「特別」は存在しない
「ウィトゲンシュタインについて考えた事」という文章で触れた事だが、私にとっては大切な事なので、ここでその部分だけ取り上げて考えてみたい。
私が言いたいのは「特別」というものは存在しない、という事だ。もちろん、ここでは物理的に存在しないと言っているわけではないから、私がどういう文脈で「存在しない」と言っているかが問題となるだろう。
資本主義社会はいろいろな所に「特別」を拵える。その差異を、金銭によって購買できると信じさせたいがためだ。世界はこのような差異に満ちている。「特別」はあまりにも満ちあふれている。
勝ち組と負け組は違う、というように「特別」はつくられる。特別な人間とそうではない人間、天才と凡人の違いのように「特別」はつくられる。一千万円の車と百万円の車は違う、というように「特別」はつくられる。
こうした様々な差異は我々が概念によって作り出したものに過ぎない。しかし、人々はこう言いたいのではないか? 「そうは言っても、一千万の車と百万の車は違う。ほら、部品の質がこんなに違う。アクセルを踏み込んだ感じも違うし、乗り心地も違う。何もかも違うじゃないか…」
人々は哲学などは時代遅れの産物のようにみなしている癖に、未だに主体と客体の二元論を克服していない。私の文章を読む人が、私がそれは「観念に過ぎない」と言うと、その反証として、物質的な差異を持ち出してくるだろう、と私は予測した。私の言っているのが観念論だと考える人は、唯物論の方で反証してくるだろうからだ。
しかし、私はそういう事を言いたいわけではない。「特別」は我々の観念的差異として現れると言った。私がそこで注意したいのは、二つのものの間に絶対的に越えられない線を見る、という思考法だ。
人はそういう事を言いたがる。「プロとアマチュアは全然違う。話にならない」…など。しかし通常、プロはアマチュアから上がってくる。「プロになるアマチュア」という動的な概念は、「プロとアマチュアは全然違う」という差異を簡単に乗り越えてくる。そこでは「全然違う」という論理は通用しない。だから、本当は人々は自分の言っている事をもっと疑わなければならないし、考えなければならない。
哲学者よりも、一般の人間の方が、言葉の概念に囚われている。彼らは驚くほど、概念というものに囚われている。
以前から疑問だったが、どうして多くの人はこんなに当たり前のように「アイフォン」を買うのだろうか。私のまわりは全員、アイフォンを使っている。彼らがその機能やデザイン、製品の哲学に惚れ込んだというのならわかる。しかし私の見る限り、そんな風に真剣に製品を比較検討してアイフォンを買った人は一人もいない。
これらの人は「みんながアイフォンだから自分もアイフォン」という考えでアイフォンを使うのだろう。アイフォンを持たない事は人々の基本的水準から脱落すると感じるからこそ、アイフォンを使うのだろう。それを彼らは「当たり前」と考える。
「スマートフォンといえばアイフォン」という思考方法は、当然だが、「アイフォン以外のスマートフォン」と「アイフォン」との間に大きな溝を創り出す。仮に全スペックでアイフォンを上回り、価格では安い製品が市場に出たとしても、人はすぐに手を出したりはしないだろう。彼らは「アイフォン」というブランドから外れるのが怖いのだ。
アイフォンと、それ以外のスマートフォンとの間に差異を作る概念を、このエッセイのタイトルに従って今、「特別」と呼ぼう。アイフォンは、他のスマートフォンよりも「特別」だ。だからこそ、人々はそれを買うのだ、使うのだ、という風になっている。
こうした差異は、世界の至る所に見られる。我々の身近な所から、非常に遠い部分まで構成している。ただ、私は私にとって最も重大と思われる「特別」について言及する事にしよう。
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例えば、トルストイという作家は常に「新生」を目指した作家だった。トルストイはいつも、新しい生活、新しい自分、生まれ変わった素晴らしい何かを求めていた。そうして、その為にはいらない物は平気で脱ぎ捨て、新たな希望を手に入れる為ならがむしゃらな努力をした。
トルストイは天才であり、大作家だったが、晩年の彼は芸術すら否定する。そうして自分の財産も否定した。老人になった彼は家を出て、そのまま野垂れ死んでしまう。トルストイの望む希望はあまりにも巨大なものだった為に、人々が彼に与える様々な称号だけでは物足りなかったのだ。
ドストエフスキーはこれとは違い、新生という概念を退けていた。正確には、そういうものを彼も渇望していたが、それを概念の分割という形で解決するのをやめたのだ。彼は、新生は、自分達の手に届かないものだと諦めざるを得なかった。だが彼の「ホサナ(神を褒め称える言葉)」は現実という煉獄を経ている。ホサナの叫びは現実の内部から生まれ、現実の外部に向かう。だがーー宇宙の果ての果ての、その果てもまたやはり宇宙であるように、現実の外部とは何を意味するのか我々にはわからない。そこで彼のホサナは、最後の絶叫として、人間の手に届かないものに向けられた、祈りの如きものとなった。
トルストイはこの祈りを手中に収めようとする。だから、トルストイの方が論理的だと言う事もできる。しかし、論理は世界を区切り、世界を明確に理解しようとする。為に、常に論理からはみ出した部分がトルストイを攻撃せずにはおれなかった。トルストイは、絶対的な安住の境地を世界の内部に求めたが為に、ついに一度も安住する事ができなかった。文筆、家庭、芸術、倫理、宗教、政治。全てはトルストイの願望を満たせなかった。
