に戦乱を避けて江東へ移住した。今は孫権のもとで、長史(秘書)を務めている。温厚篤実、真面目を絵に描いたような人物で、主の孫権をはじめ、群臣からの信望も厚い。

 「子瑜(諸葛謹)どのの弟ならば、控えめで大人しい人物か、諸葛亮は」

 周瑜の問いに、魯粛はかぶりを振る。

 「いや、なかなか……積極的な男だよ。まだ三十前の若さなのに一人きりで我が陣営に使者として乗り込んできてな、将軍(孫権)の御前で、張昭どのや居並ぶ和平派の官僚たちを長口舌で打ち負かしたのだよ、曹操と戦うべし、とね。若いからアクは強いが、悪い人間ではないよ」

 「そうか。兄弟でも子瑜どのとは異質らしいな。老成したような子瑜どのと違って、孔明は才能を表に出したがる癖があるようだ……で、その曹操との戦を決めたという軍議を詳しく教えてくれないか」

 魯粛の幕舎に入った周瑜は、椅子に腰掛けて机の上に両手を組み、目をつぶった。

 諸葛孔明は、軍議の席上で立ち上がり、のっけから、

 「曹操は漢王朝をかさに着る逆賊であり、戦うべきである」

 とよく通る声で論じたという。身の丈は八尺もあろうかという長身で肌色が白く、呉の重臣たちの前でも全く臆する様子を見せない。

 「強弩の末、魯縞も穿つ能わず――という。魯国の縞は非常に薄い布ですが、どんなに強い弓矢を射ても、それが遠い所からであれば布に届く前に勢いを失い、薄い布ですら射通すことはできない。『強弩の末』とはすなわち遥か北方から遠征してくる曹操軍に他ならない。数は多いとはいえ軍には疲れで勢いはなく、荊州で急募した兵はいわば無理やり徴兵されたのだから士気は上がらないはず。実戦で、どれだけの力が出せるとお思いか。

 そして天然の要塞といえる長江を戦場に我々は戦えるのです。これこそ水戦に慣れた呉軍にとって、北方でほとんど水戦の経験がない曹操軍を殲滅する最も有利な条件である。曹操が人工池で水軍へにわか訓練を施したくらいでは、実戦で大量の船を操縦運動させるのは不可能といわざるをえません。さらに――」

 と孔明は和平派が繰り出す反論を、一つ一つ丁寧かつ大胆に退けていった。その言論には必ず根拠を提示して、説得力をもたせる配慮すら感じさせる余裕があった。さらに驚くべきことに、最後には孔明は討論の相手として孫権へとその矛先を向けたのである。

 「天下は大いに乱れて、孫将軍は挙兵して江東を所有し、劉豫州(劉備)も漢水の南で軍勢をもち、曹操と天下を争っております。曹操は中原の大乱を平定し、荊州をも降して、その威勢は、はなはだ遺憾ながら四海を震わせ、劉豫州は武力で対抗する術もなく遁走して孫将軍と共に戦おうと申しているのでございます。

 もはや議論する余地はありますまい。孫将軍自らが己の力量をはかり、この非常事態にご対処ください。もしも――」

 諸葛孔明は、居並ぶ呉の群臣を見渡して、最後に孫権の碧眼を見据えて声を張り上げていった。

 「もしも、曹操に敵わないとお思いならば、兵器甲冑を束ね、臣下の礼をとってこれに服従なさるがよろしかろう」

 この発言に議場は騒然となった。張昭、顧雍ら和平派の重臣たちも、孔明無礼なり、と声を荒げ罵った。

 「諸葛軍師、卿のいうとおりならば――」

 孫権は荒れる官僚たちを手で制していった。

 「なぜ劉豫州は、かたくなに曹操に降ろうとしないのか」

 冷静さを装ってはいたが、その顔面は朱に染まり、全身が微かにわなわなと震えている。孔明は内心しめた、とほくそ笑んだだろう、と魯粛はこのとき思った。孔明の弁舌がいよいよ熱を帯び始める。

 「斉の田横は壮士に過ぎなかったのに、漢の高祖(劉邦)に降ることを潔しとせず、義を守って自殺しました。ましてや劉豫州は漢王室の末裔であり、その才は世に卓越しています。荊州の民をはじめ、有能な天下の士が彼を敬慕するのは、あたかも水が大海に流れ込む様と同じ。

 万一事ならず、打倒曹操が成就しないならば、それは天命です。どうして漢賊の足下にひれ伏すことができましょう」

 いい終わると再び孔明は孫権の碧眼を見つめる。孫権もこの自分より二歳年長の使者の目を捉えて離さない。孫権は苦悶の表情を浮かべていた。孔明は特段表情の変化を看過することができない。

 「更衣する」

 軍議の場を包む沈黙を破ったのは、主席の孫権本人だった。更衣とは当時トイレに行くことを意味している。トイレに行く度に女官が控えており、新しい衣服が用意されていた。おそらく孫権は衣服を改めたうえで決定を発言するつもりだろう、とこの場にいる全員が思った。

 更衣に向かった孫権を待つこと数刻――。

 固唾を飲んで見守る諸将の前に、濃紺の新しい衣服に身を包んだ孫権が現れた。手には長剣をひっさげている。彼が数え切れないほどの文書をのせるテーブルの前に立ったその刹那――。

 「やあっ!」

 閃光一閃、目前のテーブルが、孫権によって振り下ろされた長剣で、真っ二つに割れた。

 「余は、老賊曹操と戦うことに意を決したり!以後講和のことを口にする者あらば、このとおりだ!よいな」

 静寂の議場は孫権の叫びで、興奮の坩堝と化した。魯粛は胸を撫で下ろして、ふと諸葛孔明を見た。孔明は孫権の決意を予想していたかのように、微笑みながら孫権に向けて拍手を送っていた。

 「諸葛軍師、あなたの考えは、余の考えと一致していると改めて感じ入った次第だ。劉豫州へもよろしくお伝えくだされ」

 興奮しきった孫権は肩で息をしていった。孔明は深々と礼をして、

 「承って候。これで戦に敗れた曹操は北に還り、孫将軍の呉と劉豫州の荊州は磐石となり、ひいては天下三分の鼎足が定まるでしょう。よくぞ、ご決断あそばせました」

 と自信をもっていった。この瞬間、孫権・劉備の対曹操軍事同盟が締結されたといっていい。

 ――天下三分。

 魯粛は、この無名の青年軍師の口から出た大構想に、内心舌をまいた。孔明はただの戦術家ではない、それに括ることができない何かをもっている・・・・・・。

そのとき、

 「失礼つかまつる!」

 と大音声を残して、議場から退席した武将が一人いた。孫権の父・孫堅の代から仕えてきた老将・黄蓋である。主戦派は程普・甘寧・呂蒙などといった武将たちに支持されてきたが、なぜか黄蓋だけは、

 「曹操は漢の丞相という立場にあり、大義名分をもつ。それと戦うのは逆賊の誹りを免れない」

 と非戦を誰憚ることなく主張していた。

 「よろしいのですか」

 こちらも譜代の武将・程普が心配そうに孫権に訊く。

 「やむをえまい。公覆(黄蓋の字)には公覆なりの考えがあろう。子敬(魯粛)でも遣わせて時をかけて説得させることにしよう」

 長剣を鞘に収めながら、孫権は去ってゆく黄蓋の後姿を見送っていた。

 「春秋戦国時代の弁士のような男だな、諸葛亮孔明というのは」

 魯粛から軍議の一連の流れを聞いた周瑜は、ゆっくりと目を開けて呟いた。そしてうんざりした様子で、

 「そういったハッタリ屋とは、やはりおれはソリが合わないよ」

 と頬杖をついた。周瑜は大胆に見えて内面は人見知りが激しく、若い頃から神経質で多病であった。精通している音楽を聴くときでも、たとえ盃が三度めぐった後でさえ、演奏に過ちや欠けたところがあれば周瑜は必ずそれを聞きわけ、演奏者の方を振り返った。それでいて演奏者を叱るわけでもない。

 「曲を間違えると、周郎が振り返るぞ」

 と呉の演奏者のあいだでは、常套句のようにいいはやしたものだ。周瑜には繊細すぎるところがあり、それを自覚するがゆえに他者への思いやりが深く、失敗した者へも頭から怒鳴りつけたりせず、その者を一人呼び出して納得いくまで誤りの経緯を説明し、理解させた。

大らかな魯粛としては、この年若い友人の才能が羨ましく思うと同時に、その性格に歯がゆさを感じずにはいられない。それで、魯粛はずうずうしさでは人一倍の諸葛孔明と周瑜を対面させようと試みる。

「ともあれ孔明に会ってくれないか。兄の子瑜(諸葛謹)どののような素朴さはないが、才気煥発の青年だよ。何か君の悩みを吹き消す手がかりを、もっているかもしれないし」

「悩み……子敬、わかっていたのか」

「何年の付き合いだと思っているんだ。それくらいはわかるさ。だが何に悩んでいるかまでは、わからない。それで、呉以外の人間に会って気分転換したらどうだ、といったまでだ」

魯粛は周瑜の背中を押して、孔明の宿舎まで案内する。周瑜はもともと神経症を患っており、今は鬱症状がやや現れている。表情に乏しい顔や、魯粛の話を聞くときの気だるそうな態度から、親友の魯粛はそれを察したのだ。


「これはこれは、子敬どの。わざわざ出向いていただかなくとも、こちらからお伺いしましたものを・・・・・・で、こちらのお方は」

 仮宿舎をいきなり訪問された孔明は、青い糸で編み上げた山高の頭巾を被り、鶴の衣のような服を着て挨拶に応じた。

(仙人みたいな格好をしおって)

 美意識の強い周瑜は、初対面から孔明に生理的な嫌悪を感じた。

 「提督の周瑜、字は公瑾でござる。いきなりの訪問、失礼つかまつる。友の魯粛がぜひ一度諸葛軍師にお会いすることを勧めますもので、土産の一つももたずにお伺いした次第です」

 「恐縮至極。諸葛亮、字は孔明です。兄の謹が、いつもお世話になっております。さ、少し散らかっておりますが奥へどうぞ」

 孔明は周瑜と同じくらい背が高く、敷居をくぐるとき頭を低くしている。部屋に案内された周瑜は、室内がおそろしいくらい家具調度品が少なく、散らかっているのは孔明が使用している机の上だけだということに気付く。

 「孫子に呉子、それに六韜ですか。それに地図まで・・・・・・戦の下調べですかな。しかし、このように家具など少ないと。さぞかしご不憫をおかけしましたでしょう。さっそく下士官に命じて調達させます」

 周瑜は、あまりに質素な孔明の生活態度を目の当たりにして、気遣いの言葉をかけた。

 「劉豫州(劉備)の全権大使として、私は呉に参りましたもので。少しでも時間をもてあますと、罪悪感を覚えるのです。いや、誰に対してとかいう大げさなものではありませんが・・・・・・。それから、家具調度につきましては、お気遣いなく。荊州の隆中で書生暮らしをしていた頃から、この方が面倒がなくてよいのです」

 「さようですか」

 気抜けした周瑜に、孔明自らが台所で茶を汲み、周瑜と魯粛にふるまった。

 (酒を出さないところを見ると、孔明の方にもしたい話があるのだな)

 雰囲気を察した周瑜は、早速に孔明に質問する。

 「地図を広げて熱心にご覧のようだが・・・・・・曹賊との此度の戦は、どこで行われましょうな」

 「わかりました。こちらへどうぞ」

 孔明が、周瑜と魯粛を机に誘った。三人は額を寄せるように、朱線があちこちに引かれている古い地図を覗き込む。

 「さて、我が主公・劉備は関羽の水軍と劉琦の軍数千をもって、水陸両路で漢水を下り長江に出ます。現在、孫将軍(孫権)の本営はここ柴桑にあり、前進基地が夏口にあります。

 両軍が合流すれば、対曹操の戦は本陣を夏口に置くことになるでしょう。賊軍(曹操軍)は、これに対して兵船を江陵で集めねばなりませんから、本陣も江陵で間違いないでしょう」

 孔明は魅入られたように机の上の書物を脇へ追いやりながら、地図に指を這わせて説明する。

 「やはり長江での水戦か。上流の江陵に曹操、下流の夏口に(孫権・劉備)同盟軍・・・・・・」

 魯粛が孔明の描く指先の曲線に目をやりながら、声をひそめていった。周瑜も無言で地図に見入っている。

 「決戦は、江陵と夏口の間で行われるでしょう」

 孔明の一言に反応した周瑜は、地図に指を置き、長江を「江陵」から「夏口」までゆっくりなぞって、こう呟いた。

 「ということは、烏林・・・・・・いや赤壁――」

 「さすがは周提督」

 孔明が、手を打って賛同する。周瑜と魯粛は、ほぼ同時に「うむ」と唸った。

 「ところで、周提督。ご気色がすぐれぬようにお見受けいたしますが」

 周瑜は、孔明の言葉で顔を横にそらす。美しい彼の顔も、至近距離で見れば魯粛も察するとおり、目の下のくまや、痩せた頬が急激なストレスを受けていることを物語っている。

 「いや、何・・・・・・近頃は色々と心労もかかりますゆえ」

 「大丈夫だよ、公瑾(周瑜)。戦の見通しがついたのだ。知らないほど怖いものはないよ。これからは、じっくり合戦の支度をするだけさ。君は水軍を扱わせれば、天下に比類なき指揮官だ。どん、と構えてゆこう」

 魯粛が、周瑜の肩に手をおいて励ます。周瑜は「ああ」と返答したものの、あいかわらずその表情は乏しかった。

 「肝要なのは、兵の士気――ではございませぬか」

 諸葛孔明が古い地図を巻きながら、周瑜にいった。

 「そのとおりだ。兵たちが、百万を号する曹操軍に怯えきっている。実勢二十万としても、そのような見たこともない大軍を目にして、いつもの力を発揮できるかどうか・・・・・・そのことを思うと夜も眠れんのだ」

 「周提督の処方箋、この孔明がもっているとすれば――」

 孔明は、もったいぶった言い方で直した地図を壁に立て掛け、周瑜の出方を探るようにいう。周瑜の不快そうな態度を見て取った魯粛が、

 「それは、ありがたい。ぜひ伺おう。な、公瑾」

 と、周瑜の追認を求めるような口調でいった。周瑜も不満そうに頷く。孔明は、にこりと笑うと「処方箋」について説明を始める。

 「私にも妻がおりまして、隆中に草庵を営んでおりますときに黄承彦という知り合いの娘を娶りました。ところが、その容貌は肌の色は黒く、髪は赤茶けてとても自慢できるものではありません。近所でも、

 『真似するな、孔明の嫁選びを。とんだ醜女をひきあてた』

 とはやしたてられたもので。いやもう、閉口いたしました。それに比べ周提督の奥方は」

 大変お美しい、と孔明は羨ましそうな口調でいう。

 かつては漢の大尉であった橋玄に、二人の娘がいた。ともに絶世の美女であり、姉を大橋、妹を小橋といった。橋玄が亡くなった後、その遺族は都・洛陽の兵乱を避けて皖城に移住した。その皖城が呉軍に攻め落とされたとき、呉軍の総帥は孫策の時代であり、孫策は大橋を妻にし、彼の親友だった周瑜は小橋を妻にした。孫策は容貌が優れ、自信家だったから、

 「橋公の娘は美貌であるとはいえ、我ら二人を婿にできた。これは彼女らにとっても喜ばしく幸運なことだ」

 と私的な場でいって憚らなかった。その孫策が建安二年(二〇〇)、許貢という者の食客に暗殺されてから七年。大橋は呉都に健在で、小橋は周瑜の妻として二男一女の母になっている。世間ではいまだ衰えぬ姉妹の容色を讃えて「二橋」と呼んでいる。孔明の妻とは、天地ほどの扱いの違いだ。

 「何がいいたい」

 周瑜が苛立って孔明に詰め寄る。相手を怒らせて話を落とす――これが、孔明のペースなのだと魯粛は呆れつつも孔明の「処方箋」の続きを聞く。

 「私がまだ隆中で書生暮らしをしていた頃、曹操は嶂河の畔に、豪壮な銅雀台を築きました。そこには中国選りすぐりの美女が、き奴の愛妾として数多く飼われているのです。

 しかし好色の曹賊は、それにも飽き足らず、さらに優れた美女を物色しておりましたところ、江東に傾国の美女が二人いることを教えられたのです」

 「それは、聞いている・・・・・・我が妻の小橋と、亡き討逆将軍(孫策)の奥方である大橋さまであろう」

 周瑜はすでに興奮しきっており、鎧から露出している肌という肌が真っ赤になっている。孔明は、なおも続けていう。

 「曹操はそれを耳にするや、こう宣言したと聞きます。そうだ!まず天下を平定して帝位に昇る。そして江東の『二橋』を奪い、彼女らを銅雀台に入れ老後を楽しもうではないか。ならば、いつ死しても悔いはないわい、と」

 「老いぼれの色気違いめ!誓ってその首を落とし、長江に向けて晒してくれようぞ!」

 周瑜は、にわかに立ち上がり、拳を突き上げて怒号を上げた。それから連日の睡眠不足で貧血を起こしてその場に倒れそうになる。それを長身の孔明が、ふわりと周瑜の背中を支え、耳元でこういった。

 「ご本人を目の前に、不躾な話をいたしました。しかし、周提督は今、曹操に対して怒っておられる。『我が妻を、賊の毒手から守らん』と。『美しい故郷の山河を、北の侵略者に踏みにじらせはしない』と。

 呉の兵士たちは、そういう指揮官の姿を見て、どのように思いましょうな」

 孔明に支えられた周瑜は、一瞬で孔明の話の意図を察した。そうすると、視界の霧も徐々に晴れ、胸の動悸も治まってきた。周瑜は背中のマントをさっと払うと、澄んだ声で、

 「分かった。諸葛軍師、あなたの処方箋確かに受け取りましたぞ。

これで、呉の兵士たちも存分に死力を尽くし、曹操軍と戦うことでしょう。かたじけない」

 そういうと、孔明に一礼した。魯粛は二人の会話が聞き取れなかったが、

 「そうか、やあ、よかったよかった」

 と朗らかに笑う。孔明も微笑みながら、

 「ところで、『英雄色を好む』と申しますが、周提督もお色の道にかけては、たいそうな手練れでございますか」

 と訊く。周瑜は意外そうな顔をして答えた。

 「女の事など、よくわからん。この世の終わりみたいに泣き叫ぶので、どうしたのかと問えば、髪飾り一つなくしただけであったりする。亡き伯符・・・・・・いや、討逆将軍(孫策)も女には興味をもたなかった。私もそうだ。女は妻一人で充分。政治軍事の方が、女の激しい波みたいな性格より、よほど先が読みやすい。諸葛軍師はどうか」

