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あの人直伝のリキュール

(さて、これはどうしたものだろう)


 そう思いながらジャジャ・イバラートは彼女を観察していた。

 初めのうちはそっと、相手が気づいていないとわかってからは、もう少しまじまじと。


 ここ最近、彼女は安定した負のオーラを身に纏っている。

 それは別によいのだが、気になるのは日に日に毒気が薄くなっていることだ。

 ジャジャの目から見ても、最近の彼女は迫力に欠ける。


 大体いつもなら、ジャジャにこんなふうに観察させたりなどしない。彼女は他人の視線に敏感で、背中にも目がついているのかと疑うくらい周囲のことがよく見えているからだ。


 その彼女が、ジャジャが凝視しているのにも気づかないようで、ため息をついている。

 その一点だけをとってみても、彼女の様子はおかしかった。

 そして宮廷の人間は、そうした空気を読むのが実に早い。


(この人の立場でこの状態は、なんというか……危ういのでは?)


 自分が口を出してもいいかどうか、しばらく悩んだ。

 彼女を手助けすることは、最愛のヘイゼルと敵対することとつながってしまう気がしたし。


(だけど……)


 今、自分が仕えているのは彼女である。

 正式に配置を命ぜられたわけではないが、暗黙のうちにそういうことになってしまっている。


 近衛騎士の身分と名誉にかけて、自分が仕えている相手が土砂崩れを起こすように変調をきたしているのを、見過ごしにして果たしてよいのか。


(よくはない……よくはないんだ)


 悩んだけれど、答えは出ない。

 ただ、このままではとてもよくないということだけは、わかる。


 夜が更けて、外は風が強くなってきていた。

 城壁にぶつかる風の音がこわいほどだ。


 アズマイラ男爵夫人が、ジャジャの目の前で、ぶるっとひとつ身震いをした。

 寒いからではない。部屋には赤々と火が焚かれている。春先とはいえ夜は冷えるのだ。


(この人が……眠れていないのも知っている)


 そして、代わりの侍女は、まだ来ない。


 ごうっ。ひときわ大きく風が通って、どこかの木戸を派手に鳴らした。

 静かな部屋にその音がやけに響いて、ジャジャは自分がファゴットの森に送り込まれた時のことを思い出さずにいられなかった。


 そう、彼があの森で暮らし始めたのも、確かこんな季節だった。

 春先の、まだ冬の気配が完全には去らない時期のことだ。初めての夜、あまりにも風が強いのと闇が濃いのとで眠れなかったのを覚えている。


(七歳になったばかりの頃だったな……)


 そこまで考えて、ジャジャは音もなくそこから出ていくと、ほどなく銀の盆を掲げ持ち戻ってきた。


「アズマイラ様」


 呼びかけると、肩がびくっとする。

 無言で振り返るその人に、ジャジャは盆の上のものを差し出した。


「よろしければ、寝酒にどうぞ」

「……お酒なの、これ」

「リキュールです」


 アズマイラは細い眉を怪訝そうにひそめた。彼女がいつも飲み慣れている酒とは違い、そのリキュールは濃い黄色をしている。


「なにこの、甘ったるそうな色。そんな子どもが飲むようなものをわたくしが飲むと」

「ただの酒ではないですよ」


 どういうこと……。小さく呟いて、だが彼女はグラスに手を伸ばした。

 ちょっと匂いを嗅いで、ひとくち口にする。


「なにこれ、苦い……」

「ですから、ただの酒ではないですと」

「まずい」

「でもよく眠れますよ。僕も眠れましたから」


 アズマイラは顔をしかめていたが、黙ってグラスの中の液体を余さず飲み干した。

 そして後片付けのために侍女を呼ぼうとするのを、ジャジャは片手でおしとどめた。


「──なんで」

「片付けなら僕がします」


 今の彼女にとっては、侍女たちを呼びつける、ただそれだけのことが負担になるだろうと思った。


「だから呼ばなくていいです」


 は? というように首が傾げられる。


「お前が洗いものですって」

「そうですが」

「わけわからない」


 いつもの、宮廷の人々を上手に魅了する甘くかすれた声ではなかった。

 地を這うような声でそう言われた。


「馬鹿じゃないの」


 言っている意味がわからなかったのでジャジャが黙っていると、続けて言われた。


「近衛の男はそんなことしないわよ」

(──はて?)


