Episode 5
家族と思い出や絆を深め合い、友人とは友情を、恋人とは愛情を育み合う。そんな平和な日常の裏には、常に誰かの不幸が存在している。幸福な者と不幸な者、両者に直接的な関係がなくとも、間接的に全てが影響し合い、生物の社会は成り立っている。皮肉な事にどちらか一方に偏る人間も世の中にはいるだろう。それが幸福なら、自分の運命に感謝するのかもしれない。だが不幸なら、その者は自分の運の悪さを恨み続けるか、或いはどんな方法であれ、不運からの脱却を目指すのかもしれない。
NY、様々な廃棄物が散乱した路地裏に男の荒い呼吸音が響いている。二十代後半に見える男は褐色の錆びが目立つ、雨風に曝され続けたのであろう非常階段の踊り場で尻餅をついていた。彼の眼前では漆黒の塊、サプレッサーを装着した一挺の拳銃が佇んでいる。その無機質で冷たい銃口は確りと男の頭部を捉えていた。
「な、なぁ...?何でも話すから、こんな物...早くどか」
声を震わせ、必死の形相で命乞いをする男の言葉は小さな風切り音と同時にあっさりと途切れる。下に目を向けると男は踊り場で仰向けに倒れ、生気の宿らない眼で虚空を見詰めていた。噎せる程ではないにせよ、微かに漂う鮮血の鉄臭さにターゲットを射殺した謎の男は顔を顰める。
「あ......あの......。」
手に持つ拳銃、H&K USPのサプレッサーから立ち上る白い煙に仕事の終わりを感じた男は背後に近付く弱々しい気配に溜め息を零す。
「気に病む必要はない。失敗は誰にでもある。」
「ハング...にも?」
「昔はな。」
隣に並んだ銀髪の少女、シズクから黒色のアタッシュケースを受け取った男、ハングは丁寧に拳銃を中に仕舞う。用も終え、もはやこの場に留まる必要はない。しかし未だ何者かが身を潜めているかのようなむず痒い感覚が治まらなかったハングは再び周囲に目を凝らし、ある箇所に違和感を覚える。二人が立っている非常階段の更に上、その踊り場に人の形をした半透明の膜が、ハングとシズクを見下ろすように静止しているのだ。一般人が目撃してしまえば心霊現象、又はただの恐怖体験でしかない。だが二人はこの不可思議な現象に見覚えがあった。
「アデラ、か?いや...アデラだな。」
何やら確信を持った言い回しで最初に口を開いたのはハングだった。彼の反応に答えるかの如く、膜はゆらゆらと揺れ動き、軈て半透明だった物体が徐々に人の色を取り戻していく。最終的に姿を現したのは青紫の鹿撃ち帽を被り、左目にモノクルをかけた風変わりな少女、アデラと呼ばれた彼女はドッキリに成功した子供のように悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「見つかってしまいました。腕を上げたようですね、ハングさん。」
「アデラお姉ちゃんっ!?」
「本気の認識阻害ではなかったろう。見破れて当然だ。余り揶揄うな。」
当たり強めなハングの態度に肩を竦め、視線を二人の後ろ、男の亡骸へ移したアデラは数瞬で笑みを消し去る。死体の前で巫山戯るのは不謹慎、そういった常識を重んじて沈黙を選んでいるのではないと二人も理解していた。彼女に一般的な常識、倫理観を求めてはいけない。人を死に至らしめたハングとはまた違う意味で生きる世界が異なる人物、それがアデラという少女なのだから。
「魔術を用いた一般人への暴行、殺害は幾つかの例外を除いて厳禁。教わりませんでしたか?」
「勘違いするな、これは銃殺だ。」
アデラとハング────現代に生きる魔術師とアメリカ随一の殺人代行業者。琥珀色と黒色の双眸が敵意を含み交差する。
魔術、アニメやドラマ、映画の中にフィクションとして登場する神秘の力。魔法や魔術を行使する為には大気中、又は術者の体内に魔力というエネルギーが必要となり、術を発動する度にその魔力が消費される。内に蓄えられる魔力の上限も血統で異なり、優劣が決する。これが現在、世界で架空の産物として扱われている魔法と魔術の基本的な設定だ。そして実際の所、原理に多少の差異はあれど現世に魔術は存在している。世界人口の大多数は認知していないが、魔術は確かに過去から現在へと、時代に適応しながら受け継がれていたのだ。