 「私もでございます。やはり男女の駆け引きを楽しむよりは、書物を読み、畑を耕す方が、性に合っているようで。英雄の資格はありません」

 魯粛が二人を見比べながら、

 「二人の美男が、世を憂いて女にかまわぬとは。勿体ない話ではないか」

 と嘆いてみせると、三人は同時に吹き出した。

 「最後に、周提督。先程私の妻を醜女と申しましたが、手前みそながら頭は悪くないのですよ。隆中で暮らしておりました頃は、客人が我が家を訪れたときなど、饂飩を作る器機などこしらえましてな。客に喜ばれたものです。曹操などは目もくれないであろう器量ではありますが、飽きない妻です」

 孔明は付け加えるように、美女を妻にもつ周瑜へ、のろけてみせた。

 後年、孔明は「木牛」「流馬」という兵糧を輸送する器機を開発して、兵站管理に大きな貢献をすることになるが、あるいはこれこそ彼の賢夫人に触発されて生まれた発明かもしれない。

 「もう、空に星が高い」

 「そうだな。主公(孫権)に会うのは明日にしよう」

 周瑜と魯粛は、連れ立って諸葛孔明の宿舎から出て、夜空を仰ぎつついった。

 「孔明は、やはり気に入らなかったか」

 魯粛が問うと、

 「ああ。確かに当代の俊英ではあるが、説得する相手を怒らせたり不安がらせたりするのは好かん。彼の誠実さを疑う。しかし」

 今晩はよく眠れそうだ、と周瑜は俯きながら答える。魯粛は、それ以上周瑜が孔明に何を聞いたのかを尋ねたりはしない。十数年来の親友だからだ。

 「時が経つのは、早いことだ」

 周瑜がしみじみという。

 「孔明と会っていた時間のことか」

 魯粛が何気なくいうと、周瑜は、

 「違う。君と出会ってからの時の早さだ」

 と感慨深げにいった。

 長江の南方は「江南」と称せられるが、その下流域一帯つまり東寄りの地域に広がる広大な沃野は「江東」と呼ばれていた。

 江東は春秋時代に呉の国が領有しており、はじめは南方の蛮族と呼ばれていたが、春秋時代中期には強国に成長し、中原諸国と覇を競うまでになった。

 全盛期には、孫武という名将が現れ、彼自身が著した兵法書「孫子」十三篇は、後漢の末まで伝わり、孫武をして兵法の神と呼ばしめるに至る。

 その後、後漢時代には江東の肥沃な土地を背景に開発が進められ、有力な豪族が各地に現れるようになった。その一つが孫堅・孫策・孫権親子を輩出した孫氏であり、真偽のほどは定かではないが、孫武の子孫を自称していた。

周瑜は、盧江郡舒県の出身で、その地元名家に生まれた。祖父の従兄弟の周景とその子周忠は二人とも後漢の大尉(軍務大臣)を務めていたし、周瑜の父である周異も洛陽の県令(知事)だった。

 周瑜が年少のとき、孫権の兄・孫策と盟友になったことが、後に若くして周瑜が東呉政権の中枢に参画することへの布石となった。孫権の父・孫堅が、黄巾の乱鎮圧の義勇軍を組織したとき、戦乱を避けた幼い孫策とその母は、周瑜の勧めで彼の故郷・舒県へと移住することにした。

 周瑜は道の南側にある家を孫策母子のために普請し、座敷に上がって孫策の母に拝礼した。それ以来、周瑜と孫策は「断金の契り」を結び、周孫両家は、足りないものがあれば互いに物を融通しあうほどの親密な間柄となった。

 孫堅が劉表との戦で戦死した後、しばらく孫策は袁術のもとで雌伏していたが、彼が初めて挙兵して江東に向かったとき、周瑜は真っ先に手勢を率いて孫策のもとに駆けつけている。

 「君が来てくれたからには、すでに我が事成れり、だ」

 と孫策は、周瑜の手を取って喜んだという。

 軍師として周瑜を迎えた孫策の軍勢は、まさに破竹の勢いであった。安徽省南部を攻め、長江を渡ると江蘇省の各地を次々と攻略、ついには曲阿の城下へ兵馬を進めてこれを陥落させた。城内の揚州刺史だった劉搖を追放し、袁術からの独立を模索し始める。その軍勢は、およそ数万。孫策は袁術のもとでは天下が望めないと察し、江東・江南地方の攻略をはかり、古くから「呉」と呼ばれていた国の覇者たらんと欲していたことは、周知の事実となった。

 袁術は世事に疎く、孫策の野望に気付かなかったから、周瑜を根拠地の寿春に召して将軍に任じようとしたが、周瑜の心はすでに盟友・孫策のもとにある。周瑜はその辞令を断り、自ら安徽省居巣の知事になりたいと願い出る。いずれ機を見て袁術のもとを出奔し、長江を渡って孫策のいる呉へ向かおうと企んでいたのだ。

 居巣の知事に赴任する途中に、一族兵士数百人を率いて臨淮の東城の富豪の家を訪れた。その資産家である魯氏の跡取り息子が若いながらも気前がよく、好んで英雄壮士と交わり、資金等を援助することで評判だったからである。

 「魯粛、字を子敬と申します。あなたが、孫策どのの軍師周瑜どのか。壮健な男子ながら、何とお美しいことか。何かお困りでも?」

 と魯氏の若い当主は、親しげに話しかけた。周瑜の声望は、すでに臨淮まで鳴り響いていたのだ。周瑜は喜色満面で、

 「はい、実は一族郎党の食糧に事欠いております。ご普請いただけるのでしょうか」

 と無邪気にいった。魯粛は、その場で家令を呼び、

 「東の米倉の鍵を開けなさい」

 と命じた。魯粛の家には東西二つの米倉があって、それぞれ三千石の米が収納されていた。

 「東の倉ごと周瑜どのに進呈いたしましょう。ご不足はありませんかな」

 周瑜は、驚いて言葉を失った。数百人には充分すぎるほどの米である。

 (この男も、乱世の風雲児か)

 周瑜は、それから幾晩も魯粛と天下の情勢について語り合い、意気投合した二人は古の子産と季札さながらの親交を結ぶ。まさに、邂逅である。後に袁術から東城の知事に任命された魯粛は、

 「袁術は、もういい。おれは公瑾(周瑜)についてゆくよ」

 といって、夜中に家族と遊侠の少年百人あまりを連れて東城を抜け出し、居巣の周瑜の屋敷に身を寄せた。

 「子敬(魯粛)、よく来てくれた。二人で天下を取ろうではないか」

 周瑜は、旅装のままの魯粛に抱きついて笑った。やることが支離滅裂な袁術に見切りをつけ、孫策のもとへ走ろうとした周瑜を思い留まらせていたのは、魯粛がいつかやって来るだろうと待っていたからだ。今こそ、時節到来である。

 ついに周瑜は魯粛を伴って呉の孫策のもとへ帰り、江東の曲阿に居を構えた。

 ときは建安三年(一九八)、周瑜二十四歳、魯粛二十六歳であった。

 孫策は自ら周瑜を出迎えて、建威中郎将(近衛隊長)に任命すると、兵二千人、騎馬五十頭を与えた。孫策は同年の盟友に報いるにはまだ足りないと思ったのか、周瑜に邸のみならず彼が好む楽隊まで整え、配下では格別の待遇をとっている。魯粛もその非凡さを買われ、とくに尊重された。

 こうして孫策は江東に武威を輝かせ、次第にその勢力は袁術をも凌ぐほどになった。糧食に恵まれた江東において、徴兵と戦を繰り返して勝利を重ねた。周瑜も孫策に従って各地転戦し、やがて、孫策を「小覇王」周瑜を「美周郎」という称号が天下に定着しつつあった。

 その翌年、孫策は暗殺された。享年二十六歳、若すぎる死である。後嗣は弟の孫権、字仲謀となった。孫策はもと呉都太守の許貢が「孫策は項羽のごとき人物、放置するのは危険なり」と曹操のもとへ送った手紙を手に入れ、発作的に許貢を絞殺したのである。その後狩りの最中に許貢の食客に襲撃され、あえない最期を遂げたのだ。孫策の情動的で短気な性格が招いた悲劇だった。

 魯粛は、孫策の死に失望した。たまたま友人の劉曄が魯粛に、「北に帰って、曹操に仕えないか」と誘いをかけてきた。魯粛は悩み、故郷に残してきた母のことを思う。

 (曹操に仕えよう。母のもとで天下平定を果たすことが、孝道だ)

 そうして、劉曄へ賛同の手紙を送った。その直後、周瑜が魯粛のもとを訪れた。魯粛の母を伴って。

 再会した母子が喜ぶ様子を遠くから見守っていた周瑜に、魯粛は涙を流しながらいった。

 「公瑾(周瑜)、君は、おれのことを何でも知っているんだな」

 「友が去ろうとしているのを、見棄てる訳にはいくまい」

 「それが、どうしてわかった?」

 「君の普段の素振りから、何となくな・・・・・・ご母堂の前だが、いわせてもらう。『良檎は樹を選ぶ』という言葉もあるが、昔漢の馬援が光武帝に進言した――当今の世では主君が臣下を選ぶだけでなく、臣下も主君を選ぶと。

 新しい当主(孫権)は、亡き討逆将軍(孫策)のごとく行動するに英断果敢なだけでなく、賢者に親しみ大丈夫を尊重し、優れた才能をもつ者たちを積極的に任用する、寛大な気風をもつ人物だ。

 行くな、子敬(魯粛)よ。これからが、我らの時代ぞ。我が主公は、おれと君という両翼を得て、江東の地に大いに飛翔されるであろう。預言者がいったという。『天運を受け劉氏(漢)に代わるものは、必ずや東南の地に興るであろう』と。どうだ、この乱世を占って見ると、『東南の地』とは、ちょうど呉であると思わないか。

 おれは、この預言を信じる。今こそ龍につかまり、鳳凰の背に乗って、獅子奮迅の活躍ができると喜んでもいる。遠く険しい道かもしれないが、子敬と共になら怖くない」

 「子敬や。よいご友人をもったものだね。新しいご当主さまも、ご立派なお方のようですが、周瑜どのを裏切ってはなりませんよ。『周郎』さまに、ついてお行きなさい」

 魯粛の母も周瑜の慈愛に感動して、息子の背を撫でて諭す。魯粛は涙を拭いつつ答えた。

 「参ったよ、まったく・・・・・・君という男には。おれも預言を信じよう。そして、君についてゆく。これから、君が嫌だといっても一生ついてゆく」

 頷いた周瑜の目にも、涙が浮かんでいた。

 実際、孫権は周瑜と同様、魯粛のことが気に入った。初対面では、賓客たちが退席した後も、魯粛だけを呼び止め、膝を突き合わせて酒を飲み語り合った。

 家老の張昭らが、年若く大言癖のある魯粛をよしとせず、任用を見合わせるべし、と説いたときにも意に介せず、魯粛の母に衣服や帳を惜しみなく賜り、住居や調度品の数々は、東城の富豪時代と変わらなかった。魯粛が、孫権の度量の大きさに感服したのはいうまでもない。

 「若かったな、お互い」

 魯粛は秋の気配がする長江の臭気を鼻腔に吸い込み、友人にいう。

 「うん。若かった」

 周瑜が、短くいう。やがて二人の間に無言の空気が流れたが、周瑜が唐突に、

 「今回は、いろいろと世話をかけた」

 と魯粛にいう。いつのまにか悠久の流れ長江のほとりに、周瑜と魯粛は佇んでいた。

 「どうした。いきなり」

 「よくぞ、子敬(魯粛)一人で主公(孫権)を曹操に降らせない策を成してくれた。君は主公にいったそうだな。和戦激しく議論する場で、更衣トイレに立たれた主公を追いその裾をもって『もし曹操に降れば、私は牛車に乗り、役人や従者を従え、やがては州の刺史や郡の太守になれるでしょう。しかし、将軍(孫権)はそうはいきますまい。身の落ち着きどころはないのです。どうか急ぎ大計をはかり、和平を論じる者たちの策をお用いになりませぬよう』と。

 その一言が、主公のお心を定めさせたのだと、おれは今でも信じている。諸葛孔明の長広舌で、主公は意を決したように皆は見たであろうが、あれは蛇足に過ぎない。

 君は一人で劉表の弔問役を買って出て、劉備と孔明に会い、我が軍との同盟の下準備を整えてくれていた。いわば、おれは曹操と戦うことだけを考えて柴桑へ行けばよかったわけだ。感謝しているよ」

 魯粛は、平然と暗くうねる大河の流れを眺めながら、

 「知っていたのか。でもいいんだ、おれは君と主公に惚れ込んで勝手に走り回っただけなのだから――でも劉備を味方にするときは迷った。君は、我が軍単独で曹操に勝つつもりでいただろう」

 と問う。周瑜は頭を振って、

 「いや、戦に負けたばかりの劉備が、一万以上の軍を動員できるとは思わなかったし、それが和平派への抑止力にはなった。含むところがないではないが、現在取り得る最良の選択肢だ」

 と清々しくいった。

 「では、早速劉備に会ってくれるか」

 魯粛が嬉しそうに頼む。周瑜はやや眉をひそめたが、申し出に合意した。

 「明日、主公に復命してから、劉備のもとへ船を走らせよう。確かめたいことも、幾つかある」



「船は、まだ見えないか」

 劉備は、物見の兵にせわしく問いただした。軍を夏口から柴桑近くまで進めてはきたものの、魯粛に随行させた孔明からの連絡が音信不通になっていたからである。

 (ここで碧眼児に見棄てられては、おしまいだ)

 彼が仁徳という武器に隠し持ってきた図太さも、今度迫る危機に対しては、敏感にならざるをえない。

 「戦には、なりましょうな。曹操が江陵に数千の船を集め、武器糧食を大量に倉へ貯め込んでいるそうです」

 部下の関羽が、見事な髭をしごきながら長江を眺めていう。顔は棗のごとく赤く長身で、武将としては堂々たる体躯である。

 「それはわかっているが・・・・・・我が軍との同盟を、孫権が承知したかが肝要なんだ。孔明なら、うまくやってくれると信じてはいるのだが」

 そのとき、物見の兵が大声で叫んだ。

 「前方に艦隊が見えます!船の型は――」

 「おお、どこの船だ」

 劉備が艦首まで小走りに駆け寄って、兵に訊く。

 「船の型は――呉の提督、周瑜の艦隊であると思われます」

 「よし!」

 劉備は、兵の報告に会心の笑みを浮かべた。劉備は異相の男である。両耳が大きく自分の目で耳を見ることができ、両手が長く、立ったままで両手が膝に届く。

 (まずは、首がつながったわい)

 劉備は艦首で、立ったまま両膝をその長い手でさすりながら思った。

 「吉報じゃ、吉報」

 部下の張飛も、劉備にすがるようにして喜んでいる。この虎髭で浅黒い肌をもつ武将は、関羽とともに黄巾の乱で義勇軍を挙兵した頃から劉備に仕えている。「三国志」には、この三人のことを「義は君臣なれども、情は兄弟」と記している。講談「三国演義」では、三人の義兄弟が「我ら生まれた日は違えども、死すときは同じ日同じ時を願わん」と鮮やかな「桃園の誓い」としてフィクション化している。脚本家・羅漢中の面目躍如といわねばなるまい。

 さて、周瑜の援軍が到着したとはいえ、戦はまだ始まってもいない。劉備は緩んだ頬を再び引き締めていう。

 「巷で噂の周郎に、挨拶せねばならんのう。援軍ご苦労でござったと。誰か手紙を持って周瑜の船まで行ってくれるか」

 「それがしが、ゆきましょう」

 譜代の武将・趙雲が名乗り出る。趙雲は劉備・関羽・張飛より若く、周瑜と同年代であることから、劉備はその申し出を許した。しかし――。

 「軍の任務多忙ゆえ、お伺いいたしかねる。作戦の協議とあれば、そちらから当方までおいでください」

 周瑜は、にべもなく口頭でそう伝えたきりで、手紙の返信もよこさなかった。性格温厚な趙雲でさえ、この対応には怒りで頭に血が上ったほどだ。仮にも名目上劉備は豫州の牧であり、呉の孫権自らがやって来たならまだしも、孫権の配下の一武将である周瑜に呼びつけられるとは無礼千万である。

 「よいよい。お役目ご苦労であったな」

 槍を手に取り悔しがる趙雲に、劉備は労いの声をかけた。張飛も大きな目玉をぎょろつかせ、

 「しかし、あの野郎!少しばかりかわいらしいと思って、つけあがっていやがる。槍の子龍(趙雲)をコケにしおって」

 と自らも矛を手に騒ぎ立てる。まあまあ、と劉備は周囲の部下たちをなだめて説得する。

 「屈辱という屈辱を舐めつくしてきたのが、我らの強みではないか。周郎に腰を低くすることくらい屁でもないわ。私は行くぞ。それから・・・・・・」

 振り返って、

 「雲長(関羽)もついて来てくれるか」

 と笑顔でいった。一人冷静だった関羽は、

 「承知」

 と短くいって長剣を用意し、劉備の後を追って小船に乗り込んだ。


 周瑜は劉備を船上で出迎えると、心尽くしの宴を開いた。上座に劉備を案内すると、劉備は恐縮した口調で、

 「いや、ここは・・・・・・備は非力にして不才、周提督の名声は天下に名を馳せるほど。上座など、恐れ多い。

 さらに、此度は我らの危機をお救いいただいたご恩義、忘れるものではありません。それから、私の後ろに従いますは、関羽、字は雲長でございます」

 と遠慮し、義弟を紹介する。周瑜は眼を輝かせて、

 「ああ、こちらが白馬の戦いで袁昭の猛将・顔良を一刀のもとに斬った、英雄関羽どのですか。お名前はかねがね伺っております。さ、立ったままは良くない。お席について、まずは一献どうぞ」

 と劉備を差し置いて関羽を席に座らせ、杯に酒を注いだ。関羽は劉備に困惑顔を向けたが、劉備が微笑みながら頷いたので、杯を空ける。

 (英雄は、英雄を知るということだ)

 劉備は、長年天下の英雄たちと交わってきた経験から、周瑜の心境と興奮が手に取るようにわかる。そして、自分の打った手(関羽を随行させたこと)が功を奏したことに、喜びを感じた。

 「劉豫州は、関羽どのをはじめ多くの名将や智謀の士に慕われておられる。まことに羨ましい」

 宴も和み、たけなわになってくると、周瑜は酔いで警戒心を緩め、思わず本音が出た。劉備はさすが古強者である。酒に酔っても我を忘れたりはしない。

 「優れた臣下に助けられて、ここまでやってきました。私の方こそ羨ましい。周提督の才能と、そして――」

 劉備は、ごく自然に周瑜の杯に酒を注ぎながら、

 「そのお美しさが」

 と温和な口調でいった。「まことに」と関羽も、劉備に同調する。

 「ところで、諸葛亮(孔明)どのを配下にお迎えになったとき、彼の家を三度もお訪ねになったとは本当ですか」

 周瑜も、つい踏み込んだ話題を持ち出す。劉備は、不機嫌な様子もなく返答する。

 「はい、本当です。荊州の亡き劉表どのに身を寄せておりましたときに、徐庶という書生から『隆中に伏竜がいる』と聞きました。また、『伏竜を得ると天下が望める』とも。

 その荊州で『伏竜』と称されていたのが、孔明でした。彼を私のもとに招こうにも、私は寸分の領土すらもたず、その頃は馬に跨ることも少なくて、腿についた贅肉を嘆く日々を送っておりましたので・・・・・・孔明に我が軍師となってもらうには、ここを見てもらう他ござらなんだ」