 自分にとっては使ったものを片付けることくらい当たり前だが、確かに身分のある男たちはそうしたことを普通はしない。そして、近衛に入る男たちというのはたいていが身分ある家柄の子弟だ。


「近衛だけじゃない、普通の男だってしないわよ。女の使ったグラスを洗うだなんてこと」

「おやそうですか、でも僕はするんですよ」

「だから、馬鹿だって」

「そうですかね」

「ほんとばか」


 罵り文句が単調であることから、ジャジャはリキュールが効いてきたのだなと判断する。

 まばたきがゆっくりになり、無意識に握りしめられていた指先から力が抜けている。

 どうやら眠れそうだと判断して、ランプの灯をいくつか消した。


 そうしていると、背後でごそごそと気配がした。アズマイラがベッドにもぐりこんだのだ。


 他にもいくつか、侍女がやり残した仕事をし終えてからジャジャがそばへ寄ってみると、既に彼女は小さな寝息を立てていた。


「──あの」


 小さく声をかけてみる。寝顔は動かない。

 ジャジャはさらに言葉をつづけた。聞こえていないことは承知の上だ。


「僕を育ててくれた人によると、不安とは、受け身の時になるものなんだそうですよ。もっともあなたは、自分が不安だなんて死んでも認めたりしないんでしょうけど」


 返事はない。小さな寝息が規則正しく聞こえてくるだけだ。


 その寝顔を見下ろしながら、ジャジャは考える。

 もしかしたらこの人は、誰かに面倒を見てもらうこと自体はじめてなのかもしれない、と。


 なにか、後戻りできない道に一歩踏み込んでしまった気もした。

 だが、目の下にクマを作って眠っている姿を見下ろして、いやいや自分はいいことをしたのだと言い聞かせる。


 繊細な彫刻が施された真鍮のドアノブをそっと回して部屋を出ると、ジャジャはからになった器を下げに厨房へと向かった。

 城の厨房は一階の端にあって、後宮からは少し距離がある。

 夜中だったが、厨房には数人の女たちが立ち働いていた。


「すみません、グラスを洗わせてもらってもいいですか」

「ああ、いいよいいよ、こっちでやるからね」


 ジャジャが声をかけると、厨房の女たちは明るく対応してくれた。

 森で暮らしていた頃は台所仕事も日常茶飯事だったし、自分で洗うのも苦にならないのだが、ここは礼を言って彼女たちに任せることにする。


 普通、こんな遅い時間に頼み事をするのはひどく嫌がられるもので、だからこそ、気の利く侍女を持つことが宮廷での暮らしやすさにつながるのだが、ジャジャは女たちからよく好かれた。

 それはファゴットの森で暮らしていた時も同じで、毎週日曜日の市場に必要なものを買いに行くのがジャジャの仕事のひとつだったが、そこでも、彼のまわりには近隣の村娘たちがぞろぞろ集まってきた。


(多分、それは、憧れるのに僕が都合よかったせいなんだろうけどな……)


 女性が思う理想の騎士を演じるのがジャジャは得意だった。

 それとなく見守り、生々しい部分は見せず、必要な時にはそばにいて細やかに気遣う。

 好意は見せるが決して一線は超えてこようとしない、見た目のよい男という立ち位置。


(──そりゃそうだろ)


 騎士としての仮面をかぶるのが得意になるのも当然だった。

 七歳で初めてヘイゼルに会って恋してからこの前の冬に別れるまで、ずっとその役割に自分を押し込めてきたのだから。


 そんな彼は城で働く女たちにも当然のように好かれた。

 さすがに彼女たちはそれなりの落ち着きとたしなみがあって、村娘たちのようにきゃあきゃあと気持ちを前面に押し出してはこないけれど、自分が憎からず思われている気配はもちろんわかる。