「特別」という概念に戻るなら、トルストイは何よりも「特別」を望んだ人間だった。実際、人々はトルストイを特別な天才とみなしていた。程度の低い人なら、こんな称賛で満足できる。居丈高になれる。しかしトルストイはそのようなものでは満足しなかった。彼は本物の「特別」、つまり普通とは違う、現実とは違う何かを探し求めた。それが為に彼の人生は長い漂泊となった。
ドストエフスキーはこれとは違う答えを見出した。『罪と罰』のストーリーを振り返ればそれがよくわかる。
主人公ラスコーリニコフは、金貸しの老婆を殺して、自分と自分の家族を救おうとする。彼は貧乏に打ちひしがれていて、意地の悪い金持ちを殺して、貧しい自分達を救うのは悪ではないと感じた。そう考えて、彼は殺人を実行に移す。
だが、彼の完全な計画は彼を裏切る。これが推理小説だったら、計画は彼を裏切らなかったはずだ。彼はほとんど証拠を残していない。完全犯罪と言っていいほどの芸術的犯罪だ。だが、彼にはそれが完全犯罪である事が耐えられない。
ラスコーリニコフは殺人を犯す前、狭く暗い部屋でずっと考え事をしていた。あらゆる観念が彼を襲った。彼はそれにうんざりしていた。そうして、新しい一歩を踏み出そうとした。観念を、夢想を破る現実の第一歩を求めた。つまり「新生」である。老婆を殺して、新しく全てを始めようとした。ところが、何も始まらなかった。自分は依然として自分だった。そこにラスコーリニコフの深い絶望があった。
今でも、人は「新しく始める」「一歩前に進む」などと言いたがる。会社に入る、学校に入る、結婚する、あるいはネガティブな事、恋人と死別する、子供が事故で亡くなる。そういう大きな事柄があると、我々はそこから「新しく始める」などと言う。だが、全ては始まらない。なぜだろうか?
なぜなら、全てはもう始まっていたからである。既に始まっていた事に気づいておらず、「今ここから」始めようとするから、全てはもう始まっていた事に気づかないのだ。
ラスコーリニコフは、「今ここから」始めようとする。その為に最初の第一歩を踏み出す。ところが、何も始まらない。生活は一変して、自分(達)は生まれ変わるはずだったのに、何も変わらなかった。彼が望んでいたのは、ただ自分達が経済的に裕福になる事だけではない。あるいは彼の無意識が囁いているように、彼に、犯罪者としての絶対的な悔恨、つまり良心の痛みというものが感じられたなら、彼はそれはそれで喜んだであろう。つまり、それは何らかの形での強烈な運命の決定だからだ。
ところが、何一つ始まらなかった。ラスコーリニコフは強烈な良心の痛みも感じる事はできず、また、奪った宝石で新しい生活を始める事はできない。彼は狭い部屋で夢見ていた彼のままだ。ここに彼の苦痛があった。
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ラスコーリニコフが、いくら自分の夢を破っても現実に到達できなかったように、我々も決して、我々が望むような現実には到達できない。「特別」は存在しない。
「宝くじさえ当たったら」「あの人さえ振り向いてくれたら」「年収が一千万を越えたら」 様々な考えはできる。だが、その一線を作り出しているのは自分自身であり、既に人生は始まっているという事に人は気づかない。
ドストエフスキーは「人が不幸なのは、自分が幸福だと知らないからだ」と言っている。
これは、目の前の一線を越えて新生活が始まるのではなく、既に生きている自分そのものが生活であると気づかない、そういう事を言っているのだろう。
トルストイは不断の精神力で、目の前の一線を作り続けたので、「線の手前」で死ぬ事になった。一方でドストエフスキーは、線そのものが幻影であり、人は幻影の中にしか生きられないと気づいたが為に、幻影を解き放った主人公を描き得た。
私が言いたい「特別は存在しない」とはそういう事である。人は頭の上に載せたメガネを探して世界中をうろつきまわる。幸か不幸か、そういう考えでも素晴らしいものは生まれる。ただ、そうした思考が最後の結論に到達する事は決してない。
私の言いたい「特別は存在しない」とは大体、そういう意味である。そしてまた、ここで挙げた「トルストイとドストエフスキーの違い」のような概念も、実際には、私が作り上げた「特別」にすぎない。「ドストエフスキーは特別で、トルストイは特別ではない」という観念的差異を私が作り上げたからだ。
だから、私がここで言っている事も突き詰めれば間違っているのだが、それでも、事象を説明する為には必要な例でもあったので、そういう言い方をした。正確には「特別は存在しない」という事柄は、「特別は存在しない」という観念の唯一性を至上のものとしているので、やはりここにも批判される余地がある。
ただ、ここらで私の言いたい事は伝わったのではないかと思う。
この社会は「特別」を瞬間ごとに作り上げていく。新型は旧型とは違い「特別」だ、というような観念を。そういう観念を追う人は勝ち組でもなければ負け組でもない。ただ自分の目の前にぶら下がっている幻の人参を追い続ける馬のような存在だ。彼らにはゴールはない。
そして目の前の人参が幻影だと気づいた人も、やはり他人と同じような認識形態(目の前に人参をぶら下げるというような)のまま生きざるを得ないので、要するに「悟り」を開いたとしても、それは余人にはどうしても語り難いのである。