 そういって、劉備は自分の胸に手を置いた。「三顧の礼」である。

 「なるほど。周の文王のようですね」

 周瑜が感心したところへ、劉備がさらに酒をついでくる。その流暢な態度に押され、周瑜はさらに杯を重ねた。あっという間に、数刻が過ぎる。

 「・・・・・・それでですね、建安十一年(二〇六)は忙しい年でござった。山越たちが拠っていた麻屯と保屯の二つの砦を落とし、首領らを生け捕って首をさらしました。捕虜は一万人を下らなかったですよ。黄祖が侵入してきたときは、反す刀でこれを追撃し――」

 気がつけば、周瑜一人が饒舌になっていた。劉備はにこにこして相槌をうちながら、周瑜の話を聞いては酒を注いでくる。すっかり酩酊した周瑜は、ふと魯粛から仕入れた劉備の逸話を頭の片隅で思い出していた。


 ――劉備の故郷である啄県にある実家には、家の東南の隅に五丈ほどもある大きな桑の樹があって、遠くから見ると小さな車の幌のように見えた。村の人々は皆この樹が尋常ではないと訝り、「この家からは、きっと貴人が出るよ」と噂していたらしいのだが、劉備は幼いとき一族の子供たちとこの樹の下で遊びながら、「おれは、いつかきっとこんな羽飾りのついた蓋車(皇帝の乗る車)に乗ってやるぞ」と壮語したらしい。

――劉備は幼少から草履や蓆を編んで母と生活していたのだが、蓆をおる材料の藁や井草を運ぶ大八車があった。彼は遊び仲間の少年たちを一人ずつ大八車に乗せ、何度も庭を三度回ったらしい。そう、「文王の車曳き」ごっこだ(周の軍師太公望が文王に自らが乗った車を曳かせ、文王が歩いた歩数が周王朝の命数だったという故事)。さらに少年たちに「いいかい。おれは文王で、君たちが太公望だ。太公望は文王のために命を懸けて働いた。だから君たちもおれのために、草履や蓆を編むんだ」と宣言した。毎日同じ事ばかり強要させられる子供たちが不平をいうと、「何をいう!おれは文王だぞ。君らは太公望になりたくないのか」と返す。その子供ながら泰然自若とした態度、自分を文王だと信じきっている姿に圧倒されて、子供たちは結局劉備のいうことに従ったという。


 (おれは、危うく劉備の『太公望』になろうとしていた・・・・・)

 周瑜は一変に酔いが覚め、背中に冷たいものを感じた。劉備の醸し出す文王的な雰囲気、具体的には口数が少なく、よく人にへり下り、喜怒を色に表さない態度に、酒も手伝って周瑜は劉備のために「何かしてやりたい」と思うようになっていたのである。

 (孔明に三顧の礼を尽くしたこともそうだ。劉備は自らを文王になぞらえている。孔明に才能があるかどうかが問題なのではない。才能のある人物を得るためには、自分がいかなる労を惜しまないという態度を、天下に喧伝していたのだ。だから荊州の在野の士は、競って劉備のもとに馳せ参じたのか)

 鳥肌が立った。周瑜はこのようなタイプの人物に出会ったことがなかったからだ。孫権にせよ、おそらく敵の曹操にせよ、名家の出身で家臣に尽くすことにおのずと「当たり前」という態度が出てくるだろう。劉備は違う。蓆売りから義勇軍で身を立て、頼るものは怪しげな「漢皇室の末裔」という出自だけで、各地を流浪し、生き残ってきた。

 (劉備の城は、すなわち『人』なのだ。劉備の笑顔を見れば、誰もがき奴のために何かしてやりたくなる・・・・・・そして劉備は身を低くして彼らの力に頼る。つまり、き奴は・・・・・・)

 ――生まれながらの、皇帝体質。

 (奴に、呑まれてたまるか!)

 「周提督、いかがなされた。お身体の具合でもよろしくないのですか」

 劉備がほろ酔い声で、黙り込んだ周瑜を心配する。

 周瑜は、一瞬の間に自我を取り戻し、毅然とした態度で劉備に言い渡す。

 「長々と喋り過ぎたようで、ご無礼つかまつりました。曹操との戦支度の件ですが、劉豫州の軍は夏口の東方面に展開していただきたい」

 「それだけで?」

 劉備が狐につままれたような表情で訊き直す。それでは、長江の河上から下って来る曹操の軍隊と直接戦えない。

 「それだけで、結構。我らの合戦を、ご見物いただければ」

 周瑜の返答は、冷ややかでにべがない。憤然と腰を浮かそうとする関羽の手を、劉備は机の下で強く引っ張って押し留める。

 「ご配慮、かたじけなく存じます。合戦勝利の暁には、全軍をもって陸に上がり、曹操軍を追撃しましょう」

 「あ、・・・・・・はい。それでは」

 肩透かしを食った周瑜はさっと席を立ち、劉備と関羽を小船に送り届けた。

 (やはり、危険な男だ)

 周瑜は確信をもった。そしてその確信が、殺意に似たものへと変化しつつあることを悟った。

 劉備は、関羽を連れて陣営に戻り、

 「周瑜に嫌われたわい。しかし孫権との同盟は成った。これでよしとする他ないよ」

 と待ち構えていた張飛、趙雲らに洩らした。

 「特段、嫌っていたようには見えませんでしたが」

 宴で歓待を受けたと思っている関羽は首を捻っていう。

 「それは違うな。調子よく酒を呑んでいた周瑜が、一瞬黙ったときがあったろう。そのとき、あの男は我が方の思惑を見抜いたんだ」

 「そういえば、そのとき突然周瑜の口調が変わりましたな。曹操との戦は『見物するだけでいい』などと不遜なもの言いを・・・・・・」

 関羽も後年「美髭公」と呼ばれた見事な髭をしごきながら、会談で思い当たる節があったことに気付いた。

 「周瑜も当代の天才の一人だ。『見物するだけでいい』といったのは、曹操軍を破った後、戦果は渡さないという牽制さ。

 戦後我らが荊州を占拠し、そこを足がかりに益州を狙う計画も見抜いていると見て間違いない」

 劉備の説明に、関羽・張飛・趙雲をはじめ、配下一同にどよめきがおこった。

 「これからは我らに好意をもっている魯粛と、孔明軍師だけが頼りですな」

 関羽の呟きに、劉備は、

 「いや、周瑜は易々とこの二人には、我らを近づけないだろう。むしろ孔明の安否が心配だ。彼がいなければ、我らは赤子同然に逆戻りだ。

 子龍(趙雲)、何度もご苦労だが、明日払暁から小船で呉の陣営に潜入し、孔明の護衛にあたってもらえないか」

 と新たな布石を打った。趙雲はそのまま走り出る。明日の旅装を整えるためである。

 「ってことはですなあ、周瑜の野郎、おれたちと曹操の関係も勘付きやがったかな?」

 楽天家の張飛も、このときばかりは深刻そうに誰ともなく呟いた。

 「おそらくは――いや、薄々ながらも気付いてはいよう」

 劉備はそういって、とうに去った周瑜の艦隊がいた長江を思い浮かべていた。

 その頃、呉の本営では対曹操の戦に向けた陣触れが決定されていた。

 総帥兼左督に周瑜公瑾。右督に程普徳謀。賛軍校尉(参謀長)に魯粛子敬。周瑜は夏口で後続部隊を待ち、程普の艦隊がこれに合流した。その数、およそ三万人である。

程普は孫堅の代からの譜代武将で、最年長であり「程公」と呼ばれ敬われている。かつて程普は自分が年長であることから、若い周瑜を侮辱した。周瑜はあえて身を低くして下手に出、決して程普の言動に逆らうことはなかった。後に二人は親密となり、程普は周瑜の才能に敬服し、その人柄を讃えてこういったという。

 「公瑾(周瑜)どのと交わっていると、あたかも芳醇な美酒を飲んでいるかのようだ。自分が酔ってしまっていることに気付かない」

 したがって、孫権が左右の都督に周瑜と程普を任命したときも、実権は周瑜が掌握している状態を、程普は甘んじて受けたのだった。

 夏口に全軍が集合し、周瑜は全軍に向けての凄絶な演説を行った。孫権が長剣でテーブルを真っ二つに切断したときの興奮を諸将は忘れていない。しかし兵士たちは別だ。公称百万の曹操軍と戦う運命にある呉の兵士たちの士気を鼓舞し、彼らの意識を高揚させなければならない。

 周瑜が壇上に立つと、ざわめいていた兵たちの声が消え、あたりは水を打ったような静寂に包まれた。

「東呉の勇敢なる兵士諸君」

 周瑜の高い声が、一面に響き渡る。白銀の鎧が眩しい。

 「青・徐州の敵たちが、我が領土を侵さんとしている」

 曹操率いる北軍は、主に青州・徐州の兵が中心で、この二州は過去何度も南方の呉に侵入しては乱暴狼藉を働いてきた。だから呉の兵士たちの青・徐州への敵愾心たるや、曽祖父の代からのものであり、周瑜は彼らの郷土愛に訴えかけたのである。

 「曹操の兵たちは、遠路におよぶ長征の疲れをこういって癒しているそうだ。

 『呉には美女が多いらしい。早く戦に勝って、女たちをものにしよう』

 と。諸君これはどうか、我らの母、妻、妹、いや娘たちすら、青・徐の男たちに操を奪われようとしているのだぞ。今こそ奮い立つときである!」

 周瑜は確かに、静寂の中にも将兵たちのいきり立つ興奮を感じることができた。古来戦の前には、大義名分や、巫女の宣託などを示して兵士たちを鼓舞してきたことが一般的であった。今回周瑜は、将兵たちの身近な家族を守らねばならないという普遍的な情を刺激した。この生物的防衛本能は、鋭く呉の兵たちのアドレナリン分泌を促進した。

 「そして賊軍の大将曹操は、我が妻を奪おうとしている」

 周瑜がこういったとき、全軍は息を呑んだ。

 「曹操は、この戦に勝ち天下を平定すると、東呉の二橋を銅雀台において老後を楽しむのじゃ、といったと聞く。

 危機に瀕しているのは諸君らたちだけではない。この私の妻も、賊の毒牙にかかろうとしているのだ!」

 周瑜が振り上げた右手には、剣が煌いている。うおーっ、と波のような雄叫びが全軍へたちまち波及していった。

 「曹操を倒せ!故郷を守れ!青・徐の兵を殺せ!女を守れ!」

 周瑜の呼びかけに対して、兵士たちも巨大な木霊のように無我夢中で叫び始めた。

 ――倒せ、守れ、殺せ、守れ!

 長江の岸辺は、呉の兵士たちの団結と、昂ぶる士気の象徴である大合唱に包まれていた。

 周瑜は眼を潤ませ、満足そうに兵たちの声を聞いていた。そのとき心の奥深くに不安が黒い渦のように澱むのを感じた。

 ――諸葛孔明の処方箋。

 これに自分は助けられたのだという事実と、兵士たちの興奮する姿を思わず重ねてしまっていたからだ。

 (油断はならぬ。劉備と孔明には、ゆめゆめ油断はならぬぞ)

 周瑜は動揺を隠すように、剣を壇上に突き立て、その柄を右手で強く握り締めていた。

 「ほう、南軍の士気は旺盛じゃのう」

 長江上流の江陵に本営を置く曹操の耳にも、孫権軍の大合唱の噂が聞こえてきていた。南船北馬というが、北軍の曹操も例外ではなく、未だかつて大規模な水戦の経験はない。


 曹操孟徳。現時点で中国の事実上の覇者であり、中原を平定し、遼西を討って荊州を降した。官位は漢の丞相(宰相)、人臣としては最高位にある。この年、五十三歳。沛国の出身で、父・曹嵩は宦官だった曹騰の養子に迎えられ、大尉の位を一億銭で買ったと伝えられる。

 曹操の少年時代は、この父と祖父の存在に多大なるコンプレックスを与えられたようである。先天性と思われる虚言癖、周囲もあきらめるほどの不良少年だった。しかし、二十歳過ぎから政治に目覚め、首都警備隊長に就任、その厳格な取り締まりで都洛陽を震撼させた。

 彼は一八四年に起こった黄巾の乱に際し、近衛騎兵隊長として功績を得た。この頃劉備や孫権の父・孫堅らも挙兵している。兵法にも精通し、現在に伝わる兵法書「孫子」の実質的な編集者にして、その注を書いている。

 曹操が台頭したきっかけは、一時都を制圧していた董卓が養子の呂布に暗殺された事件以後である。この混乱期に曹操は青州の黄巾軍を討伐し、自軍に編入、兵糧を得るために屯田策を採って兵力を増強することに成功した。さらには、都で幽閉状態だった漢の献帝を救出して、曹操の本拠地の許に迎えたことで大義名分を得た。

 二〇〇年には、官渡の戦いにおいて、北方の大勢力だった袁昭に圧勝。二〇八年には劉表の遺児を降伏させ、今孫権・劉備連合軍と対峙しているが、すでに天下の三分の二近くを領し、覇権はゆるぎないものとなっている。

 ここに一つの逸話がある。

 曹操が青年の頃、都で評判の人相学の権威がいた。名を許子将という。月に一度「月旦」と呼ばれる観相会があり、そこに曹操は訪ねていって訊いた。

 「私は、どういう人間でしょうか。教えていただきたい」

 許子将は答えない。曹操はしつこく同じことを質問し、最後には脅迫めいた発言さえした。後漢末は人物評価が盛んな時代で、名士に名を知られ認められることは、世に出るために重要なことであったからだ。ついに許子将が答えて曰く――。

 「君は治世にあっては能臣、乱世にあっては姦雄だ」

 曹操は呵呵大笑していった。

 「乱世の姦雄か。それもよし」

さて、乱世の姦雄と呼ばれ、講談「三国演義」では大悪党扱いを受けている曹操だったが、彼自身が「建安文学」という後漢末に起こった潮流の中で、最も優れた詩人の一人だった。彼は戦闘の合間に槊(槍)を横たえて、詩経などを引用し、数々の名詩を残す「横槊の詩人」という異名をとっている。曹操の子・曹丕は「文章は経国の大業、不朽の盛事」の文句で有名な「典論」を著した文人であるし、曹丕の弟・曹植は父と兄を超える文学の天才だった。曹操父子は建安文学のスポンサーになり、文学史上「三曹」と評される文学一家でもあったのだ。政治外交(外交には戦闘も含む)に優れ、文化を愛したという「文武両道」の点では、孫権や劉備も曹操の足元には及ばない。


 その曹操も、今回の孫権・劉備との合戦において不安がないわけではない。

 陣中に疫病が蔓延していた。

 おそらく風土病の類のものと思われるが、遠征に疲れきって病気への免疫力が低下している兵士たちが次々に死んでゆく。それは諸葛孔明が孫権に説いた、「強弩の末、魯縞も穿つ能わず」すなわち遠くから射た矢は薄い布さえ射通すことはできない、という言葉を現実にしたような光景だった。

 被害は戦前から甚大だった。が、かといって内情を敵に知られるわけにもいかない。もう両軍は臨戦態勢にあり、引き返すことはできないからだ。

 (兵の士気が心配だ――戦の前に病で敗北してはいかん)

 周瑜が、まさか曹操までも自分と同じ不安を抱え、夜も眠れていない事実を知ったらどう思うだろう。むろん曹操も、周瑜が自分と同じ悩みで神経症に罹っていることなど知る由もない。なにしろ、「南軍(孫権・劉備軍)の士気旺盛」の報はすでに曹操のもとに届いているのだから、曹操の焦燥は想像を絶するものであったと察せられる。

 ――軍師には頼らない。

 これが、曹操流の事態打開方法である。むろん曹操の陣営には、程昱や荀彧といった天下の逸材と評判の高い軍師たちを幕下に加えていたが、彼らはあくまで助言者であり、作戦の計画と決定は曹操自身が行っている。先述したが曹操は孫子の編纂・注釈をするほどの兵法学者であり、戦略・戦術は第三者の意見を聞くことは本来必要ない。彼が必要なのは、自分の頭脳と違う視点や見解であり、極言すれば曹操が作戦を策定する際に軍師たちの幅広い知識を参考にするだけなのだ。

 事実、今回曹操が兵士たちの士気を高めたのは、自作の詩であった。不眠不休で、夜床に伏したときに浮かんだ詩なのだが、曹操はあえて月夜の船上視察で、自らの槊を横たえていった。

 「余は、この槊で黄巾賊を討って呂布を生け捕りにし、袁術・袁昭兄弟を滅ぼした。塞北に深く攻め入り遼東まで至り、天下縦横して大丈夫(一人前の男)に恥じるところはない、と自負する。

 今、月夜に船を浮かべ長江の流れに身をまかせ、慷慨甚だしきを覚えた。よって詩を詠む。皆も唱和してくれたまえ」

 さすがは「横槊の詩人」の面目躍如である。詩を詠む時と場所が絶妙で、臣下の心理に深く染み入る名作「短歌行」がここに生まれた。


 酒に対えば当に歌うべし

 人生 幾何ぞ

 譬えば朝露の如し

 去りゆく日は苦くも多き


 青々たり子が衿

 悠々たり我が心

 但だ君の為の故に

 沈吟して今に至りぬ


 山は高きを厭わず

 水は深きを厭わず

 周公は哺みしを吐きて

 天下 心を帰せり


 全文は八段、「文選」にも収録されて後世の人々に愛唱された詩である。

 さあ、酒を飲んで歌おうではないか。人生は、そう長くない。例えるなら朝露のようなものだ。過ぎ去ってゆく日のなんと多いことだろう。

 歌を聞いた兵士は、自らの人生の儚さに胸を掻き乱されるだろう。しかし曹操は、彼らを励ましていう。

 「青い衿」の下りは、中国最古の詩集「詩経」からの引用で恋歌を連想させる。若者は青い衿を着る風習が当時あった。若き兵士たちは、故郷に残してきた家族や恋人たちに思いを馳せるであろう。しかし、ただ引き返すことはできない。

 ここで曹操は、兵士たちに呼びかける。

 高い山も深い川も厭わずに、私は天下の逸材を求めている。古の聖人として名高い周公旦は、優れた人材が面会に訪れたときには、食事中でも食べていたものを吐き出して、急いで面会に応じたという。だから、天下は皆彼に心服したのだ。私は周公旦を手本にし、天下の人材を求めているぞ。

 兵士諸君、君たちの力を私に示してくれ!