 女たちに礼を言ってジャジャは厨房を後にする。

 後宮までの長い廊下にはひとけがなかった。


 ジャジャはそこを歩きながら、七歳の頃のことを思い出していた。

 初めてのファゴットの森、初めての真っ暗闇、眠れぬ夜、そしてその暗闇を照らすような明るい黄色のリキュールのことを。


(いや、あれはリキュールじゃなくてハーブティだっけ。あの家に酒は基本なかった……)


 それは各種ハーブがてんこ盛りに煮出された、お世辞にも美味しいとは言えないお茶だった。


◇◇◇


「これ、滅茶苦茶まずい……」


 思わずそう口にしたジャジャを、ガーヤが大きな目でぎょろりと睨んだ。

 女官長まで勤めあげた女の眼力には相応の圧力があって、ジャジャは思わず首をすくめる。


「味はまずいかもしれないが、中味は王家の人たちが飲んでいるのと同じだよ。なんなら、こっちのほうがちっとばかし上等かもしれない」


 ふうん、とジャジャは思って、そのやたら濃い味のお茶をちびちび飲む。

 蜂蜜が入っていてほのかに甘かったが、甘さが苦みをかき消すどころか、混ざり合って絶妙にまずい、そんな味だった。


 ジャジャは上流貴族の子弟として育ったため、そんなまずいものを飲むのも生まれて初めてなら、ふちの欠けた器を手にすることも初めてだった。

 かろうじて飲み終えると、カップを受け取ってくれながらガーヤが言う。


「よくおやすみ。寝れば悩みごとも消えるってもんさ」


 けっ、なにを子供騙しな。

 思ったが、またにらまれるのが目に見えていたので言わずにおいた。

 するとガーヤはジャジャの内心を読んだようにちょっと笑った。


「物語とは違って、現実ってのはそういうふうにできてるもんだよ。あんたが今頭ン中でぐるぐる考えてるより、意外とシンプルにね」


 んなわけあるかいと思ったが、黙っていた。


 くそまずいハーブティの後味が、いつ口の中から消えたのかジャジャは覚えていない。

 その夜は風の強さを気にする暇もなく、ぐっすり眠った。起きたのはすっかり日が登った頃だ。

 窓の外ではしきりと小鳥が鳴いており、そこにヘイゼルの声も混じっている。


「朝ごはんは私が持っていくの! だってまだちゃんとご挨拶もしてないのよ?」

「まだまだ、寝かせておくんですよ。新しい場所に来たばかりで、あの子だって疲れてるんです」

「わかってるけど!」

「姫さまは、同じ年ごろの子が来て嬉しくて仕方ないだけでしょう」

「それはそうだけどー」

「いきなり距離を詰めると、嫌われますよ」


 平和そのもののやりとりを聞いていたら、なぜだろう、涙がこぼれた。

 こみあげてきたのは、納得できないという気持ちだ。


(──わからなすぎて、吐き気がする)


 なぜ、自分はここに送られなければならなかったのか?

 両親には愛されていると思っていたが、違ったのか?


「わかってるけど、早くお話してみたいんだものー」

「今は我慢でございますよ、姫さま」

「仲良くなりたいのよう」

「はいはい」


 乳母に甘える屈託のない王女の声には、他意などひとかけらもなかった。

 自分が歓迎されていることが否応なしに伝わってくる。


 だが、ここは棄てられた王女が暮らす森ではなかったか?

 国境の砂漠にも近く危険も多い場所に王女を住まわせるというのはあまりにも露骨な排斥であり、そこに送り込まれる自分もまた、捨てられたのだ。なにかから。

 七歳のジャジャにもそれくらいわかる。


(これは……なにかの罰なのかな?)