「ふふ...冗談です。私、こう見えても穏健派なので。ハングさんが魔術をどう利用しようと、罪には問いません。」
「相変わらず、お巫山戯がすぎる娘だな。」
事実、今回の殺人で魔術は一切行使されていない。神秘の力とて万能ではない。おいそれと発動していてはハングの身が持たないのである。物騒な挨拶が一段落し、殺人現場とは思えない軽快な足取りで階段を下りてくるアデラ、もはや亡骸に対して興味は失せたようだった。
「場所を変えるぞ。」
「う、うん...。」
「ええ、喜んで。」
去り際、ハングは自ら手に掛けた男へ一瞥をくれる。その行為に特別これと言った深い感情が介在している訳ではない。ハングにとってはビジネスの一環でしかない有り触れた光景だ。しかし、あの男の死に様を、その死に顔を自分の番が訪れるその時まで、彼は決して忘れないだろう。
「ハング、行こ?」
「ああ。」
殺人代行業者、その名の通り依頼者の代わりにターゲットを暗殺、殺害する裏の稼業である。インターネットの深層より更に下降した地点、主にダークウェブで流れている仕事を請け負い、実力を示せば政府側の人間に雇われる事もある。共通点のある職種で言えば傭兵が該当するが、業務内容やイデオロギーを考えると二つは近いようで遠い、ある意味で対極の位置にある職業だと言える。ハングという男はアメリカを活動の拠点としている代行業者の中では最大の実力者だ。異名は刑死者、本人が死を望んでいるといった噂からの安直な名付けである。若干の皮肉が効いている。そんなハングだったが、四年前の海外遠征中、ある歪んだ少女と出会った事によって、彼の中で何かが変わっていった。
「ハングっ!聞いてる!?ねぇってば!」
「あぁ...悪い、考え事をしていた。」
路地裏を去った後、三人は近くの大衆向けカフェで飲み物を購入、オープンテラスで近況報告をしていた。当然ながら魔術や代行業に関する話は三人とも口にしていない。誰が何を聞いているか分からない公共の場で裏の会話をするのは愚者の道、日陰で生きる者達にとって個人情報は命にも勝る。
「約束の時間、三分も過ぎちゃってるの!」
「何...?」
シズクに言われ、腕時計を確認したハングが目を見開く。今日の殺人とは別件の依頼主との顔合わせ、その予定時刻を完全に失念していた。失態だ、そう吐き捨て木製のチェアから立ち上がった彼は呑気に飲食を楽しむアデラを無視してテラスを離れようと動き出す。
「私も同行します。」
ハングの足が止まる。紙ナプキンで上品に唇を拭いているアデラに対してどういう風の吹き回しか、と怪訝な眼差しを向けつつも時間に余裕がないハングは渋々と条件付きの同行を許可した。
「......勝手な真似はしない、それだけ守れ。」
タイムズスクエアの近く、上部の看板にコーヒーカップのイラストが描かれているカフェ、Black Flashの前でハングとシズク、アデラが無言で立ち尽くしている。
「本当に此処か。」
「う、うん...本当に...このお店だよ...?」
三人の言葉、表情から読み取れるのは僅かな怒りと大きな呆れ。それもその筈だ、何の細工も施されていない個人店を密談の場に選ぶ殺し屋が何処にいる。ハングの場合、顔合わせ場所の指定は依頼人側に委ねているが、その誰もが裏に精通している人物であった為、現在に至るまでこのような予期せぬ事態に陥った経験がなかった。
「仕方がない、入るぞ。」
黙っていても意味はない。場所の変更は依頼主に打診すれば、まだ間に合う。意思を固めたハングが店の扉を開く。中に入り、最初に三人が注目したのは客の少なさだった。奥の席に座る金髪の男と入口側に戻ってくる白髪のマスターらしき人物以外、誰一人としてこの空間に客の姿はない。だからといって裏の話をするのに適しているかと聞かれれば、ハングやアデラはノーと答えるだろう。
「いらっしゃいませ。三名様ですね?」
「ああ、この店で待ち合わせをしているんだが...あそこの男と相席をお願いしたい。」
白髪のマスターは一度首を傾げた後、ハングの視線を追って金髪の男を見遣る。金髪の男、依頼主は手を挙げてマスターに了承の合図を送った。確認が取れ、妙に納得した様子のマスターがごゆっくりどうぞと労りの言葉を口にする。