 孫権と劉備を倒して、愛しい故郷に帰ろう!

 いざ戦で手柄を立て、凱旋しようぞ!

 翌日、各士官から詠み上げられた「短歌行」を聞いた兵士たちは、心の昂りを抑えることができなかった。あるものは連兵場で、あるものは病床に臥しながら、何度も詠み上げるうちに、涙が溢れるのを留めることができない。

 やがて、各兵営から「短歌行」の合唱が聞こえてきた。曹操は、自らの文学の才能で、兵士たちの士気を高めることに成功したのである。

 しかし――「短歌行」の隠れた意味を知るものは軍の中に幾人いたであろうか。そう、「短歌行」は兵士たちを鼓舞する詩であるだけでなく、曹操が口に出せない心境をも織り込んだ「隠歌」だったのだ。

 曹操が、この歌に託したのは、漢の献帝との関係である。

 五十三年の人生において、去りゆく日々には多くの過ちがあった。他人を殺したり、部下を死なせたり、成るものが成らなかったり、裏切り裏切られる日々。何と多くの過ちを、この政治の世界で浪費したことか。

 曹操は「青々たり子の衿」、すなわち現在二十歳の献帝を擁立すればこそ、このような過酷な日々を潜り抜けてきたといえる。董卓の傀儡として即位したのは九歳のときだったが、献帝はまだまだ政治の表裏を熟知するには若すぎる。そんな青年皇帝を眺める曹操の心は、「悠々(思い悩む)」としている。

 曹操は詩を割愛した部分で「鹿の声」を何度も聞いた、と詠んでいるが、これこそ動物の鹿と「中原に鹿を追う」の鹿をかけており、「中原の鹿」とは皇帝を指すことから、曹操が易姓革命を起こし、帝位につく衝動を歌った句である。

 だが曹操の周りには、各地に点在する諸豪族や配下の武将や謀士たちがいて、その行動を許す暇を与えなかった。曹操自身にも若き日々に漢の朝廷から取り立ててもらった恩義もある。

 その献帝の権威がにわかに失墜してきている。四百年続いた漢の皇帝であるとはいえ三度も都を遷され、曹操の手元で保護されている献帝は、やはりただの傀儡ではないか――。天下の諸豪族は曹操に攻撃を始めた。

 皇室の恩義と易姓革命の狭間で葛藤していた曹操は、賢明にも翻然と悟る。

 献帝を「高き山」に戻して、お育て申し上げる。

 そうだ、聖人・周公旦は幼い成王を扶育したことで、天下の心を帰せしめ青史に名を残した。おれが周公旦となり、献帝を補佐して歴史に名を留めよう!

 この態度を人々は、後世に悪逆非道の名を残さないための妥協と呼ぶかもしれない。しかし権力を伴った妥協は、能動的な美徳となるはずだ。曹操は自信をもって歌を詠んだ。

 これから天下を平定する最後の戦いが始まる。そしてこの戦に勝てば、天下の覇権は完全に曹操のものとなる。天下統一を果たせば、誰も曹操に逆らうものはいない。帝位につくことも可能だ。だが、おれは帝位につかない。おれは「成王」にならず「周公旦」となるのだ。

 見たか、この大志を!天下万民は見たか――と曹操は、心の中で胸を張ったであろう。そして、真の英雄のみが味わうことのできる苦悩を、喜びとともにかみ締めていたのかもしれない。

(ところで、玄徳との縁も、この一戦で切れるかも知れんのう)

 曹操の脳裏には、天下統一という大事業への陶酔感と共に、長年密かな連携を続けてきた劉備玄徳の大きな耳を思い浮かべていた。

 実のところ曹操と劉備は、地下で秘密軍事同盟を結んでいたのである。

 劉備が呂布に敗れて曹操を頼ったとき、軍師の程昱などは、

 「劉備を観察しますに、人並み外れた才能をもっているうえ人心を掌握する術に長けております。いつまでも人の下に立っている人物とは、到底思えません。早く殺すべきです」

 と進言している。曹操は惚けた顔で、その進言を退けた。

 「今は英雄を収監する時期だ。劉備一人を殺して天下の人心を失うのは得策ではない」

 そういいながらも、劉備の恐ろしさを人一倍承知しているのは曹操自身だった。程昱の進言が正しいことも承知している。承知した上で、劉備を利用して天下に点在する大小の諸勢力を一つずつ潰していく策を、曹操は密かに練っていたのである。

 曹操は、自分のもとに逃げ込んできた劉備を手厚く保護し、呂布を攻めてこれを殺した後、献帝の待つ許へ随行させた。さらに劉備を献帝に拝謁させ、上表して左将軍の位を与える。曹操が外出するときは同じ輿に乗せ、席に座るときには同じ席に座らせた。

 (おれは、曹操に警戒されている)

 劉備が、おぼろげながら気付きはじめた折、曹操から食事の誘いがかかった。

 場がくつろぎ、杯が何度か巡ったところで、おもむろに曹操が劉備にこう問うた。外は雨空で、ときおり雨が激しく屋根を叩く音がする。

 「今天下が乱れ、中原は落ち着きを取り戻したところではあるが、まだ予断を許さない状況には違いない。

 そこで卿に問う。今天下に英雄を二人あげるとすれば、誰と誰か」

 劉備は悩んだ末、

 「一人は間違いなく天子を擁しておられる曹公(曹操)でありましょう。もう一人は・・・・・・袁術と孫策は大勢力とはいえないでしょうから、やはり冀州の袁紹でございましょう。三代にわたって漢の三公を務めた家柄といい、広大な領土、兵と糧食の多さ。曹公と覇権を争うのは、袁紹の他おりますまい」

 と答えた。すると曹操は笑いながら杯を飲み干していった。

 「違う。本初(袁紹)などの輩は、物の数にも入らぬ。教えよう。本当の英雄とはな――」

 そのとき、外で大きな雷鳴が轟いた。

 「君と余だ」

 劉備は驚愕し、思わず手にしていた箸を落とした。

 「聖人が『突然の雷、激しい風には必ず居住まいを正す』と申しますが、もっともなことですな。それにしても、あの雷鳴の激しさといったら」

 劉備は、何食わぬ顔で箸を取り直す。曹操は、その態度にますます満足して話を続ける。

 「玄徳(劉備)どの。余はまだ酔ってはおらぬぞ」

 「・・・・・・」

 「天下を取るには、名門の肩書きや腕力は重要ではない。要は、ここさ」

 と曹操は、自分の頭を指差す。

 「呂布がわしに捕らえられたとき、奴はこうぬかしおった。

 『これでようやく天下は定まるのう。私(呂布)が騎兵を率い、あなた(曹操)が歩兵を率いる。これぞ無敵ではないか』

 とな。玄徳どのは、『この男、最初は丁原に仕え、次には董卓に仕えたのです。よくご配慮ください(呂布が二人の主を殺害したことを指す)』と申された。わしは、その言葉が気に入った。乱世を治めるのは、腕力ではない。万人に慕われる徳だ。玄徳どのは、それをもっておられる。わしにないものをな。

 だからこそ、打ち明ける。玄徳どのには、常にわしの敵側に回ってもらいたい。互いに地下で情報交換を行い、諸国の英雄たちを淘汰してゆく――。

 これが、わしの考える天下万民の平和への道だ。どうだ。協力してくれまいまいか」

 劉備も、乱世の修羅場を幾度も乗り越えてきた強者である。おもむろに懐から一通の書状を取り出し、躊躇いなく曹操に手渡した。今度は、曹操が愕然とした番である。

 「これは・・・・・・わしの暗殺を企てる連判状ではないか」

 「左様です。帝の外戚で車騎将軍の董承どのから受け取ったものです。暗殺計画には私の他に一人の武人もおりません。帝を担いでの粛清を図ったようですが、成功する見込みがないので、曹公にお渡しします」

 曹操は、顔面蒼白で連判状を黙読している。劉備は曹操を見守りながら、

 「これで、私めは生き残れるということですね」

 と低い声でいった。

 「――う、うむ」

 この曹操の返事が、劉備との密約のサインとなった。

 当時曹操のライバルは、冀州の大勢力・袁紹である。劉備をいきなり袁紹のもとへ走らせれば、袁紹から疑いの目で見られることは免れない。

 策略家の曹操は、まず劉備を造反させることにした。

 まず劉備を徐州に向けて出兵させ、袁術に挑戦させることにした。このとき参謀の程昱と郭嘉は顔色を変えて、

 「劉備を手放してはなりません。あの男を自由にすれば虎を野に放つようなものです」

 と諫言した。曹操はわざと慌てて劉備の後を追ったが、これは筋書き通りの行動である。果たして劉備は徐州刺史の車冑を斬り、謀反を起こした。

 同時期に朝廷内で、車騎将軍・董承のクーデターが発覚し、芋蔓式に容疑者たちが逮捕、斬首された。発覚の元となった連判状に名を連ねるもので、生き残ったのは、劉備一人である。

 曹操は自ら軍を発し、劉備を散々に打ち破った。劉備は身一つで袁紹のもとへ身を寄せ、劉備の家族と関羽は曹操に降った。彼らは劉備が曹操に引き渡した人質といっていい。劉備は、したたかさでは曹操を上回っていた。その証拠に、自分が袁紹のもとへ走る際、

 「いいか、雲長(関羽)。曹操との密約については承知していることと思うが、曹操と袁紹どちらが勝つか、今はわからない。

 だから、おれと雲長が両陣営に分かれて戦に参戦する。袁紹陣営の情報は、雲長を通じて曹操へ送ることにする。勝った方に、負けた方が命乞いできるからな」

 と言い残している。関羽も兵書「春秋」を諳んじる程の軍略家だから、劉備の提案には即座に賛成した。建安五年(二〇〇)春正月のことであった。

曹操と袁紹が戦った天下分け目の「官渡の戦い」は、曹操軍の大勝で幕を閉じた。

 劉備から送られた袁紹陣営の軍事機密は詳細を極め、前哨戦だった「白馬の戦い」では曹操に降っていた関羽が、袁紹配下の猛将・顔良を一刀のもとに斬り捨てるという大功をあげた。

 関羽は劉備から顔良の布陣について密書を受けており、戦場で顔良の旗印と車蓋を望見すると、ただの一騎で馬に鞭打って大軍の真っ只中に馳せつけ、顔良を刺し殺して首を取って帰還したのである。

 前哨戦を制した曹操は、劉備から袁紹陣営の反乱分子を把握し、彼らを調略しつつ袁紹軍の兵糧を焼き、黄河を背に布陣していた袁紹本人率いる主力部隊を破った。袁紹軍は死者を八万も出し、惨敗を喫した。

 冀州に退却した袁紹は、大敗のショックから病を発し、二年後の建安七年(二〇二)に憤死する。曹操は残された袁紹軍閥の内紛に乗じ、建安九年(二〇四)年には袁紹のもつ北方の領土すべてを平定した。劉備が冀州を逐電し、荊州の劉表へ走ったのもこの頃である。

 袁紹を倒した曹操は、劉備を次なる敵・劉表のもとへ送り込んだのだった。

 

ここに一つの美談がある。

 曹操は一時身を寄せていた関羽の人柄をいたく気に入り、関羽が顔良を斬った手柄として上表し漢寿亭候に封じた。

 しかし、関羽は曹操に降伏したときの条件として、

 「それがしが戦場で手柄を立てた暁には、その手柄をもって曹公へのご恩返しとさせていただき、主である劉備のもとへ帰ることをお許しください」

 と約束していた。曹操は関羽の親友だった武将の張遼に、

 「雲長(関羽)は、すでに手柄を立て、わしへの恩を返してしまった。そこで雲長と親しい卿に頼みたい。彼の心は、もう劉備のもとにある。だがそこを押して我が軍に留まってもらえまいか、とな」

 と含みを持たせた。それを受けた張遼が関羽に尋ねてみると、関羽はみごとな髭をしごきながら長嘆息していった。

 「曹公が、それがしを厚遇して下さるのはよく存じておる。しかし、それがしは劉将軍(劉備)に厚い恩義を昔から受けており、共に死のうと誓った仲だ。あの方を裏切ることはできない、と曹公に伝えてくれ」

 曹操はその言葉を聞くと、急ぎ関羽の邸に使いを出した。関羽の邸は空だった。曹操から賜った数々の恩賞には手もつけず、封をして手紙を添え邸の一室に残していた。関羽は、劉備のもとへ奔ったのである。

 参謀の程昱が、

 「関羽を追跡しましょう。彼は劉備の家族を連れており、一日で進む距離はたかが知れています。それより、我が軍の事情が劉備に洩れてしまいます」

 と進言した。曹操は関羽の手紙を読み、涙を滲ませてその進言を退けた。

 「雲長(関羽)は雲長なりに、主君のためを思っておるのだ。追跡する必要はない・・・・・・いや、追ってはならぬ」

 「三国志」の注釈者の裴松之は、

「曹操は関羽が留まらないことを知りつつ、内心ではその志を嘉し、立ち去っても追手を差し向けず、その道義を成就させた。王者・覇者の度量がなければ、誰がこれほどの態度をとれようか」

 と曹操と関羽の美しい交流を絶賛している。周瑜までをも虜にした関羽の忠義は、やはり曹操をしてでも折らしめることはできなかったのだった。

 

 荊州から劉表の機密情報が送られてきたのは、劉表が生存中のときまでであり、劉表死後に荊州政権が曹操に降ったとき以降から、劉備からの書状が届かなくなった。

 (玄徳め、独立するつもりか?)

 曹操がいぶかしんでいると、劉表の客になっていた劉備が、一人曹操との戦いを掲げて武装蜂起し、荊州政権に無視されると劉備を慕った数万の民衆を連れて、南方へ逃走中であるとの情報が入った。

 もちろん、曹操は劉備に追っ手を差し向けた。多数の民衆を抱えた劉備が、易々と曹操に追いつかれたのは長阪という場所だった。

 劉備は大敗した――はずであったが、実際の被害は僅少である。まず、彼を慕ってついて来た荊州の民衆が煙幕代わりになった。追っ手の曹操軍は、民衆を殺す訳にはいかない。その盲点をついて劉備一行はきわどく戦場をすり抜けただけでなく、関羽率いる一万の水軍を温存した。加えて荊州政権から離反した劉表の長男・劉琦が、数万の兵を江夏に駐屯して劉備を頼っている。

 (玄徳は、軍師を得たのではないか)

 曹操は、戦勝の報を受け取ってからもその疑念が消えなかった。

 なぜなら、劉備は曹操に負けつつも数万の兵力を蓄え、荊州の民衆を引き連れて逃げたことで、その人気を天下に喧伝できたからである。

 劉備の曹操との秘密同盟を看破していた人物は、二人いた。

 一人は、劉備が三顧の礼をもって迎えた青年軍師・諸葛亮孔明。彼こそが「天下三分の計」という大構想をぶち上げ、その序章として荊州撤退戦を策した本人である。

 「曹操は、現実主義者です。荊州を降した後、呉の孫権を併呑すれば、主公(劉備)の利用価値はありません。

 いいですか、曹操に棄てられる前に、こちらが曹操を棄てるのです。ここが重要です。孫権を曹操に降らせてはなりません。孫権が降れば、曹操の覇権はここに成り、主公の出番はございませんぞ。こちらから孫権に働きかけ、同盟し、曹操を破りましょう。

 戦になれば、長江を挟んだ水戦になると思われます。曹操の北軍には、水戦の経験はありません。まず、南軍(孫権軍)が勝利を得ること間違いありますまい。

 いち早く、勝ち馬に乗るのです。戦勝後は戦後のどさくさに紛れて、荊州の一部を奪い、政治基盤を築きます。

 荊州を得ると、遠からず最後の空白地域――益州(蜀)を狙う。そうすれば益州を得た我々と曹操、そして孫権の三国鼎立がここに完成します。

 ここがご決断のときです。曹操との密約をこちらから破棄し、独立の気概をお持ちになられませ」

 諸葛孔明の先見の明に、劉備は血が滾る思いであった。四十七歳の今日まで流浪の身で、曹操が操る政治上の駒に過ぎなかった自分が、天下争いの桧舞台に躍り出る千載一遇の好機である、とこの青年軍師は力説するのだ。平静を装え、という方が無理であろう。

 「孔明先生、よくぞいってくれた!今このときをもって、私は曹操との縁を切る。そして天下を望むのだ。どうか、無力な私を支えていただきたい」

 普段冷静な劉備が初めて見せた興奮しきった態度に、孔明も感動する。

 「よくぞ、ご決断あそばしました。主公のお心一つで、この孔明火の中を潜ることも厭いません」

 そこへ孔明が呼び寄せたかのように、孫権陣営から魯粛がやってきた。表向き故劉表の弔問ということになっているが、内実は劉備との同盟を模索しに来たことを、孔明は見抜いている。

 果たして、魯粛は劉備にべた惚れになった。

 彼自身の中に劉備のもつ、多分に任侠的な人格が存在していることも、魯粛をして劉備を惚れ込ませしめた理由となったであろう。漢の高祖(劉邦)とは、このような人物であったか、とさえ錯覚を覚えたほどだ。

 孔明に対しては、

 「私が、諸葛謹どのの知り合いです」

 と挨拶した。「私は」ではなく、「私が」といったのは、魯粛が呉の重臣である孔明の兄・諸葛謹をパイプ役に、ぜひ同盟を成功させたいという意思表示だった。それだけで、聡明な孔明には魯粛が真剣に孫権と劉備の同盟を望んでいることが理解できた。

 そこで孔明が返答使として呉に赴くことが決定し、彼の弁舌をもって孫権が対曹操との会戦を決断するくだりは既に述べた。

 さて、曹操の感知しないところで劉備の新軍師・諸葛孔明が、巧妙に劉備の造反を成功させたわけだが、もう一人曹操と劉備の地下秘密同盟を察知している人間がいたことを、誰も知らなかった。

 その人間とは、誰あろう「呉の周郎」こと周瑜公瑾その人であった。



 夏口にある周瑜が練兵中に卒倒したとの噂を聞いた魯粛は、大慌てで鎧を身に纏い、呉軍の大本営にある周瑜の宿舎に駆けつけた。

 意外にも周瑜の容態は安定しており、医師の見立てでは、日頃の食欲不振と眩暈・睡眠不足からくる「心気不定」であるという。魯粛は、この非常時に周瑜が肉体的・精神的に巨大な負荷を強いられたため、彼の持病である不安神経症が再発したことを悟った。

 「子敬(魯粛)、心配をかけたな。もう大丈夫だ・・・・・・早く練兵場に戻らねば」

 「もう少しじっとしていた方がいいよ、公瑾(周瑜)。兵の方は、程公(程普)が引き続き訓練してくださっている。それに甘えて、身体を労わらねば。程公も心配しておられたぞ」

