Episode 1
あの日に気が付けていたら───?
あの時間、一緒にいれたら───?
あの場所に早く辿り着けていれば───?
────嗚呼、きっと何も変わらない。
世界の広さすら知ろうとせず、与えられた日常をのうのうと生きていた無知の行動に多少の違いが出たところで運命の歯車に異常は生じない。
全てを知っていたら、なんて問答は更に愚かである。たとえ相応の対価を支払おうとも、一度決まってしまった結末を覆すのは簡単な事ではないのだ。
「君、だれ...?」
「私は......誰、なんだろうね。」
茜色の夕焼けに照らされる開けた草原、中心には淋しげに佇む一本の大木。その下で少年と少女は邂逅を果たす。物憂げな表情を浮かべる白髪の少女は壊れ物でも触れるかのように少年の片手を両手で優しく包み込むと、不意に大粒の涙を流し始めた。
「えっと...大丈夫?どこか痛いの?」
「うんっ...いたいの...とても、とても...。」
北太平洋から東側に進んだ場所にある大陸、アメリカ合衆国。その国内に存在する、とある小さな町の平和な昼下がり。森の中で根岸色の軍服を着た男が青空を苦々しい表情で睨み付けながら仕事をしている。雲一つない澄み渡った空に浮かぶ太陽は市民の住む町を和やかな空気で満たしてくれているが、そんな長閑さに彼は苛立ちを覚えているようだった。彼の者の名はジェリアス・ワグナー。町の近くにある森林地帯、そこを深く進んだ地点に陸軍基地が存在している。詰まる所、彼はその基地に所属する軍人である。現在の階級は少尉であり、普段は小隊の指揮権を有する者として、自身の役割を卒なく全うしている。見た目は黒髪に茶色の瞳、若干の無精髭と至って平凡。彼自身、数年後には四十代後半に差し掛かる年齢ではあるが、常日頃から行っている過酷なトレーニングのお陰か、運動能力に関して全くもって問題はない。そんな勤勉とも言える彼は今、非常に機嫌が悪い。原因は今回の任務にあった。
「毎日毎日、近辺の安全調査と表して偵察...偵察......偵察.........。一体、上は何を考えてるんだか。」
朝方に降った雨、その影響で泥濘んでいる地面を嫌そうに踏み締めながら、ジェリアスは口を開く。今日、彼に与えられた任務は自然豊かな森の中の偵察だった。ぞんざいな言い方をすれば湿度が高く害虫の多い森林を歩き回り、代わり映えしない景色を眺める無意味な時間。
自ら望んで軍人になった以上、如何なる任務をもやり遂げる覚悟はある。その証拠に十七歳で軍人となってからの二十五年間、ジェリアスは忠実に任務を遂行して実績を積み重ねてきた。しかし、半年もの間に同じ内容の任務が何度も続いている現状は不可解と言う他ない。
「あはは...気持ちは分かります。でも、今は従うしかないと思いますよ。勿論、ずっとこの状態は困りますが...。」
そう言葉を返すのは小柄で大人しそうな雰囲気の青年。ジェリアスの隣を歩く彼の名前はジェイムス・フィム。気性の荒い者が多い軍内部では珍しい誠実な人物で知り合いからはムードメーカーと呼ばれている。一応はジェリアスの小隊の一員だが、影の薄さからか生来の天然振りからか、仲間内で揶揄われる事が多い。その彼を含め、現在は基地に異動となった軍人の大半が上層部の方針に不満を募らせていた。
「......引き返そう。どうせ、何もないさ。」
これ以上、名ばかりに等しい偵察に貴重な時間を浪費する気はない。任務の放棄を独断で決定したジェリアスは溜め息を吐き、来た道を戻り始める。無論、命令違反は承知の上だ。
生真面目なジェイムスは最初こそ躊躇う素振りを見せたものの、最終的には少尉の気持ちを汲み取る形で自身を納得させ、遠くなったジェリアスの後ろ姿を急いで追った。
再び歩幅を合わせ、草木生い茂る緑一色の森を抜けて行く二人。基地まではかなりの距離がある為、小休憩を挟みつつ移動せざるを得ない状況が続く。体力に自信のあるジェリアスは兎も角、入隊試験で基礎運動能力が一番低かったとされるジェイムスには充分に過酷な道。それ故にジェイムスが根を上げるのは必然であった。
「ご...ごめんなさい...少尉、脚が...もう...。」
「いや、気にしなくていいよ。少し休もう。」