 疑問は浮かび始めると次々に浮かんでくる。


「ねえもう起こしに行ってもいいー?」

「まだまだですとも、姫さま」

「起きてるかどうか覗いてみるだけ!」

「だめですよ」


 外からは、素直に自分を待っている声が聞こえてくる。

 となれば、やることはひとつだ。

 ジャジャは涙を拭いてベッドから出た。なんでもないような顔を作る。


「おはようございます!」


 そう言って、部屋から出ていった。


「あんたが悩むのももっともだ」


 それから数日後のことだ。ジャジャが思っていることを告げるとガーヤは静かにそう言った。


「わからないことは、知りたいよね」


 話すつもりはなかったのだが、ガーヤが思いのほか聞き出し上手だったのと、まっすぐ目を見てこう言われたのだ。


 ──これから一緒に暮らすんだ。あたしにも聞く権利はあると思うけど、どうかい?


 子ども扱いではなく仲間として扱ってもらった気がして、口がゆるんだ。

 それで、聞かれるままにポツリポツリと話したのだ。


 七歳の誕生日を迎えた日、突然、ファゴットの森で第五王女に仕えるように父から言われたこと。

 戸惑ったけれど、名誉なことだと強く言われ、断れる雰囲気では既になかったこと。

 その日から兄姉たちの態度がよそよそしくなったこと。母がずっと泣いていたこと。

 自分がなにか悪いことをしたのかと思ったが、心当たりはなにもないこと。

 これがどういうことなのか自分にもまったくわからないことなどを。


「なるほど、なるほどね」


 ガーヤはお世辞にも美人とは言えない顔でしばらく考えていたが、ややしてから言ったのだった。


「それじゃこういうのはどうだい。あんたは定期的に王宮で学ぶんだ」

「えっ……というと」

「姫さまに仕える男の子がひとり必要なのは事実だ。だけどね、形ばかりの近衛じゃ困るんだよ」


 最初はなにを言われているかわからなかったが、ガーヤはそうだ、それがいいと言ってすらすらと王宮に手紙を書くと、月に一度、ジャジャが王宮で剣と作法の稽古を受ける約束をあっという間に取り付けてしまった。


「いいかい、よく聞きなよ」


 初めて森から王宮へ『稽古のために』向かう時、ガーヤはジャジャに念を押した。

 おそらく王宮では、ヘイゼルさまのことをあれこれ聞かれるであろうこと。

 それについては隠したりせず、見たまま思ったままを言っていいこと。

 ご両親に嫌われていることはないので堂々とご挨拶すればよいこと。


「でね、ここが大事だ」


 ガーヤが顔を寄せてくると、言うに言えない圧がある。

 ジャジャはひるみそうになるのをぐっと我慢した。


「王宮で見えたものがあっても、あそこでは口にしないこと」

「……えっと?」

「わからなくてもいい。思ったことや感じたことは、帰ってきてからあたしに全部言えばいいさ」


 にこっと笑って送り出され、とりあえずジャジャは言われたとおりにした。


 王宮ではガーヤが予告したようにヘイゼルのことをあれこれ聞かれ、素直に返事をしたところ、やけに手厚く遇されて気持ちが悪いほどだった。


 父もたいそう機嫌がよかったが、何度か近衛の修練場に顔を出すうち、ジャジャにも様々な噂が自然と耳に入ってくる。

 ジャジャの父は「うまくやった」と思われていること。

 ジャジャの森行きは、政治のコマとして父が決めたということ。

 王女と似たような年頃の息子と引き換えに、彼はライバルに少しだけ先んじることができたのだということなどが。


 え? と彼は思う。


(──たった、それだけのため?)


 その噂が真実であるとわかるようになった頃には、王陛下の人となりもまた、少しずつだが見えてきていた。


(主君としてはあてにならない)


 というのがジャジャの率直な意見であり、それにはガーヤも文句なしに同意してくれた。

 城の権力争いから距離のある立場だから見えた部分もあったのかもしれないが、どんなに尽くしても、尽くしたほどには報いてくれる王ではないとジャジャは思う。


「そうなんだよね、先代は懐の深い方だったんだけどねえ、今の人はちょっとねえ」


 先代の王に女官長として勤めたガーヤは、ジャジャの細かい疑問になんでも答えてくれた。それこそ、貴族たちの力関係からジャジャですら知らないような近衛騎士の細かな派閥にいたるまで。