 「・・・・・・すまぬ」

 抑揚のない声で答えた周瑜の顔は蒼白であり、幾度かの会話も噛み合っておらず、魯粛は周瑜が強い鬱状態に陥っていることを察した。

 「なあ、公瑾。我らの仲ではないか。気がかりなことがあれば隠さない、という約束だろう。話せよ。楽になるぞ」

 周瑜は、落ち着かない視点をやっと魯粛の瞳に定めると、「わかった」といった。魯粛は、周瑜が病み衰えた姿でさえ、見つめられれば妖しいまでの美しさを放出していることを感じた。

 「曹操がな、挑戦してきおった。少数だったので軽く撃退したが、予想外の士気の高さに驚いた。

 また、長江の北岸に葦のようにびっしりと密集した雲霞のごとき敵の大船団――それを見たとき、おれは、おれは・・・・・・」

 絶句した周瑜は頭を抱え、床に臥してしまった。魯粛は、穏やかな表情で周瑜の背中をさすってやりながら、

 「言ってしまえ、公瑾。おれだってそう思っているよ。毎晩毎晩、曹賊の兵士たちが殺到する夢を見ている。君は一人じゃないんだ。主公(孫権)をはじめ諸将から民衆まで、皆が君についているんだ」

 床に臥したまま沈黙を続ける周瑜に背を向けて、魯粛は鎧を脱ぎ始めた。魯粛が兜を置こうとしたその時、背後から周瑜の小さな声が聞こえた。

 「子敬、おれは・・・・・・おれは、怖い」

 周瑜は、これまで敵を見て「怖い」と感じたことが一度もなかった。故に水軍で圧倒できると信じていた敵が、思いがけない士気の高さを示し、驚愕に値する大兵力を自ら目の当たりにしたので、見えない周瑜の心が驚天動地の錯乱を引き起こし、猛烈な不安に襲われたのだった。

 「公瑾、それは普通だよ。君は、軍神なんかじゃない。二十万もの大軍と実際に対峙してみろ。怖くない人間がいると思うか。程公も膝が震えて仕方がない、と仰っていたよ。あの歴戦の古強者でさえ・・・・・・なあ、あのしかめ面した老人でさえ怖いと思っているのさ」

 笑顔で親友を慰めた魯粛だったが、無言で俯いたままの周瑜を見て暗澹とした気分になった。しばし間をおいて、「では・・・・・・」と魯粛は場の空気を変えようと提案する。

 「つまるところ、我が軍で曹操を怖くない将兵はいないわけだ。それは認めようではないか。どうだ、また諸葛孔明を呼ばないか?彼なら曹操と戦い慣れているし、いい助言をくれるかもしれないよ」

 「いや、あの男は・・・・・・」

 「公瑾、以前孔明の『処方箋』で兵の士気を高めることができたではないか。君にとっては好かぬ男かも知れんが、気晴らしにはなるだろうて」

 周瑜は、魯粛が孔明に肩入れしていることが気に入らなかった。単純な嫉妬ではない。周瑜は、孔明と劉備が日々成長していくことを畏れていたのだ。

 その思考すら病床では朦朧としており、ぼんやりと天井を見上げていると、遠くから複数の足音と談笑がかすかに聞こえてき、虚ろな周瑜の視界を黒く輪郭のはっきりしない影が覆いかぶさった。

 「おうい、公瑾。諸葛軍師が来てくださったよ」

 どうやら、影の正体は魯粛らしい。

 「そうか、悪いが身体を起こしてくれ」

 徐々に視界が明るくなる。上半身を病床に起こすと、魯粛の後ろに微笑を浮かべた諸葛孔明が立っている。その仙人のようないでたちは何故か今日の周瑜に不快感を与えなかった。身体を壊して気を弱くなっている証拠だろうか。

 「周提督、思ったよりお顔の色がよいようで何よりです。どうですか、この丸薬をお飲みになってごらんなさい」

 孔明が懐から出した包み紙を魯粛に手渡す。魯粛が周瑜を見ると、

 「心配はいらぬ。諸葛軍師、かたじけない・・・・・・頂こう」

 周瑜は水とともに孔明の差し出した丸薬を呷った。しばしの間床に臥していた周瑜だったが、気を遣って小声で会話していた魯粛と孔明に向けていった。

 「気分が、良くなってきた。どうしたことだ――あれだけ沈んでいた心が、今は羽のように軽い。諸葛軍師、ありがとう。どのような丸薬であったのか?何度も世話になります」

 孔明は、笑って周瑜の手を取った。

 「いえいえ、お礼にはおよびません。その丸薬は私の庵がありました隆中で誰もが作っている、ただの食欲を増進する薬です」

 周瑜は、驚いて孔明の澄んだ瞳を見つめる。孔明は、美しい周瑜にまじまじと自分の顔を見られて恥じらいつつも、にこやかにいう。

 「周提督のご気分が楽になられたのは、私孔明いや第三者を信じる心が生まれたからです。

 お一人でお心を痛めておられても、一向にお身体は快方には向かいません。失礼ながら、提督お一人で曹操を屠ってみせるという殊勝な気概が、ご自身の心身を害されたのでしょう」

 「そうだったのか。何事も抱え込んでいてはいけないな、公瑾」

 「・・・・・・ああ」

 「私、孔明も提督の同盟者です。後ろからあなたに弓引くような真似はいたしません。あとは食欲も出てくると思います。今はしばしのご休養を。ああ、それから」

 孔明は、周瑜の宿舎を後にする前に、思い出したようにいった。

 「曹操は、漢の賊に過ぎません。何度も劉豫州と私は彼と戦いましたが、兵の数に負けて撤退を余儀なくされただけ。

 大軍に策なし、とは兵法の初歩です。今回の大戦は、地形から戦法まで当方の作法で行える・・・・・・これほど敵に優位に立てる戦場がありましょうか。

 さらに私が独自に調査した結果では、既に曹操陣営では兵が疫病のため死者が数千にのぼるとか。先の挑発は、底にまで落ちた士気を力ずくで持ち上げるための捨石に過ぎません。

 よって、曹操恐るるに足らず。周提督のご健康さえ元に戻れば、間違いなく我が軍が勝ちます」

 「一つお伺いしたい。諸葛軍師」

 周瑜はほつれた髪を額からかき上げて、ゆっくりと病床から立ち上がる。魯粛が周瑜の背中を支え、孔明が振り返っていった。

 「どうぞ。何なりと」

 「劉豫州と曹操は旧知の仲――失礼とは存ずるが、互いに矛を交えるとなれば、矛先が鈍る・・・・・・ということは杞憂に過ぎませんか?」

 その言葉が発せられたとき、魯粛は全身を戦慄かせて孔明に意思ある視線を送った。周瑜の一言は、氷のように冷たい矢となって魯粛と孔明を射抜いたのだ。周瑜は、なおも孔明を凝視している。

 孔明の瞳孔が一瞬開いたのを周瑜は見抜いたが、孔明から発せられた言葉は、周瑜の目論見さえも想定していたかのようなものだった。

 「笑止。曹操は漢王朝を傘に着る姦賊――中山靖王の末裔である我が主公劉豫州にとっては天敵でございます。

 かつて黄巾討伐や呂布との戦いでは同志でありましたが、今は完全に袂を別ちました」

 「こ、公瑾!諸葛軍師に失礼ではないか」

 魯粛が、慌てて周瑜の背中を揺らす。

 「失礼を承知でお尋ねしているのだ」

 周瑜は、いよいよ孔明を見据えて放さない。孔明は少し笑った後、居住まいを正していった。

 「よろしいでしょう。周都督、この返答をもってあなたの疑念を解きましょう。劉備は――もう、後へは戻りません。以上です」

 初めて周瑜の表情が氷解した。

 「結構です。後日戦法の軍議を開きますが、諸葛軍師におかれましてもご出席いただけますな?」

 「ありがたき幸せ」

 周瑜が改めて孔明に手を差し出す。孔明は色白の頬をやや紅潮させて、その手を握った。

 (やはり、この二人は天才だ――)

 愚者が一年語り合っても、互いを理解できないことがある。しかし賢者同士は一つの言葉のやりとりで全てを理解することができる。その瞬間を、魯粛は今目撃したのである。

 「孔明、さっきは肝を冷やしたよ。まさか公瑾が劉備と曹操の地下同盟を察知していようとはな・・・・・・」

 周瑜の幕舎を出た魯粛は、孔明の肩をたたきながらいった。

 「なに、公瑾どのほどのお方なら看破されても不思議はありますまい。それだけ弱い劉備が生き残るには過酷な時代だったのです。

 これで、互いにわだかまりなく敵に当たれるというものでしょう」

 孔明の魯粛に対する口調もひどくくだけている。

 二人は、初めて出会ったときから刎頚の交わりを結ぶほどの友情を固めていた。もちろん、孫権や周瑜には内密の関係だ。

 「ところで、公瑾どのにあのように返答してよろしかったかな?」

 孔明が歩きながら、魯粛に訊く。

 「満点だ。孔明、君は会うたびに芝居が上手になっているぞ。もうコツは会得したのだろう?これからは、おれの指導はいらないかもな」

 魯粛は何度も頷いて、孔明を讃えた。

 実のところ孔明は、説客として呉に到着したときから、緻密に呉の諸将への対応を魯粛から指導を受けていたのである――。

呉の群臣たちを打ち負かせた舌戦から、神経症を患った周瑜への助言に至るまで、水も洩らさぬほどの打ち合わせを二人は行い、「大胆不敵な気鋭の青年軍師」という立ち振る舞いを、魯粛は孔明に演技させていたのだ。

「よしてくださいよ。何度も私を、あのような怖い目に遭わせないでください。子敬さまこそ、一度本音でガツンとお願いしますよ。

私は、生来内気なのですから・・・・・・これ以上緊張を強いられると公瑾どのではないですが、気を病んでしまいます」

孔明が肩をすくめておどけてみせる。このような素直な孔明を知っているのは、劉備の側近と魯粛だけである。

「いや孔明、君じゃなきゃ駄目なのだよ。この呉という国は、土豪の集合体だ。己の利害に走りすぎてまとまりがつかない。そこが欠点ともいえるがね。

新しい風が、何というかな、新しい思想が必要なのだ。このような乱世にはな。さらにいえば、乱世も末期といえる曹操という強大な敵が作り上げたこの状況を打破するには」

「そうですかね。私には若すぎてわかりません」

「惚けるなよ、伏竜。おれは君の創り出した大義名分には頭が上がらないんだよ。『曹操は漢王朝の賊、討つべし』とか『天下三分の計』などを聞いたときのおれの衝撃を知っているか?あまりにも明確、そして効果的。

孔明、君のような才能に出会ったのは、公瑾以来だよ。いや、こと政治に関しては、潜在的に君は公瑾を超えているかもしれない・・・・・・」

魯粛の褒め殺しに、孔明は頭を抱えるようにして照れてみせた。

「あまり、買い被り過ぎないでください。ただの書生上がりである私を・・・・・・戦に関しても書物は読んでいますが、実戦の経験など一つもないのですよ」

「孔明、謙遜もほどほどにしろよ。戦などは外交の一局面に過ぎない。公瑾や雲長どの(関羽)のような優れた将軍に任せておけばよい。

 我らが知らなければならないのは、戦場における兵の進退ではない。それを包括する戦略――ひいては政治、天下の趨勢を見定め、判断することなんだ。

劉豫州が強くなったのは、そういう見張り台から指示を出す君を得たからなんだぜ。これまでの劉備は、傍から見てもひどいものだった。君から聞いて得心したが、曹操の駒になってはじめて生き残れたに過ぎない。

君が、劉備の負け犬根性を叩き直したんだ。だからこそ、おれは君に会いに行った。そうだろう」

孔明は、胸に感動を覚えていった。

「私を本当に理解して下さるのは、劉備と子敬さまだけです。あと兄の謹も・・・・・・あなた方のためならば、私はいつでも小憎たらしい若造でいられそうな気がしますよ」

「あと一人、足りないかもな」

魯粛が顎髭を撫でながら、誰ともなく呟いた。

「あと一人――ですか?我々を理解する人物が」

 孔明は興味深げに、それは誰かと魯粛に訊いた。

「さっき気付いていたのだろう。提督周瑜公瑾・・・・・・周郎だ」

「なるほど」

二人の青年の影は、夜の帳が下りた長江の流れにかき消されるように、小さく遠ざかっていった。



 曹操軍との合戦に関する軍議が開催される前日の夕刻、諸葛孔明は兄の諸葛謹の幕舎を訪れた。

諸葛謹は、孔明がまだ少年だった頃に戦乱を避けて江東に移り住んだ。「三国志・諸葛謹伝」には、「(諸葛謹は)公の場では諸葛亮と面会することはあったが、私的に面会することはなかった」と記されているが、にわかに信じがたい。仮にも血を分けた兄弟である。おそらくは諸葛謹の品行方正で実直な人柄から生まれた逸話なのではないか。

「おお、孔明。待ちかねていたぞ。義兄上との話は漢の朝廷とではえらい違いで退屈させない」

食卓には、諸葛謹の他にもう一人男が座っていた。年の頃は三十過ぎ、細身だが隙を見せない所作が剣術の錬者であることを物語っているようだ。

「元直。よく曹操の陣営から抜け出してきたな」

孔明が呼んだ元直とは徐庶の字で、彼はかつて劉備に仕え、曹操が荊州を侵略した際に、曹操に鞍替えして仕えるようになり、現在に至る。

「・・・・・・また、痩せたな?」

徐庶は孔明のいたわりに笑いを交えつつ、

「ああ、痩せた。宮仕えの辛さよ。だが、義兄上のご助言のおかげにて」

と諸葛謹に杯を向け、酒をあおった。

「戦乱に身をさらす心痛はなくなった。母者も喜んでいる」

「身内がいる者は、安全な権力者に仕えねばな。我ら兄弟は曹操には仕えることができないからな」

 諸葛謹はわずかに目を細めていった。

 「うむ、これは・・・・・・二人には思い出したくない余計なことを」

 徐庶が恥じ入るように、顔を下げだ。

 諸葛謹と孔明は、幼少時に曹操が彼らの故郷である徐州を攻め、住民を無差別に殺害した現場を知っていた。草を刈るように人を殺めていく曹操軍の兵士たちを見た兄弟が、自分たちの才能をこのような冷血な男のために捧げたくないと感じたのは、情緒のなせるわざに他ならない。

 「昔のことはいい。それより元直、孔明。私の『目』が久しぶりに開いたぞ」

 ほう!と孔明と徐庶は諸葛謹の額に注目した。

 広い額の中央部にわずかな切り傷のような線が入っており、その線がゆっくりと上下に開くと、諸葛謹の両目の他にもう一つの「目」が現れた。

 「兄上、見えるのですか?先のことが」

 孔明が冷静に尋ねる。徐庶は首筋の汗を手で拭って、

 「ここまではっきり開くとは・・・・・・我ら三人が仕える主君を決めていただいた時以来ではないか」

 と感嘆の声を上げた。

 諸葛謹の第三の『目』は、未来を預言することのできる能力があった。

 彼はむかし、孔明と徐庶を呼び三人の未来をこう予言した。

 「この乱世では、仕える主君を慎重に選ばなければならない。しかし、三人が同じ主君に仕えたなら、共倒れになる危険性がある。

 群雄の中で生き残る三人が見えた。その三人に各人が仕えることにしよう。

 まずは孔明。お前は政治軍事に抜群の才がある。劉豫州(劉備)に仕え、その右腕として王佐の才を発揮せよ。

 次に元直(徐庶)。お前は撃剣の名手で武勇と軍略に長けておる。また我らの中で只一人母上が存命であるから、最も強大な主君といえる曹操に仕え、身の安泰を図るがよい。

 最後に私だが、江東の孫策を頼ろうと思う。孫策の従えている配下は、地元の豪族たちの寄せ集めだから、私の居場所もあるだろう。

 三人の仕える主君の誰かが、他の二人を滅ぼしたときには、互いの命が約束されるだろう。これが私の見た『先のこと』だ」

 諸葛謹の予言は的中し、三人はそれぞれの主君と共に生き残り、再び赤壁という戦場に集まった。

 「では、今回の戦は・・・・・・どちらが勝つかお分かりになったのか?」

 徐庶は空になった杯を夢中で振り回しながら、諸葛謹に尋ねた。

 「うむ。元直、軍の後方でいつでも退却できる準備を整えよ。孔明は、このまま大人しく我が陣に留まれ。劉豫州には曹操軍撤退後の領土を馳走して差し上げるよう」

 「あい分かりました」

 孔明は心持ち柳眉を明るくして兄の助言に答えた。

 「そうかあ。曹操は碧眼児(孫権)に負けるのか」

 徐庶は、肩を落とし残念そうに呟いた。

 「敗戦の予兆はすでにあったのです。曹操軍は全体に疫病が広がり、士気が低下している上に海戦の経験がない。

 船を鉄の鎖で繋げる手段も、火攻めには抗う術もありますまい。勝敗は開戦から数刻で決するかと存じます」

 孔明が兄と徐庶に、兄の予言を裏付ける解説を論理的に説明した。

 「そこでだ。我らは元直を生かして北へ帰さねばならぬ。孔明、何か手はあるか」

 「なくはない・・・・・・ですが、上手くいくか」

 「孔明、知恵を貸してくれい。都に残してきた母者にまだ孝行できてはおらぬから」

 情けない声を出す徐庶の肩に、孔明は手をおいていった。

 「涼州の馬超と韓遂に不穏の動きあり、という情報をこちらから流す。それまでにさりげなく曹操に『涼州に対する守備に当たりたく存じます』と一言進言しておけばいいさ。

 そうすれば、曹操が馬超謀反の噂を知ると同時に、元直を涼州の手前まで差し向けるだろう。ぬかりなくやれよ」

 「わかった。助かる」

 徐庶は胸を撫で下ろした。諸葛謹は落ち着いた低い声で、

 「そうと決まれば早く長江を渡り、曹操の陣に帰れ。今晩にも間諜を駆使して例の噂を流す」

 と徐庶を励ました。孔明も賛同し、頷く。

 「義兄上、孔明、恩に着る・・・・・この借りいつか返させてもらう」

 徐庶は壁に立てかけておいた長剣を帯びると、風のように幕舎から飛び出していった。

 「兄上、ともかくも戦勝おめでとうございます。私も劉備に使者を送り、海戦が決着し次第、陸から曹操軍を追撃する支度をいたします。

 兄上も、武勲をお上げになる好機・・・・・・子敬(魯粛)どのに頼み、陣をしかれてはいかがか」

 孔明の怜悧な弁舌をさえぎって、諸葛謹は笑った。

 「私は長史だ。軍を動かすことは本来の働きとはいえぬ。それに・・・・・・」

 「それに?」

 「それに、見たくない『先のこと』だってあるんだよ」

 孔明に未来は見えない。寂しげに洩らした兄の一言に首を捻った。

 諸葛謹は、自分の血脈が子の代で途絶えることも見えてしまったのだった。

彼の嫡男・諸葛恪は若くから才能に秀で、それを披露することに躊躇のない性格だった。彼が少年の頃、孫権が群臣居並ぶ席で、冗談から額に「諸葛子瑜」という札を貼り付けた驢馬を引かせたことがあった。