近くの木に凭れかかり、ジェイムスはゆっくりと乱れた息を整える。部下に対するジェリアスの穏和な対応は上官として褒められたものではないが、その在り方は一概に間違っているとも言い切れない。今の時代、特に軍事に関わる仕事はただ厳しいだけでは若い芽が育たない。飴と鞭を巧みに使い分ける事こそ、近代に於ける隠れたスパルタであり、能力を伸ばす最大の秘訣と言えるだろう。ジェリアス少尉の場合、直属の部下に対してのみ甘々で糖分に偏りすぎている節はあるが、恐らく本人は気付いていない。
「あの......一つ、聞きたい事があるんです。少尉は何故、軍人に?」
小休憩に入って数分が経ち、ある程度呼吸が整ってきた様子のジェイムスは懐から取り出した煙草に火を点けようとしていたジェリアスへ向けて質問を投げた。
「ん?あぁ...別に大層な理由はないよ。単に強くなりたかったから、俺は軍人になった。」
数ある職業の中から軍人を選んだのは何故か、本人が言った通りジェリアスに特別な理由はない。強いて言うなら、理不尽な環境で育った事への反抗。そもそも過去の記憶自体が曖昧で軍人を目指す切っ掛けが何かあったのだとしても、思い出せない時点できっとそれは重要な事ではないと言える。そう脳内で自己完結したジェリアスはジェイムスに対して同じ意図の質問を返した。
「ジェイムスこそ、どうなんだ?」
「僕はお恥ずかしいですが、ちちう...父に勧められて軍人に。自分の意思ではないんです...。」
人差し指で頬を掻き、ジェイムスは苦々しく笑う。彼の表情から読み取れるのは自分で職を定められなかった事に対する恥じらいか、又は身近な者への劣等感。心中を察したジェリアスはそれ以上会話を続ける事はせず、ただ静かにジェイムスの体力回復を待った。
敷地面積五百平米を無駄なく利用した鉄筋コンクリート構造の堅牢な建物の隣には木々を伐採して作った簡素な訓練場。更に建物と訓練場を囲む三メートルの塀とその正面には横に引くタイプの重厚な門が一つ、警備兵が二人立っている。
「ふぁ〜、あの二人遅せぇなあ。」
肩から真っ黒な外見の軍用小銃M16を提げ、気だるそうに欠伸をする茶髪の男。全体的にやる気の感じられない緩みきった印象を受けるこの男はジェリアスが最も信頼を置く仲間の一人である。ジェリアスとは同期であり、幼馴染の間柄でもあり、心の友でもある。因みにかなりのシスコンだ。しかしてこの男、実力は本物。軍内ではある女性兵士を除けば、まず間違いなくトップレベルの身体能力を有している。ジェリアス曰く才能の塊、ある女性兵士曰くその才能を無駄にする事に長けた天才。まさに馬鹿と天才は紙一重という言葉が似合う男だろう。
「へっくしょん!......誰か俺の噂してんな。」
鼻を擦り、彼が再び欠伸をしようとした直後、基地内から放送設備用スピーカーの音が鳴り響き、男性の声で一人の名前と階級が読み上げられる。
『アウェット・コネリー軍曹、ジョン指揮官がお呼びです。至急、至急二階司令室まで向かって下さい。またシスコンが呼ばれてるよ...。何したんだあいつ...。』
「何か最後聞こえたけど!?」
毎度の事ながら、基地の全フロアに響き渡るであろう大音量の放送を使って自分のような下っ端を呼び出す必要性はあるのだろうか、とコネリーは眉を顰め顎に手を添える。至急という言葉を強調する辺り、今回はそれなりに大事な用があるのは確実なのだが、どうにも釈然としない。何はともあれ、考えるより先に行動である。上司に呼ばれたのだから、彼に行かないという選択肢はない。
「......悪い、行ってくる。後は任せた。」
ジェリアスの親友、コネリーはもう一人の警備兵に後の仕事を任せると足早に基地内へと向かっていく。そしてそれはジェリアスとジェイムスが任務から帰還する三十分前の出来事だった。
「ふぅ、やっと着いたか。」
鬱蒼とした森の中を歩き続けて一時間弱、ジェリアスら二人はやっとの思いで基地の前に到着した。肩を上下させ辛そうに息をするジェイムスの額からは汗が滝のように零れ落ちている。最初の小休憩以降、一度も弱音を吐かなかったのだから無理もない。やはり真面目すぎるのも考えものだな、とジェリアスは苦笑する。
後は基地内に入り、任務完了の旨を司令室にいる上官に伝えるのみ。本来ならば部下同行のもと、任務中の互いの行動を委細漏らさず報告するのだが、疲労困憊で今にも倒れてしまいそうな部下を連れ回すほどジェリアスは厳格に徹する気はない。