「ハングさん。念の為、人除けの魔術を発動しました。最低でも三時間は維持出来ますので、ご安心を。」
「そうか、感謝する。これで余計な交渉をしなくて済む。」
気付かぬ間に発動してくれていたアデラの人除け魔術により、最低限の密談条件は整った。建物全体に効果を及ぼすアデラの人除け魔術は絶対。魔力上限が高い者程、その効果を自由自在に操る事が可能なのである。三人は依頼主の元へ足を進め、彼とは反対側の席に腰を下ろす。
「済まないが、先に飲み物を注文しても?」
「ああ、飲み物か。そうか、飲み物か。いや別に構わないとも、好きに頼んでくれたまえ。私は払わないがな。」
ハングを鋭く睨み、貧乏揺すりを繰り返す依頼主。苛立っているのが丸分かりだ。突如、怒号と唾が飛んできても不思議ではない。非難を覚悟していたハングだが、思いの外、依頼主は良識を弁えているらしかった。注文を終え、飲み物が届くその時まで彼は声を荒らげる事さえせず、また一言も文句を口にする事はなかった。
「十分の遅れ、君のような仕事人は時間を厳守すると聞いていたのだがな。」
「......言い訳はしない、前の仕事が立て込んだ。気分を害したのなら謝ろう。」
「む......あ、あのっ...あれはあたしが失敗したから...。」
「お前の失敗も含め、全てが保護者である俺の責任だ。」
重い空気の中、真っ先に話を切り出した依頼主によって順調に、しかし、どこかぎこちない密談が進行していく。途中、自己紹介の際にアデラが打ち合わせもなく偽名を使用したり、無駄に依頼主を挑発したりと些細なトラブルは連発していたが、致命的な問題が引き起こされる事態には発展しなかった。
「話は分かった。注文通り、政府の犬は何とかしよう。」
政府による依頼主の謀殺。数日前に確認した書面通りなら、これからハングとシズクは国家を相手取っての大立ち回りをする事となる。殺人代行業者として数多の修羅場を潜り抜けているハングだが、政府を敵に回した体験などあろう筈がない。並みの業者であれば相当な額を積まない限り、依頼を蹴る選択すら視野に入れるだろう。それでもハングは今回の依頼を受けている。理由は単純だ。そこに彼個人の願望を叶えるに足る死地があるから、である。
「何とかする、か。具体的には?」
「それは...悪いが、信用してくれとしか言えない。」
政府に命を狙われる程の大きな秘密を握る依頼主、アメリカ合衆国を代表する二大組織の一つであるCIAのエージェントが差し向けられるのはまず確実だろう。諜報活動に重点を置いている組織とはいえ、所属する者の力量は歴戦の殺人代行業者に比肩するレベル。真正面からの戦い、特に格闘術では恐らくハングに分が悪い。かと言って派手な銃撃戦を仕掛ける訳にもいかない。
依頼主からの要望は飽くまで秘密裏、つまり暗殺だが、一番の問題は計画の実行場所だった。二百もの軍人が勤務する陸軍の秘密基地でハングは誰にも気付かれず、多数の間者を始末しなければならない。死体が発見されたら、CIAに存在を勘付かれれば、全てが水の泡と化す。だからこそ─────。
「魔術を使う、ですよね?」
「はっ、魔術だと...?馬鹿馬鹿しい、気でも触れたか。」
「本当の事ですよ。」
「おい...あまり調子に乗るな、ロキ。」
その瞬間、空気が凍った。ハングから放たれる濃密な殺気に辺り一帯の重力が一段と増す。アデラの軽率な発言が、彼の逆鱗に触れてしまっていた。同行を許可した過去の自分を恨めしく思いながら、ハングは威圧をより鋭利なものへと変化させていく。その猛々しさは依頼主にハングの実力を充分に理解させ、恐怖させた。もはや制止を促すシズクの声は届いていない。
「一度、冷静になった方がよろしいのでは?お店側にも迷惑がかかりますし、ジョンさんもあなたが何に対して腹を立てているのか、分かっていないようです。」
アデラの指摘により、ハングの視線が必死に呼吸を整えている依頼主のジョンに向けられる。途端、舌打ちと共に停滞していた鋭い殺気が霧散した。
「ジョン・マッカー、貴方に知っておいてもらいたい事がある。俺が使う...魔術について、だ。」