諸葛謹は面長な風貌であったため、それをからかったのである。

それを見た諸葛恪少年は、

「この札に二文字書き加えてよろしいでしょうか」

 と孫権に願い出た。もとより冗談であるから孫権が許可したところ、

 「諸葛子瑜」の文字の下に二文字、「之驢(の驢馬)」と書いた。

 これには孫権はじめ群臣みな感嘆したが、

 「何というさかしらな・・・・・・我が家も恪で滅びる」

 と諸葛謹一人だけは顔を背けた、という。

 諸葛恪は自らの才能に自惚れ、父である諸葛謹の死後も人を人とも思わぬ傲慢な政治を行ったため、クーデターに遭い殺害されるに至る。一族も皆殺しの無残な最期を遂げた。


 徐庶のその後も述べておく。

 彼は赤壁の戦場から無事逃れたため、魏の明帝の時代まで生きた。

 後に孔明が蜀の丞相となり、魏へ征伐軍を起こしたとき、魏の内通者に、

 「魏では徐庶はどのような官職についているのか」

 と問うた。

 「御史中丞であられます」

 これを聞くと孔明は嘆息して、

 「魏にはよほど人材が多いらしい。あの徐庶がこの程度しか用いてもらえないとはな」

 と独り言のようにいった。

 徐庶はこのことから数年後に亡くなったと伝えられている。

 翌日、周瑜が企画した軍議が開催された。月はすでに十二月に入っている。

 「今日で皆が集まるのは最後ではないか?」

 「うむ・・・・・・敵は多勢、味方は無勢。このまま膠着状態が続けば、我らの不利は著しい。敵が態勢を整えない内に合戦をしたいのだがな」

 「天下の周郎も、此度は打つ手なし、かな」

 「おい、しっ。子敬(魯粛)と孔明が入ってきたぞ。あのような青二才に曹賊が討てるのかよ」

 「あ、それよりも・・・・・・問題の人物ご登場だぞ」

 諸将の目は、悪びれずに堂々と背筋を伸ばして入場してきた老将・黄蓋に注がれた。黄蓋は、承知の通り強硬な反戦派で、厳しい表情をたたえ足早に席に着いた。

 「よくもぬけぬけと出席できたものだな」

 「公覆(黄蓋)どのは、程公(程普)と並ぶ先々代(孫権の父孫堅)からの譜代さ。主公も粗末に扱われはしまいて」

 最後に周瑜と孫権が現れ、軍議が始まった。

 最初に諸将による現状報告があった。いずれも戦線に異常なしというもので、報告をする将軍たちの声も威勢がなかった。

 次に周瑜が立ち上がり、議場を見回してから低い声でいった。

 「敵味方互いにつがえた弓は、放たれなければならない。すなわち戦機は熟した。敵の出方を覗っていたが、今こそこちらから総攻撃をかける戦機と判断した。概要は、公覆(黄蓋)どのに説明してもらう」

 周瑜が座ると同時に立ち上がった黄蓋の姿に、諸将はひどく動揺した。無視されるべき反戦論者が攻撃戦術の説明を行うとは、何事か・・・・・・。

 「おのおのがた。我らが総力をもって漢の賊曹操を討つ好機が到来した。

 曹操は、それがしの偽りの降伏を信じた!」

 「何と!」

 「そうだったのか・・・・・・」

 諸将も、黄蓋のあからさまな反戦態度の訳がようやく理解できた。

 黄蓋は自ら、曹操に偽りの降伏を申し込んでいたのだ。しかし曹操とて希代の軍略家をもって任じている。そう易々とは敵将からの内通を認めようとしない。だから黄蓋は味方をも欺いた。そうすれば何人も江東に紛れ込んでいる曹操が放った間諜が、「黄蓋に叛意あり」という情報を曹操に伝えるはずだ。

 もう一つの意義は、味方の中にいる内通者を黄蓋のもとに集結させ、これを一網打尽にすることだ。こちらの方も効果があり、曹操に内通を望んだ孫権軍幹部を、数十人監禁することに成功した、と黄蓋はいう。

 「そこで、火攻めを行う」

 黄蓋は周瑜と相談し、すでに火船二十隻を用意している。船内には枯草と枯柴が満載されており、それにたっぷり魚油が染み込ませてある。その上に硫黄と煙硝が撒かれ、これらに突入された上火を放たれたならば、いかな大船団とて炎上は必至であろう。

 「火攻めに必要なのは、何といっても風だろう。今は冬・・・・・・風向きは西北から吹くのが常で、東南からは滅多に吹かぬ。

 我らは東南に位置しているので、せっかく公覆どのが放った火も、逆風であれば効果も半減するのでは?」

 魯粛が、的確な指摘をした。諸将も、一度上がった気勢が削がれたようにうなだれる。その空気を打破するように周瑜は、

 「東南風は、吹いている。ここ数ヶ月の長江での風向きを調べさせたところ、わずかな回数であるけれども、吹いているのだ」

 一同にざわめきが起こる。

 「では、近々・・・・・東南風が吹くのを予測して、戦の準備を整えたというわけか、周提督」

 程普が感心したように、周瑜に訊く。はい、と周瑜はいう。

 「だが、公瑾(周瑜)よ。必ずしも東南風が吹くわけではないぞ。そのときはどうする」

 誰もが口に憚る言葉を、孫権が単刀直入に訊く。さすがは江東の碧眼児、戦術理解の早さも抜群だ。

 「お待ちになられませ」

 周瑜に代わり答えたのは、諸葛孔明だった。周瑜も無言で大きく頷く。

 「お待ちになられませ。ここまで敵を陥れることができたのです。人事を尽くして天命を待つ――それが粉骨砕身、国のために艱難辛苦を厭われなかった周瑜提督と黄蓋将軍に応える道理だと存じます。

 風は、必ず吹きます」

 「そうだ、諸葛亮どののいうとおりだ」

 「曹操は今や袋の鼠、焦ればせっかくの獲物を取り逃がすわい」

 孔明の一言は、不思議な説得力をもっていた。その裏づけが諸葛謹の預言であることは、まさか周瑜や魯粛とて気付かない。

 「よし、東南の風が合戦の合図だと皆心得よ、いいな。ところで公覆よ」

 孫権が興味をもった碧眼を、黄蓋に向ける。

 「どうやって、あの老賊曹操を騙しおおせたんだい」

 黄蓋は周瑜を見やって、

 「周提督のご助言です。曹操は成功体験に弱い、と。奴はかつて青州の黄巾賊の降伏から大軍団を編成し、官渡の戦いでも袁紹配下の武将たちの裏切りを受け入れて勝ちました。先にも荊州で劉表の遺臣たちの降伏を容れて易々と領土を得たのです。

 人というものは、自分が一度ならず三度までも成功した経験に必ず我を失うものです。そこに我らのつけいる隙が生じました」

 と老人らしからぬ若々しい声でいった。

 「しかし、曹操とて一代の姦雄。何度目の誘いで公覆どのの降伏を信じたのですか」

 魯粛の問いに、今度は周瑜が答える。

 「二度目だ。一度目の書状では、さすがに曹操の反応は鈍かった。だが、公覆どのが幾度も軍議や陣営で声高に反戦を主張しはじめてから、曹操の方から密使が来た」

 「もし、二度の調略で曹操が信じなかったときは――どうなされるおつもりでしたか」

 孔明が、黄蓋に真剣な眼差しでいった。

 「そのときは――それがしの首を打ち、曹操に届けるよう周都督には進言いたした」

 「ご殊勝なお心がけと存じます。三代にわたる主公への忠義、ここに極まる」

 孔明は、深々と黄蓋に頭を下げた。黄蓋も孔明に大きな礼で返す。

 「見事であった!」

 孫権が手放しで周瑜と黄蓋を讃える。諸将も皆感動し、中には涙を浮かべる将軍も何人かいた。

 ――東南の風を待つ。

 孫権・劉備連合軍最後の軍議は、この一点に集約され終了した。


 一方の曹操軍陣営でも最後の軍議が行われていた。

 水軍都督の千禁、陸軍の将軍は徐晃。さらに一族の夏候淵、夏候惇。警護には張遼という錚々たる面々である。

 曹操の発案で、大船団は鎖で連結されており、波を蹴散らし進む様はあたかも北軍得意の陸戦さながらの壮観さであった。

 風は西北に吹いている。

 「これで我が軍の勝利は疑いなし。あとは黄蓋が船団に謀反する将軍たちを連れて降伏してくれば、敵の狼狽著しく、勝敗はおのずと決しよう」

 上機嫌の曹操に、あえて苦言を呈する参謀がいた。程昱である。

 「今のところ順調ではありますが、もし敵に火攻めを仕掛けられたらいかがいたしましょう。船が密集しすぎで動きが取れません」

 「ふふ・・・・・・、仲徳(程昱の字)ほどの策士が、このような簡単なことも読めないのか」

 曹操は皮肉な笑みをたたえていう。

 「今は冬だ。十一月の長江には西北の風しか吹かぬ。我々は西北にいるから、仮に敵が火を放ったとしても、東南にいる敵が逆に焼き殺される。いらぬ心配はするな」

 「しかし!東南の風が吹いたなら・・・・・・」

 「おぬしも歳だな、仲徳。万が一つあるかないかの危険を恐れていれば、戦など起こせるものではないわ」

 程昱は、まだ言いたいことがあった。

 「もう一つ進言させていただければ、黄蓋降伏の真偽とて曖昧です。降伏する日時も記さなければ、誰を連れて降るとも書状に記されておりません。

 何より彼は孫権の父・孫堅からの譜代武将です。敵味方とも欺いて、何かの策を弄していることも想定できます」

 曹操はにわかに表情を曇らせ、程昱へ振り向くことなくいった。

 「『主に裏切るときは期日を決せず』という言葉を知らないか。我らが黄蓋らを迎え入れる態度を示せば、孫権や周瑜がそれを察知する・・・・・・だから期日や降伏者を明記しないのだ」

 「だから、敵は黄蓋ではなく周瑜だということをお忘れなく!丞相(曹操)の高い見識を利用して、わざと高度な調略を仕掛けてきたとすれば・・・・・・」

 曹操は、机をばん、と叩いて程昱を睨みつけた。

 「少ししゃべりすぎのようだな、仲徳」

 「いや、それがしは、ただ・・・・・」

 「余がいつ、卿に意見を求めた?」

 「いえ、お求めになっておられません」

 うなだれる程昱に、曹操は憤然と告げた。

 「卿を船に乗せることはできぬ。戦とは将兵一体となって乾坤の攻撃をして、初めて勝利を手中に収められるのだ。

 仲徳は後軍に下がり、補給と支援に当たれ。それから元直(徐庶)には西涼の馬超への備え、怠りなきよう伝えよ」

 はい、と程昱は静かに席を立ち、議場を後にした。

 (この戦は、負けだ)

 自分の幕舎に戻る道すがら、程昱は思った。

 (曹操は、人の進言を聞かない。聞いているように思えるときは、偶然自分の考えと献策者の考えが一致したときだけだ。人は一人で万能たりえない。それに気付かないことこそが、曹操の唯一の欠点なのだ)

 その欠点を、周瑜は看破しているのではないか。

 (そのときは、天命だ。曹操にとってもいい薬になるだろう)

 程昱は悲観的ながらも、この赤壁での戦いに敗戦しても、曹操にとって致命傷にならないことを承知していた。二十万の大軍は、先に降伏した荊州の兵たちを中心にした烏合の衆に過ぎないからである。

 「仲徳さま、いかがなされました?もう軍議は解散したのですか」

 折りしも鎧を着けて馬に乗っていた徐庶と、程昱は出会った。

 「もう出発か、元直」

 「はい。西涼の馬超と韓遂は、勇猛をもって知られた英傑でございます。一刻も早く守備を固めなければなりません」

 徐庶は、諸葛謹と孔明が流した「馬超謀反」の噂を信じた曹操に、国境守備の将に任命され、任地に赴くところであった。

 「私も、参謀を外された。火攻めの危険を献策したのだがな。丞相の不興を買ってしまったわ」

 「そうでございましたか・・・・・・」

 徐庶は、改めて諸葛謹の「目」の預言に戦慄した。程昱の策を容れていれば、曹操は孫権と周瑜に勝てたであろう。

 しかし程昱は、諸葛謹が徐庶の推薦状を極秘裏にもたせた「パイプ役」だった。程昱は親代わりとなって徐庶とその母を厚遇してくれたし、徐庶にとっては曹操軍で唯一のパトロンだった。

 (仲徳どのも、結果的に惨禍から免れる・・・・・・よかった)

 胸を撫で下ろす徐庶に、程昱は耳打ちしていった。

 「君も薄々気付いていようが、この戦は敗色濃厚である。馬超と韓遂も動くことはまずあるまい。

 そこでだ、一つ頼まれてほしい。我が軍の撤退路――おそらく華陽道になるが、そこを補修しつつ北に向かってくれまいか。簡易な手当てでもよい。敗軍が惨めに見えないよう泥土にまみれぬようにしてくれれば」

 「はい、仔細承知いたしました」

 徐庶は平静を装っていたが、程昱の炯眼に瞠目していた。程昱は徐庶が自らの意志で戦場を抜けることを知った上で、さらに曹操敗戦時の配慮を頭を低くして依頼したのである。

 「まあ、互いに命拾ったな」

 程昱は別れ際に、つとめて明るい声を出して徐庶を見送った。

 (仲徳どのの頼みだ。無下にはできない。そして曹操にも、今死なれては困る。せっかく安定しはじめた世の中だ。

 孔明が発案した『天下三分の計』を実現するには、曹操・孫権・劉備が鼎のように地方を自治することが現実条件なのだから)

 徐庶は、西涼守備軍を率いる馬上で、繰り返しその言葉を脳裏に反芻させていたのだった。

 孫権・劉備連合軍の臨戦態勢から、三日が経った。

 黄蓋苦心の策である「期限を切らない投降」も、曹操がいつまでも待っていてくれるわけではない。

 「このままでは、らちが開きません。それがしが部下と共に数艘の火船を賊軍の懐へ突入させましょう。

 密集した敵の大船団に潜り込み、火を放てば風向きが西北でも敵船団は炎上します」

 水軍の名手である将軍甘寧が、周瑜に申し出た。

 「その進言は、容れられない。それをすれば、卿は生きて戻れないだろう。

それに公覆(黄蓋)どのが、二十の火船を用意して三日前から待機してくれている。あと一日、あと一日待とう・・・・・・」

周瑜は、青ざめた表情で祈るようにいった。魯粛が隣で、心配そうに周瑜の苛立ちを見守っていた。

(孔明、待っていいんだな?東南の風を)

魯粛は、同じように別の幕舎で風向きが変わるのを待っている、若き諸葛孔明を思い浮かべていた。

孔明は、今何を思うのか――地図を広げて陸からの攻撃路を、律儀に想定しているのか。それとも、槍の趙雲とともに碁でもうっているものか。

神経が磨り減るような時間が数刻過ぎた。

魯粛が気晴らしに外へ出た三更(午前零時)の頃。ごう、と大きな音がし、魯粛の頬を打った。

魯粛が走って大旗を見ると――東南の風が吹いていた。

「公瑾!風向きが変わった。東南風だ!」

周瑜も走り出て、両手を大きく上げる。間違いなく、東南風である。さらに幸運なことに風足が強い。

「天は、ついに我らに味方せり!出陣だ!」

連絡将校が次々に馬に跨り駆け出していく。魯粛が目を真っ赤にして、周瑜の肩をたたいた。

「やるぞ!」

「おう、やろう!」

若き呉軍の両翼に、闘志が充満していた。賽は投げられた。黄蓋が満を持して曹操に「今夜投降する」と密使を船で走らせる。

呉の六軍もそれぞれの配置に兵を移動し始め、曹操軍を包囲する準備を整えつつあった。

周瑜は、程普と旗艦である大艨艟に乗り込んだ。魯粛は留守役として大塞に残った。

その頃、孔明と趙雲も気象変化に気付いていた。

「僥倖です。早く主公(劉備)に軍を動かすよう使者を送らねば」

趙雲が孔明に息せき切ってせかす。孔明も頷いて、

「さよう。今から使者を立ててくれ。軍を動かすときは、残しておいた指示通り迅速に行動するように」

使者が馬で走り去った後、趙雲が孔明に訊く。

「これで、勝ちましたな」

「うん」

「お喜びではないのですか」

「そうではない。これで味方の大勝利疑いなし。だがな、これからが主公(劉備)の正念場だ」

「我らのするべきことは――」

「高みの見物さ・・・・・・ここで姿をくらませれば周瑜に疑われる。あとは、事が成るのを見守るだけ」

孔明はそういうと、「寒い、寒い」といいながら幕舎の中へ入っていった。趙雲は槍を抱いたまま、しばらく呉軍が大きなうねりのように動き出す甲冑の音を遠く聞いていた。

黄蓋の密書が届くと、曹操は会心の笑みを見せた。

「今晩、公覆(黄蓋)が降るぞ!開戦の準備をせい」

 密書には、船に青い旗を立て、青い布をまとっているとある。孫権軍の幹部の首級も持参するとあって、曹操陣営は大いに沸いた。

「しかし・・・・・・東南に風向きが変わったようですが」

護衛隊長の張遼が、不安を述べる。曹操は一瞬程昱の顔を思い出したが、

「何するものぞ。冬に気象が不安定なときもあろう。気にするな」

と不機嫌そうに張遼を見やった。

曹操の心中は黄蓋の降伏で占められていた。敵の寝返りを前提に戦術を立てていたのである。周瑜が東南風を待っていたと同時に、曹操は黄蓋の降伏を祈っていた。

互いの心理は今同時に満たされた。すなわち勝利の女神は周瑜に微笑んだのである。

太陽が沈み、東南の風が曹操の全身を吹き抜けていく。長江の水面に美しい月が照らされている。

「対岸から二十隻の船が接近中」

物見の報告に、曹操軍諸将から「おお」と喜びの声が漏れる。

「それぞれの船に青い旗、青い布を確認。中央の船には『先鋒黄蓋』の旗が翻っております」

「よし!」

 曹操が身を乗り出して、旗艦の先まで駆け寄る。

 「おい・・・・・何の臭いだ?」

 「生臭い。魚の臭いじゃないか?」

 兵士たちが話をしているのを聞いて、曹操は青ざめた――敵方向からの東南の風が魚の臭いを曹操軍まで運んでいた。

 ――まさか、魚油か・・・・・・。

 「丞相(曹操)!あれは、偽りの投降です!すべての船が水面から浮きすぎております。兵士や糧秣は乗っていない証拠です。早く、早く撤退のご命令を」

 張遼が狼狽しきった表情で、曹操に大声で叫ぶ。

 ――そんな、馬鹿な。謀られたか。

 曹操は一瞬呆然自失したが、偽投降船に突入されたらおしまいだ。我に返って絶叫した。

 「止めよ!あれは敵の策略だ!誰ぞある、あの船を止めて参れ」

曹操は鞭を鳴らして喚いたが、全軍興奮の極みに達しており、誰にもその声が届かない。張遼が連絡将校を急ぎ招集させ、各軍に撤退の命令を伝える。

 だが、時すでに遅し。

 投降船は曹操軍の水塞に接近し、黄蓋が剣を振り上げて点火を命じた。おりしも東南の風が大きく煽って、突入した投降船から出火した炎が瞬く間に曹操軍各船を覆った。

 黄蓋は小船に乗り移り、火船から脱出したが、敵軍から雨あられと射られる矢を肩に受けて長江へ落ちた。

 「鎖を断ち切れい!火から逃れろ」

 水軍都督の千禁が、船上を走り回りながら叫ぶ。「火から逃れろ」とは事実上の撤退命令である。

 それより早く、突入した火船から曹操軍の鎖で連結されている船へ火が延焼し、水塞は火の海となった。どう!どう!とあちこちから火柱が上がり、炎が大蛇のように天へ向かって吼えた。