唯でさえこの陸軍基地は他所とは異なる特殊な組織形態をしているのだ。今更、規律を守れだのと口煩く注意してくる輩もいないだろう。ジェイムスは休ませる、これは既にジェリアスにとって決定事項だった。
警備兵に話しかけ、門を通り基地の敷地内に入った二人は建物の中へと足を進める。近くの訓練場からは複数人の大声が響いてきていた。基礎訓練の一環か、若しくは暇を持て余した士官らによる新たな特訓の可能性もある。何にせよ巻き込まれたくない、それが二人の本音だ。外界との接触を絶っているこの場所で生み出された特訓方法など、碌でもないものに違いない。実体験のある二人だからこそ、訓練場で行われている鬼畜の所業を確信していた。
「そう言えば、門の前にコネリーがいませんでしたけど...何かあったんでしょうか?」
「さあ?まぁ、あいつの事だからまた何処かでサボってるんじゃないか。」
「普通に有り得そうなのが怖いです。」
今に至っては二人に散々な評価を受けているコネリーであるが、異動したての頃は規律を重んじる職務に忠実な男だった。それでいて自身の価値観を他人に押し付けるような事もしない。新兵には見習いたい背中と言われ、もちろん上官からも一目置かれていた。そんな彼を変質させた要因、言わずもがな上層部の方針である。本来規律を正すべき上役が根本から機能しておらず、任務と呼ぶのかすら怪しい命令に従うだけの日々。外との接触は禁じられ、情報を得る事すら規制されている。コネリーが上に盾突くのも時間の問題だった。
「全く...とんだ無法地帯だよ此処は。」
ジェリアスの吐き捨てたその言葉にジェイムスは心の中で同意する。この基地に留まり半年、後何ヶ月経てば外に出られるのか。一ヶ月後か一年後か、最悪の場合、倉庫の消耗品が完全に尽きた時かもしれない。ジェイムスの場合は家に帰ろうと出迎えてくれる心優しい家族はいないのだが。
閑話休題、建物の入口に辿り着いた二人はガラス張りの扉を開けて内部に足を踏み入れる。白を基調とした床や壁、左右に別れている長い廊下の合間にはそれぞれ等間隔にネームプレートの付いた扉が並んでいる。廊下の一番奥には二階へ続く階段があり、ジェリアスが目指す司令室は二階の中央付近。
建物内の設備は意外にも充実している。敷地の広さや軍備より中の方に資金を投入したのが丸分かりなほどだ。小さな高級ホテルですと嘘を吐いても一般人なら疑う者はいないだろう。軍事施設には過ぎたる快適さ、加えて政府公認。何故この基地だけ優遇されているのか疑問は深まる一方だ。
「おっと、報告は俺一人で行くからジェイムスは休んでいてくれ。それじゃ、お疲れさま。」
「え、あ...ありがとうございますっ。お疲れ様でした。」
ジェリアスは左、ジェイムスは右側の廊下へと歩き出す。今日はシャワーを浴びた後に禁止されていた寝酒を解禁するか、ジェリアスがそんな事を考えていた矢先、前方からこちら側に真っ直ぐ向かってくる一つの影が視界に入り、彼は立ち止まる。首の辺りで切り揃えた桃色の艶やかな髪を揺らしながら、ジェリアスの目の前で停止したのは理知的な顔立ちの若い女性兵士だった。
「...帰ってたんだ。任務お疲れさま、ジェリアス。」
「あぁ、どうも。ショット。」
「そ、そうだっ...家においでよ!」
突然、俺の手を取って泣き出してしまった白い女の子。その姿が今にも消えてしまいそうなほど小さくて反射的に手を差し伸べた。
「傷の手当なら父さんに習ったからさ!」
でも女の子は俺の提案に頷く事をしなかった。行かない理由を聞いても、ただ首を横に振るだけ。とても辛そうだ、見ていられない。だから俺は女の子の望みを聞いて、叶えてあげる事にした。その顔を少しでも明るくしてほしくて。
「こんなので...いいの?」
初めての抱擁。抱きしめて抱きしめ返されて、感じたことのない温もりに俺の方が癒されていたのを微かに覚えている。
「君...名前、なんていうの?」
「────......それが、一番大切な私の名前。」
遠い記憶の中で俺を見詰める君の顔も、名前も、匂いも、今となっては最初からそこにいなかったかのように全てが思い出せないんだ。