 そして、毎月王宮で目にする貴族たちの出世争いの熾烈さについても目にするうち、ガーヤの言葉がしみじみと胸に迫ってくる。


(誰も彼も……必死なんだ。安全に人を蹴落とすために。だから自分の思いは王宮で口にするなと言われたんだ)


 だが必死になって積み上げた地位も、王の気持ちひとつで儚く崩れるさまを見聞きするうち、ジャジャはこう考えるようになった。


 ──仕える人間はよく選ばないと、人生を棒に振る。


 そして、どんなに努力しても今の王のもとでは、無駄なのだと。


◇◇◇


(だからある意味──あの男爵夫人はおそろしいほどよくやってるんだよなあ)


 厨房からの帰り道、長く暗い廊下を自室へと歩きながらジャジャは思った。


 誰のことも頼らない。味方はいない。王の気質を知らないわけでもない。

 それなのにあれだけ気丈に振る舞えるというのは、ある意味あっぱれだ。


『不安ってのはね、受け身の時になるもんさ』


 かつてガーヤは少年だったジャジャにこう言った。

 その言葉は実感を伴って今でも胸に残っている。


『あんたが元気になってくれて、あたしも嬉しいよ。薪割りもやってもらいたいし、水汲みだってあるしね!』


 ガーヤはかかかと笑い飛ばしたが、ジャジャが元気になったことを心から喜んでくれた。

 まるで本当の家族みたいに。


(──でも、今の彼女が元気になって喜ぶ人は、誰もいない)


◇◇◇


 翌朝のこと。

 アズマイラ男爵夫人はお昼近くになってから侍女を呼び、朝食の支度を申しつけた。


 その頃にはジャジャは稽古場でひと汗流した後だったので、男爵夫人の部屋に侍って彼女の様子を観察していたのだが、ジャジャの目から見ても侍女たちの動きはやけに緩慢だった。


 この時代、身分の高い女性は身支度に時間と手間がかかるためベッドで朝食をとるのが普通だが、足つきの朝食トレイが彼女の前に差し出されたのを見ると、スープには湯気が立っておらず、卵料理の内容も昨日と同じものだ。

 そして主人である彼女もそれを特に咎めない。


(うーん……)


 文句も言わずにそれを食べ始めるアズマイラをジャジャは黙って眺めていた。


 彼女が好むのは、紙のように薄く焼いたチーズ味のパンだ。手のひらサイズのそれを一枚に、とろりとした季節の野菜のスープ、さらに卵料理と果物がつく。


 まだまだ気迫に欠ける彼女を見ながらジャジャは思った。

 この人は少し、日に当たった方がいいよなと。


 彼女に限ったことではないが、身分の高い人というのは誰も彼もが不健康だ。


 そもそもまず、朝が遅い。昼近くなってきてからようやく起きて、朝食、身支度、午前中に届いてた手紙を読み、それに返事を書いたりする。そして来客に会ったりしていたらあっという間に夕方だ。

 そこからまた着替え、化粧も変えて夜会へ向かう。


 陽の光を浴びることも体を動かすこともない。

 食べる量は少なくて酒の量は多い。


 そんな生活を何年も続けていたら、そりゃあ情緒だって安定しないし体調だって悪くなるだろうと思うのだが。


(眠れなくなるのも、無理はない)


 だがそんなことをまともに言ったところで聞きやしないこともわかっていたので、ジャジャは彼女が朝食を済ませた頃合いを見計らって、こう言ってみた。


「僕の稽古を一度見に来てくださいませんか」

「はっ?」


 思った通り、彼女は眉をひそめる。


「なんのために」


 ジャジャはにこっと笑ってみせた。あんたのその顔は武器になるねえとガーヤに判じられた渾身の笑顔だ。


「あなたを守る人間がどれほどの腕なのか、ご自分で確認しなくてよいのですか?」


 お前の腕前は前に一度見た……とアズマイラはぶつぶつ言っていたが、やがて、着替えるから出て行けと部屋から追い出された。


 僕は先に稽古場に行っているので、アズマイラ様が支度を終えられたらご案内してくれるようにと侍女に言伝て、ジャジャが屋外の稽古場で待っていると、ほどなくして、昼用のドレスに着替えたアズマイラが顔を出した。