 兵士たちは逃げ惑い、火で焼死する者、長江に落ちて溺れ死ぬ者が続出した。

 阿鼻叫喚の地獄絵図であった。

 孫権軍先鋒の韓当が、西面から炎上する敵船団に攻撃を加えた。周泰が東面から攻撃し、正面からは周瑜・程普の旗艦である大艨艟が迫る。

 「公覆(黄蓋)どのは、戻られたか?」

 先鋒の韓当は大声で、周囲の者たちに聞きまわった。

 「いえ!まだ戻られてはおりません」

 韓当は眉をひそめた。黄蓋は死んだに違いない。呉軍の盾となって・・・・・・。悲しさを押し殺し、踵を返して陣頭に戻ろうとしたそのとき。

 「韓当!」

 という声が後ろから聞こえた。韓当は、驚いて振り返る。聞き覚えのある老人の声だ。

 「誰か、いるのか」

 韓当が兵士に尋ねたところ、

 「はい。水に落ちて溺れていた兵を拾い上げ、便所で横にしてあります」

 「馬鹿者!」

 叱られた兵士はきょとんとしているが、韓当は涙を流しながら便所に駆け込んだ。果たしてそこにずぶ濡れの黄蓋が横たわっている。

 「ああ、公覆どの・・・・・・おい、着替えだ!着替えの衣服を持ってこい!よくぞご無事で」

 泣きじゃくる韓当に黄蓋がしゃがれた声で、いたずらっぽく訊く。

 「ここはあの世か?それとも戦場か?」

 「戦場です。後は我らにお任せ下さい。大勝利ですよ!」

 「・・・・・・ふん、年寄りの冷や水、とはこのことだな」

 黄蓋は、こうして一命を取りとめた。

 赤壁の戦いは、孫権・劉備連合軍の圧勝となった。

 「三国志」の著者陳寿は、非常に思慮深い歴史家だったから、勝者と敗者にそれぞれにふさわしい記述を残している。

 まず「魏志・武帝(曹操)紀」には、

 

曹操は赤壁に至り、劉備と戦ったが、戦いはうまくいかなかった。この戦闘のうちに疫病がはびこり、官吏や士卒に多数の死者が出たので、軍を退却した。


と火攻めの様子や戦闘の詳細がまったく省略されている。「三国志」は晋を正統とする史料であり、晋は魏(曹操の子・曹丕が漢から禅譲されて建国)から禅譲されて建国された国だから、魏・呉(孫権が建国)・蜀(劉備が建国)では、魏を正統と扱っている。

だから漢の流れを汲む魏の曹操(死後、武帝となる)に、遠慮した筆致になっていることがよくわかる。

一方勝者となった「呉志・周瑜伝」には、講談「三国演義」に近い描写が見られる。


周瑜は駆逐艦・戦艦数十艘を選び、薪や草を積み、油を荷にそそぎ幕で覆ったうえ、将軍旗を立てた。それから曹操に手紙を送り「(黄蓋が)投降したい」と申し入れた。快速船を用意し、大きな戦艦のうしろにつなぎ、順に進んだ。曹操の側では、軍の全員が頸を長くして観望し、「黄蓋が投降してくるぞ」と指差して言った。黄蓋は船を次々と切り離し、一斉に火をつけた。折から猛烈な風(東南風)が吹いており、長江北岸の曹操の陣に延焼した。やがて炎は天にまで達し、焼死したり溺死したりする人馬が無数に出た。


ここでは諸葛孔明が七星壇で風を祈らない他は、大筋で講談「三国演義」と変わらない。赤壁の戦いの主人公はあくまで周瑜であり、劉備と孔明の影はいたって薄い。

先鋒韓当が曹操軍に突撃をかけ、大いに敵を破ったため、東側から進行した周泰も、正面から兵を進めた周瑜・程普も一方的に敵兵を蹴散らした。

念願の東南風に乗じ、兵と火が相呼応して曹操水軍は無数の死傷者を出した。いや、皆殺し同然で抵抗の術すらなかった、といっていい。

陸上においても同様だった。烏林の兵站基地は甘寧と呂蒙の挟撃に遭い、皆殺し同然で基地を放棄せざるをえなかった。

曹操は護衛隊長の張遼に守られながら長江の岸に上がったものの、烏林が陥落したことを知り、長江上流の江陵を目指す。

長江の流れを北へ、さらに北へ――曹操は燃え上がる赤壁を顧みて戦慄した。

――天が・・・・・・天が焦げる。

黒い竜のように、赤壁の夜空を焦がす黒煙が、詩人丞相に畏怖を与えたのだ。二十万を超えた威風堂々たる南征軍は、みるも無残な数千人にまで減少していた。

 追い討ちをかけるように、雨が敗軍に降り注ぐ。

――おれは、間違っていたのか?

 雨と風に晒され、曹操は馬上で悲痛な問答を繰り返していた。

 (玄徳(劉備)に裏切られたとき、何かが変わっていたのだ・・・・・・おれは、人の心に潜む脆弱な心を衝き、玄徳とともに敵を裏切らせ、自滅せしめ、今日の地位を得た。

おれは、今の今まで、玄徳を操っていたのがおれ自身だと錯覚していたのだ。今目が覚めた。おれの中の脆弱な心を見失っていた。すべては逆だった・・・・・・。

玄徳が、おれを操り、碧眼児(孫権)と周郎(周瑜)をおれに抵抗せしめ、おのれはかすり傷一つ負うことなく、うまうまと利を得ておったのだ!)

「くそ!」曹操は、馬の鞍を悔しさのあまり叩いた。側についている張遼も、度重なる逃避行の疲労から、曹操に慰めの言葉一つかけられず、鎧に染み込む雨の重さと不快感にじっと耐えていた。

「後方に、敵軍発見」

曹操は、驚いて振り返る。張遼が刀を抜いて気力を振り絞る。

「丞相は、先へお急ぎください。それがしが、時間を稼ぎます」

とはいったものの、張遼に兵を指揮する気力などすでになかった。

「いや、まて。あの旗印は――」

曹操は老眼だから、遠くの敵の旗印で誰が率いている兵団かが判断できる。

「雲長(関羽)だ・・・・・・」

数里先には、あらかじめ駐屯していたと思われる関羽の軍が、じっとこちらの様子を覗っている。

「丞相、雲長ならそれがしが命に代えても止めてみせます。早く、馬を進められませ」

関羽と親友である張遼が、曹操に進言する。曹操はかぶりをふって、

「雲長は、動かぬ・・・・・・彼は、余への義理を今返そうと思っておるのだろう。そのまま、ゆるりと進め」

曹操の予想どおり、関羽軍の旗はさかんに翻っているが、攻撃をしかけてくる様子は見られない。殺気が伝わらないのだ。

(すまぬ、雲長――)

曹操は頭を垂れて、敗者らしく振舞い北へと兵を進める。そこへ敗残兵をまとめた程昱が、千禁と徐晃を連れて曹操に合流した。

「丞相・・・・・・よくぞご無事で」

程昱が泥だらけの鎧のまま、曹操の後ろへ馬を近づける。曹操は、ちらりと程昱を見て軽い会釈をしたが、言葉はかけなかった。

曹操一行は、華陽道を通り北へ撤退した。

華陽道は、程昱の献策通り徐庶が補修していたため、曹操軍の敗戦を惨めに見せないことのわずかな救いとなった。

道すがら曹操はいきなり、

「奉孝(郭嘉)が生きていたなら、余をこのような目に合わせなかったであろうに。ああ、奉孝!惜しいかな奉孝!」

と泣き出した。

郭嘉は、曹操陣営において程昱に勝る軍師だった。その先読みの鋭さは、袁紹の滅亡を預言し、劉備の危険性を常に曹操に説いていたものだ。

ただ天性の品行不良で、酒を飲みすぎ体調管理を怠ったため、三十八歳で夭折した。

曹操は郭嘉の葬儀で、

「諸君らは余と同年輩だ。ただ奉孝だけが一番若かった。天下平定成った暁には、後事を奉孝に託そうと思っていたのだが・・・・・・天運であるなあ」

それだけ愛着をもった天才軍師を偲ぶ丞相を、程昱や張遼は冷ややかな目で見守っていた。

(曹操には、天下は取れない。郭嘉ほどの天才が、自軍の船を鎖で繋ぎ、長江の風向きを無視するはずがないであろう。

たとえ郭嘉が生きていて従軍しても、程昱と同じ献策をし、曹操はそれを無視したに違いないのだ。結果は同じさ)

張遼は、急に曹操が可哀想になってきていた。

翌朝から、孫権軍の陣中にいた孔明と趙雲のもとに、戦勝報告が次々ともたらされた。

諸葛孔明は、周瑜の上げた戦果にはさほどの興味をもっていないように見えた。魯粛からの使者へは、

「祝着至極、とお伝え下さい」

と無機質な感想を述べ続けた。ようやく趙雲が、孔明の出した命を受けた劉備軍の追撃状況を伝えるにあたって、椅子から立ち上がった。

「翼徳どの(張飛)率いる部隊三千が、程昱・千禁・徐晃の撤退軍と接触したもようです」

 「それで・・・・・・」

 「はい。追撃したものの、敵軍の逃げ足早く、追尾しきれなかったとのことです」

 趙雲が、無表情のまま孔明にありのままを告げる。

 孔明は、無言で腕組みをし、目を閉じて思索を続けていた。しばらく無言の時が流れ、別人のような沈んだ声で趙雲に訊いた。

 「関羽は、どうした」

 「はい。曹操本体と数里先まで接近できたようですが、程昱らの兵が本体に合流したため、戦闘へは至らなかったようです」

 報告する趙雲のこめかみにも、わずかに血管が浮き上がっている。冷静沈着な彼にしては、珍しいことだ。

 「ふうん」

 孔明はすべての報告を聞き終えて、大きなため息にも似た感想らしき声をだした。次の瞬間、誰も見たことのない孔明が趙雲の前に現出する。

 「どいつも、こいつも!そろいもそろって、まだ仲良しごっこかよ!

 私がいつ、『黙って曹操を逃がせ』といった?

 将を討ち取ることまでは叶わずとも、全力で追撃し、『劉備は、すでに曹操の味方ではない』と敵に思い知らせてやれ、と口を酸っぱくして繰り返したはずだ!『むかしのよしみで、武士の情け』か?反吐が出る!

 張飛はむかし千禁と別懇の仲だったそうだな?」

 「はい。武芸一般の話で、よく酒を酌み交わした仲だそうです」

 趙雲も、身体を震わせて孔明に訴えるかのごとく答える。

 「関羽は、曹操に恩義がある。だからその恩義の連鎖を断ち切るため、華陽に兵を置かせたのだ。

 それを――また敵に恩義を重ねるとは!一生二人でやっておれ、愚か者め」

 孔明が、このように興奮している姿を趙雲は初めて見た。が、趙雲のもつ積年の苛立ちも孔明と同じであったので、同調していった。

 「劉備の配下で、関羽と張飛は『別格』なのです。二人は、劉備の命令しか聞きません。我が軍では、誰も関羽と張飛に意見できないのです。

 二人の批判をすると、劉備の不興を買うし、関羽張飛にどのような報復を下されるかを皆畏れているのです」

 孔明も頷いていう。

 「今までの居候集団では、傷の舐め合いもいいさ。しかし、これから劉備は曹操から独立し、王となり、いずれは皇帝になってもらわねばならん。

 『別格』を二人も認めて、国を健全に統治できるとでも考えているのか?

 せっかく劉備が『負け犬根性』を払拭できるように、曹操軍追撃を命じたのだ。これで劉備が、『しめしめ曹操にまた恩を売ることができた』などと勘違いしてはどうする。

 生まれ持った劉備の『皇帝体質』の輝きが曇るではないか・・・・・・」

 そういうと孔明は、冷静さを取り戻そうと椅子に深く腰掛け、酒をあおった。

 趙雲も、やり切れなさから「失礼します」と孔明の対面に腰掛け、一気に杯を空けた。

 「なあ、子龍(趙雲)」

 「はい」

 孔明は杯を左手にもち、伸びの姿勢をしながら趙雲にいった。

 「関羽と張飛な――やはり、邪魔だわ」

 「それがしも、そのように存じます」

 孔明は額に杯をあてて、

 「いっそ、ずっと劉備の用心棒であってくれればな・・・・・・だが、影響力が強すぎるだろう、あの二人が将軍ともなれば」

と愚痴をこぼす。

「配下が、誰もついてこれません」

 趙雲も、遠慮がない。

 「まあ、いずれうまく始末しよう。そのときは――頼りにしているよ」

 「こちらこそ。軍師(孔明)あっての劉備ですから」

 孔明の杯に、趙雲子龍がなみなみと酒を注ぐ。

 勝利の宴。

 二人の影が、壁に立てかけられた趙雲の歴戦の槍を、薄暗く覆っていた。

 赤壁の戦いが終わった翌日から、周瑜は配下の武将への論功行賞を行っていた。

 第一の功績は、黄蓋である。火攻めの提案と、自ら偽りの投降を発案し実行するなど献身的な活躍は、抜群であった。

 韓当、周泰、甘寧など、功績のあった将軍たちには惜しみなく領地加増や昇進を与えた。

 「公瑾。孔明がいとまを請いに来ているよ」

 魯粛が文官の装束を着て、周瑜のところへやってきた。周瑜は開戦から睡眠らしい睡眠を取っていなかったので、目が充血していたが、気力が充実しているせいか、生き生きとしていた。

 「そうか。見送りに行かなければいけないな。

しかし、不思議な男だったね。『漢の賊曹操と戦うべし』と力説しておいて、自分は大人しく我が陣営で戦いを見守っていただけなのだから」

 「曹操が撤退して、荊州の支配も大きく揺らいだ。まずは劉備も旧劉表領の一部でも切り取って、本拠地を作らないとね。

 孔明の戦いは、これからさ」

 魯粛は孔明の親友でもある。陸上に駐屯している小世帯の劉備軍が、まずは江陵の南方、油江口を占領して後図を策することくらい簡単に予想できた。

 「孔明には、個人的に恩義がある」

 周瑜が、しみじみと呟く。

 「天才は天才を知る、という。孔明は公瑾くらいできる男だから、放っておけなかっただけじゃないのかなあ」

 魯粛の何気ない一言に、周瑜は首をかしげる。

 「ただ、それだけかい?なんでまた」

 「つまり、孔明は『自分が呉の提督なら』と仮想していたと思うんだな。だから、公瑾へあんなに細やかな助言ができたんじゃないか。

 公瑾は孔明を嫌っていたようだけれど、孔明は彼なりに自分を公瑾になぞらえて、いろいろな悩みを分析していたのだろう」

 周瑜は、わずかに微笑をたたえて魯粛の言葉を聞いていた。そして、

 「ふ、ふふ」

 と小さな声で笑った。

 「なんで、笑うんだい」

 魯粛が意外そうに、周瑜に訊く。

 「いや、なに。子敬はいい男だな、と思ってね」

 周瑜は、愉快そうに長江の船着場へ向かって歩き始めた。


 船着場には、趙雲が乗ってきた小船が碇泊しており、十人ほどの男たちが荷物の積み込みを行っていた。

 孔明と趙雲は、傍らで雑談に興じているように見えた。

 「諸葛軍師!」

 周瑜の呼びかけに孔明は少し驚いたように振り向き、きれいなお辞儀をした。

 「これは、周提督。わざわざ来てくださるとは思いもしなかったもので・・・・・・失礼いたしました」

 趙雲も、

 「提督自らのお見送り、かたじけなく存じます」

 と両手を組んで頭を下げた。

 「子龍どの、久しぶりですね。いつからこちらへ?」

 と魯粛が趙雲に親しげに話しかける。二人は、魯粛が荊州にいた頃の劉備に同盟を持ちかけたとき以来の再会だった。

 「諸葛軍師には、幾度となく私の弱りきった心を助けていただいた。ここで改めて感謝したい」

 周瑜が、趙雲と話し込む魯粛をちらと見て、孔明に礼をいう。

 「なんの、なんの。周提督の鮮やかな戦ぶり、書生上がりで軍師見習いの私には、何よりの勉強をさせていただきました」

 「『事に終始あり』といいます。お互いに、『終わりは始まり』ですね」

 周瑜の謎かけめいた言葉を、孔明は賢明にも理解する。

 「そうです。事は始まったばかりなんですよ」

 少年のような孔明の言葉を聞いて、周瑜は戦で荒廃した心が癒される思いがしていた。

 「おうい、公瑾。船が出るぞ」

 魯粛が、遠くから周瑜を呼んだ。いつの間にか趙雲は船に乗り込んでおり、出発の準備を整えている。

 「では諸葛軍師、再会の日まで――ご壮健なれ」

 「ありがとうございます。周提督も、お身体にはくれぐれもお気をつけになってください」

 周瑜と孔明。天下に並ぶ二人の天才が、固い握手を交わす。

 桟橋に向かって歩き始めた孔明は、ふと気付いたように振り返って、周瑜に声をかけた。

 「あ、それから周提督――劉備は皇帝になりますよ」

 無邪気な声で戯れのようにいった孔明に、周瑜も笑って、

 「それなら、あなたは漢の丞相ですね」

 といってやった。

 孔明は照れくさそうに船に乗り込んでゆく。魯粛が周瑜のもとに戻ってきて、

 「あの二人が去れば、なんか寂しい気もするね」

 といった。周瑜は咎める様子もなく、

 「孔明とは、いつでも会えるのだろう?」

 と魯粛にいった。魯粛は、あたふたして、

 「え?いや、あの・・・・・・それは、なんだ・・・・・まあ、なんというか」

 と言葉にならない言い訳をした。

 「子敬、君は本当にいい男だな」

 周瑜は、船出していく孔明と趙雲が乗った小さな船を見送りながら、長年の親友に再び感謝の言葉をかけてやった。



 赤壁の大勝利の後、周瑜は三年しか生きることができなかった。

 まさに、曹操を倒すために地上に生を受けたようなものだった。それをまっとうしたとき、天は周瑜を無慈悲にもあっけなく召し返してしまったのである。

 江陵城をめぐる周瑜と曹仁の戦いは、「呉志・周瑜伝」と「三国演義」でも描写はほぼ同じである。

 劉備は、周瑜が江陵攻略に一年余りをかけている間に、荊州の南部四郡を手に入れた。周瑜はここで、一計を案じる。

 孫権の妹を劉備に娶らせる、というのだ。

 劉備を孫権のもとへおびき寄せて長期滞在させ、その間に関羽と張飛の離間を図るという高度な調略だった。

 しかし、劉備の人格は周瑜の想像をはるかに凌駕していた。

 劉備は、孔明と魯粛を通じて荊州南部を孫権から借り、益州を攻略する約束までこぎつけていたのである。

 孫権は劉備と初めて対面したが、そのよく人にへりくだり、漢皇室から「豫州の牧」を与えられている大人の風格に、すっかり魅了されてしまった。

 周瑜は、荊州も益州も孫権に統治してほしかった。またそうあるべきだと、ずっと信じていた。

 ここに主君孫権と周瑜の間に、決定的な齟齬が生じてしまったのだ。

 孫権は、あくまで江東周辺に根付く土豪の主君であるという現状を、素直に認識していた。自分の領土が侵されれば、懸命に防ぐ。だが、自らが積極的に新領土を獲得しようという意識は希薄だ。

 それは孫権だけではなくて、東呉の人民から諸将文官までの総意である。それへ反発しようとしたところに、周瑜の悲劇があった。

 周瑜は「孫氏モンロー主義」に他ならず、孫権以外の統治者が天下を治めることなどありえなかった。

 彼の親友の魯粛は「親劉備派」で、劉備とともに曹操が治めている以外の土地を領し、共同戦線を張ることが東呉にとって最善の道だと考えていた。孫権以下呉の将官たちがこれに同じたのは、いうまでもない。

 周瑜はいつの間にか、孤立してしまっていた。

 周瑜は、馬を走らせていた。

 隣には孫策が、涼しげに馬を走らせている。

 美しい江南の自然。緑が広がり、湖はあくまで青く、風が周瑜の頬を優しく撫でていた。

 「伯符(孫策)。君はいつまでも若いな」

 周瑜が、躍動感溢れる孫策の巧みな手綱さばきと、その日に焼けた精悍な顔を見て感嘆する。

 「いつまでも二十六だからな」

 悪戯っぽく、孫策が笑う。孫策が暗殺されて、十年という月日が流れていたのだった。

 「おれは、伯符より十年も長く生きてしまったよ」

 湖の畔で馬を休ませるため、周瑜は下馬した。孫策も馬から下りて、

 「公瑾(周瑜)は、よくやったよ」

 といってくれた。

周瑜は、無意識の内に涙を流していた。孫策は周瑜の背中をそっとさすりながら、

「周郎は、我が国の宝だ」

とはっきりいった。「ありがとう」と周瑜は何度も涙声でいった。

「そろそろ、こちらに来るか」

孫策が、気遣うように尋ねる。そうか、ここが潮時なのかと周瑜は翻然と悟る。もう、死んでも悔いはない。

「行っても、いいのかい」

周瑜が手を差し出すと、孫策の姿はもやに包まれ、美しい風景とともに幻のようにその存在は消えていった。


 「夢を見ていたのか、公瑾」

 周瑜が目を覚ますと、魯粛がいた。

 ここは巴丘という場所で、周瑜の陣営である。

 先月、周瑜が献策した「益州遠征」の策が孫権に認められ、兵をまとめて出陣する途中で、周瑜は病に倒れたのだった。

 「・・・・・・今着いたのだな?子敬」

 消え入るような小さな声で、周瑜は魯粛に訊く。すでに病床から起き上がるだけの体力は、なかった。

 「食事はちゃんと摂っているか。君が好きな味を作らせているのだから、早く元気になってもらわないとね」

 魯粛は、周瑜の額の汗を拭いながらいった。周瑜は食通で知られており、食欲不振を心配した魯粛が、周瑜お気に入りの料理人を周瑜の陣営まで派遣していたのだ。

 「美味しいよ。なるべく食べるようにしている」

 「それは、結構」

 魯粛はにっこりして、崩れた周瑜の寝具を整えている。

 周瑜には、悔いはない。

 ここで死ぬことを誰よりも自分自身が知っているし、なにより親友の魯粛が周瑜の「すべて」をまっとうさせてくれるからだ。

 「子敬、いろいろ世話になったな」

 「どうしたんだ、いきなり。水臭いな。君は東呉の主柱なんだぜ。弱気は、いけないよ」

 魯粛は、周瑜に顔を近づけていった。周瑜の視力は、ほとんど失われている。

 「おれは、知っているよ――もう、先が長くないからいう。何もかも、知っている・・・・・・君が、その――」

 周瑜は、真っ青な顔で不自由になった言語を使い急ぐものだから、たどたどしくなり、最後には言葉が嗚咽に変わった。

 魯粛も、目頭が熱くなり、視界が涙でぼやけた。

 (どうして、泣く?一人で、嫌というほど泣いたではないか。涙が涸れ果てるまで泣き尽くしたじゃないか。泣いてはいけない。泣くな!)

 魯粛は、心中で泣きたくなる自分を激しく鼓舞した。

 「弱音はいけないよ、公瑾。おれが思うに、この病気は天が君に嫉妬したと思うんだ。

 君はこんなに容姿が優れているのに、軍事の天才だろう?

 天帝も、『周郎には、多くを与えすぎてしまったわい』と嫉妬しているに違いない。なに嫉妬など、女のそれと同じで時が過ぎるとなくなっていくものだ。

 だから、今は耐える時期。君はずっと走り続けてきたのだから、天が与えた休養だと思って大人しく寝ているんだよ」

 魯粛は、そういいながら柔らかい布巾で周瑜の涙を拭いてやった。

 「机の、上に――ああ、それだ・・・・・・主公(孫権)にあてた書状が・・・・・・ある。悪いが――」

 嗚咽がおさまった周瑜が、別人のように細くなった手で、魯粛に指示を出す。

 「承知した。主公にお渡ししておく」

 魯粛が周瑜の書状をあずかると、周瑜がなけなしの力で魯粛の手をとって、

 「悪くないものだな、子敬――親友に最期を看取ってもらうというのも」

 と小さくいった。

 「――馬鹿」

 魯粛は、強く、さらに強く周瑜の手を握り締めた。

周瑜はわずかに微笑んだように見えたが、間もなく昏睡した。

 二日後、周瑜公瑾は魯粛に見守られる中、眠るように息を引き取った。

 享年三十六。若すぎる死である。

 江東の空に輝いた乱世の巨星が、堕ちた。

 魯粛が柩に付き添って、周瑜が生前心血をそそいで水軍の訓練を行っていた巴丘を離れ、呉に帰った。

 孫権が周瑜の死を知ったとき、


 喪服を着けて哀哭し、その悲しみの様子は左右に侍る者たちの心を打った。


 と「三国志・周瑜伝」は記している。

 魯粛は、大声で泣く主君の姿を見て、心が虚しくなっていった。

 (孫権も、劉備に劣らず芝居上手じゃないか)

 先月魯粛は孫権に、

 「公瑾(周瑜)に、死を与えよ」

 と命じられたからである。

 江東の人口は減少の一途をたどっていた。中原が曹操の統治のおかげで平和になり、黄巾の乱で戦を避けてやってきた人民が、中原に帰郷しはじめたからである。

 人口の減少は、兵の数に比例する。

 孫権軍の兵も、気付いた時にはすでに少なくなっていた。移民の取締りを急ぎ行ったが、効果が出ない。取り締まる役人の数からして少なすぎたのだ。

 結局は、孫権に残されたのは江東の豪族たちとそこに住む地元民だけだった。

 「もう、戦はたくさんだ。江東が守れればそれでよいではないか」

 孫権の臣下一同は、口々にそう訴えるようになった。

 「公瑾は、戦に取り憑かれております。『春秋』にもあるとおり、戦は火のようなもので、自らの身を焼くこともあると申します。

 主公、どうか公瑾を召し返し、兵権を奪われますよう」

 老臣張昭は、懇々と会議の席で孫権を説いた。

 「周瑜は矜持が高く、おめおめと長年握ってきた兵権を返上するとは思えません。いっそのことひそかに誅した方が、後に災いを残しません」

 「そうだ!周瑜が事前にこのことを知り、曹操か劉備に兵を連れて降ったら一大事です。彼が気付く前に刺客を送り、始末しましょう」

 赤壁の戦いで主戦派だった武将たちの方が、周瑜を排斥することに積極的だった。一度大きな勝利を得てしまうと、誰しもがその勝利の余韻を失いたくなくなる。それでなくても、周瑜の武勲は巨大すぎて、孫権以下誰も彼の「益州攻略」に現実をもって反対する者がいなかったのである。

 「刺客はいけない!討逆将軍(孫策)が、刺客に命を奪われたことを、卿らは覚えておられないのか?

 そのような愚挙に出れば、主公の品格が世間に問われる。公瑾は、江東の英雄だということを忘れてはなりません」

 魯粛が、身を乗り出して反対した。しかし、魯粛は周瑜を排斥するだけ――は叶わないから、孫権に死を賜ることが避けられないことも承知している。

 「公瑾は、私が殺します」

 孫権は、魯粛の言葉に耳を疑った。

 「殺す?卿は、公瑾の親友ではないか。なぜ、そのようなことをいう」

 「彼を思うからこそ、殺すのです」

 魯粛は孫権に向かって、

 「いけませんか?」

 と訊き返した。主君に裏切られ、親友にまで裏切られたと知ったら、周瑜は自刎して果てるだろう。親友として、それだけはさせてはならない――。

 しばし静寂の時が流れた。孫権は椅子に座りなおし、

 「よかろう。毒をもって公瑾を殺せ・・・・・・くれぐれも、苦痛のないようにな」

 と魯粛に命じた。

 魯粛は、無言で頭を下げた。張昭をはじめ、甘寧、呂蒙、韓当、周泰といった歴戦の古強者たちも、慄然とした様子で魯粛を見守っていた。

 

 魯粛は周瑜お抱えの料理人に因果を説き、江東きっての名医に毒の配合を綿密に指示した。両名が周瑜にいる巴丘に向かったときには、すでに周瑜は持病の神経症で病の床についていた。

 (なぜ、皆おれについてこない?赤壁のときのように、炎が立つごとく闘志をもって敵に当たろうとしない?)

 周瑜は、人一倍時代の空気を感じることに敏感な男だ。自分が呉の軍団から孤立していることに憤慨し、悲嘆は病魔となって周瑜を蝕んだ。

 だから、ある日周瑜の料理人と医者が派遣されて来たのを知ったとき、

 ――嗚呼、死を賜った。

 と周瑜は瞬時に理解した。「誰がこのような計らいを」との問いに、料理人は「それは、子敬さま(魯粛)たってのご希望です」と正直に答えた。

 ――子敬、君もか・・・・・・。

 周瑜は、絶望とともに自らの命脈が絶たれたことを知る。

 しかし、魯粛が自分を殺すのは、彼の周瑜に対する愛に他ならないことも、周瑜は理解していた。

 ――是非もなし。

 周瑜は、すすんで料理人の食事に箸をつけ、医者の養生に従い薬も食後欠かさず服飲した。苦痛はさり、穏やかな脱力がゆっくりと身体を包んだ。

 (おれは、するべきことをすべて為した。子敬がその誤りをすべてまっとうしてくれる。もつべきものは、友だ)

 周瑜の心から、憤りと悲しみが去り、親友への感謝だけが残った。

 周瑜の柩を守って呉に帰った魯粛は、まず孫権が泣き止むのを待って、周瑜からの書状を手渡した。

 おそらく遺言状だと推測されるが、内容によっては孫権に焼却されるだろう。ひとまず自宅に帰ろうとした魯粛に、孫権の近習が「周瑜の遺言状」を渡した。

 「子敬さまにお渡しするようにとの、主公のご意向です」

 「私が、頂いて構わないのか?」

 「はい。それから――主公は、子敬さまもこの書状の通りこれから努めるように、との仰せです」

 失礼いたします、と退がろうとする近習に「待ってくれ」と魯粛は、思わず声を上げる。

 「主公は、この書状をお読みになって、どのようなご様子だった」

 「涙を・・・・・・ただ涙をお流しになり、何度も頷いておられました」

 魯粛は深夜帰宅して、書斎で書状を開いた。見慣れた周瑜の、流麗な文字が痛々しかった。


 「私は凡才の身でありながら、そのむかし兄君の孫策さまから殊遇を受けてこのかた、全幅の信頼を賜り、ついに兵馬の統率する栄光ある任務を担ってまいりました。

 人生はかならず死が待っており、長短は天命です。まことに残念ながら、我が志が実現に至らず、もはや将軍(孫権)のご命令を奉持できなくなったことです。

 こうしてみると、今後天下の決着がどうつくか予測がつきません。いまこそ、臣下は寝食を忘れて立ち向かうべき時です。将軍におかれましても熟慮を必要とするときであります。

 魯粛は忠烈な人物であり、なにごとにも慎重でありますゆえに、どうか臣亡きあとは、いっさい魯粛におまかせください。むかしから『人の死せんとするや、その言うこと善し』と申します。幸いに私の進言が、将軍の採用するところとなれば、私も安んじて死ぬことができます」


 魯粛は、その場に崩れ落ち、慟哭した。

 周郎、周瑜公瑾の死は、江東の人民までも悲しみに暮れさせた。

 彼の葬儀はさながら「国葬」の体を保っており、弔問客は夜になっても引きもきらぬ状態であった。

 ひときわ人々の心をうったのは、孫権の同盟者である劉備の弔問使・諸葛亮孔明が詠んだ祭文であろう。


 嗚呼、公瑾、君道半ばにして逝きたもう。

 命数天にありとて、誰がこれを悼まざらん。

 我が心、実に痛みここに酒をそそぐ。

君、霊あらば、我が供物を享けよ。

 君が大才を偲ぶに、文武に卓越し、火攻めもて敵を破り、

 強きをくつがえして弱者となさしむ。

 君がありし日を想わば、雄姿、英発なりき。

 君が早逝を哭し、地に伏し血涙、流る。

 忠義の心、英才の気。

 命は三紀に終えるとも、名は百世に垂る。

 君を悲しむの情、切にして愁腸、千々に結ばる。

 ただ我が肝胆に、悲しみの途絶えるなし。

 天暗く、三軍、主のために号泣し、友のために波のごとく涙す。

 亮や不才にして、計を乞い謀を求むるに、呉を助け曹を拒み、

 漢を輔け、劉を安んじたもう。

 嗚呼公瑾、生死、永に別る。

 その貞を朴守し、冥々滅々たり、霊魂あらば、我が心をよみせよ。

 此れより天下に、更に知音なし。

 嗚呼痛ましきかな。

 伏して慮るに、願わくは我が供物を饗けよ。


弔辞を詠み終えるや、孔明は地に伏して号泣し、涙は湧き出る泉のごとく止むことがなかった。

 東呉の文武百官は、その様子を見て皆感動した。

 「周瑜は最後まで劉備を嫌っていたが、孔明とだけは仲がよかったのかな」

 「うむ。あの悲しがりようは尋常ではないね。やはり公瑾と孔明の仲が悪い、というのはただの噂だったようだ」

 供物と祭文を納めた孔明は、泣き腫らした目で葬儀の場を後にした。

 外には、魯粛が待っていた。

 孔明は会釈をし、また泣きはじめる。魯粛が孔明の背中をさすり、二人は船着場に向かって歩き始めた。

 「子敬(魯粛)さまの分まで、泣きました」

 孔明が、声を震わせていう。

 「ありがとう。公瑾も喜ぶよ、きっと」

 魯粛は、星空を見上げてそういった。

 (これでよかったのだな?公瑾よ)

 今は、魯粛の問いかけに答える親友は、いない。

 「公瑾どのは、すべて知っておられたのですね」

 孔明が、魯粛に訊く。

 「そうだね。あの男は、すべてお見通しだった。

曹操と劉備のことも、私と君のことも。

自分の武勲が巨大すぎて、東呉から誅されることも」

魯粛の言葉を継いで、孔明はいう。

「そして――子敬さまが公瑾どのに死をすすめることも」

「もちろんだ。私が公瑾を看取らずして、誰が公瑾を看取る」

魯粛が、孔明に微笑みを返した。

船着場には、趙雲が待っていた。三年前と同じ光景が再現される――ただそこに周瑜がいないことを除けば。

「子龍(趙雲)、君は孔明の理解者だ。これから色々と困難があると思うが、どうか孔明を助けてやってくれたまえ」

「はい。子敬さまも、この度のことは・・・・・・お察しいたします」

趙雲が、含みのある言葉を魯粛にかける。

「関羽と張飛だね。あれはよくない――君たちにとっても、劉備にとっても」

魯粛は、趙雲の「お察しいたします」という言葉の真意が、権力をもちすぎた功臣の粛清にあるということを理解していた。

だから劉備陣営における関羽と張飛の名をあげたのだ。関羽と張飛は、曹操の軍師程昱が「一人で兵一万に匹敵する」と評した猛将だが、今は一騎当千の武将が活躍する時代ではない。

現実的な政治戦略を軍師が立案し、効率的に領土を拡大統治する。

つまり、主君の言うことしか聞かない武将は、いくら名将であろうが組織の存続に不適合なのである。

「関羽と張飛は――いずれ殺します」

孔明が、さっきとは別人のような硬い表情で魯粛に告げる。魯粛も、孔明の言葉には驚かない。孔明は、魯粛と同じことをしようとしているだけなのだから・・・・・・。

「孫権でも苦しんだのだ。劉備には、あの二人を殺せないだろう」

「子敬さまのなさることを見て心が震えました。そして悟ったのです――軍師とはときに主君にとっても非情にならなければならないということを」

魯粛は、また孔明が成長したことを実感した。

孔明は、自分で関羽と張飛を誅すると宣言したのである。

周瑜の葬儀場には、まだ彼の死を悼む人々の列が続いている。

魯粛は、去ってゆく孔明と趙雲の船が見えなくなるまで、そこに佇んでいた。


命は三紀に終えるとも、名は百世に垂る。


孔明は、祭文の中で「周瑜は伝説になった」といってくれた。

伝説の終わり。日々の始まり。

美しき周郎亡き世で、魯粛は生きていかなければならない。

魯粛は「伝説終焉の地」――周瑜の葬儀へ、日々の猥雑さを踏みしめつつ歩いてゆくのだった。



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