 侍女は連れずにひとりきりだ。

 だがむしろ、そちらの方が都合がよかった。


(ひとりのほうがいい)


 空は黒みを帯びた雲に覆われて空気は冷え、昼間だというのにあたりはどんよりと薄暗かったが、だからというべきか、アズマイラ男爵夫人は鮮烈な印象を与えた。


 花が咲いたような寵姫の登場に、今までだらだらと稽古をしていた男たちは静かに反応する。

 椅子を持ってきてすすめるジャジャを、アズマイラは強くにらんだ。


「言いたいことがあったら言ったらどう」

「えっ、なにをですか」


 素でわからなかったので問い返すと、彼女は小声で、このドレスよとつぶやく。


「似合わないとか思ってるんでしょう、どうせ」

「まったく思ってませんけど」

「だとしたらお前のセンスはどうかしてる」


 褒めても褒めなくても文句を言われるのにもだいぶ慣れたので、ジャジャはなにも言わずに今日のドレスを見直してみた。

 ぱっと目を引くレモンイエローのドレスは、確かに一歩間違えるとかわいらしくなりすぎる代物だったが、そこはさすがというべきか、金糸の刺繍と体の線を活かすデザインとで絶妙に自分に似合わせていた。


「わたくしだってねえ」


 彼女は小声でぶつくさ言っている。

 その指先が細かく震えているのは、寒さのせいというよりも黒い丸薬を切らしているせいだ。


「自分に似合う色だけ着ていたほうが楽なの。でも社交界ではそうもいかないのよ。春には春らしい色を着なくては」


 いつも同じ色ばかり着ているとか、変わり映えしないとか、暗い色と派手な色しか似合わないとか、そういうくだらない陰口を誰にも叩かせないようにしなくちゃならないのだとぶつぶつ言う彼女に、ジャジャは軽く頭を下げた。


「よくお似合いだと僕は思います」


 ふん、というのが彼女の返事だった。彼は続ける。


「そこで見ていて下されば結構です。いてくれるだけで、彼らの士気が違いますから」

「なによそれ」


 彼女は言ったが、素人目にも、男たちの稽古に熱が入ったことは明らかだったし、彼女がそれを理解したことも伝わってきた。

 椅子に腰かけた背筋がすっと伸び、指先の震えは止まり、「人に見られるための顔つき」になったからだ。


 灰色の雲が少しだけ途切れてその隙間から日が差し込み、彼女の顔を明るく照らす。

 まぶしさに目を細めながら彼女は言った。


「まったく男って、単純で、どうしようもないんだから」

「そうですね」

「お前も男でしょ!」

「あ、僕も含まれてるんですね、すみません」


 ジャジャが言うのに、アズマイラはなにか言い返したさそうだったがぐっとこらえた。

 代わりに声を落としてこう言う。


「お前もあれに参加するんでしょう」

「まあ、そうですね」

「いいこと、負けたら許さないわ」

「……ただの稽古なのですが?」

「こういう時の返事ははい以外ないでしょ!」


 おや、少しだけ元気が戻ってきたようだと思いながら、ジャジャは仲間たちのなかに混ざってゆく。

 少しでも日に当たり外の空気を吸って、あわよくば近衛の男たちにちやほやなどされれば上々だと思っていたが、どうやら多少なりと効果があったようだ。


(効果があるなら、なんだっていい)


 ジャジャは身支度を整えながら、近衛の仲間たちにそれとなく根回しする。

 かなり本気の稽古がしたいこと。手加減はなしにしてほしいこと。その上で自分が勝つところを彼女が見たがっていることなどを。


 男たちは大乗り気で協力してくれ、結果、かなり熱の入った稽古になった。

 途中、アズマイラ男爵夫人が何度か椅子から立ち上がりかけるほどの。


 その日の夜もジャジャはもちろんあのリキュールを持っていったのだが、彼女は文句を言わずにそれを受け取った。

 次の夜も、また次の夜も。

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