不安になったらなりっぱなし
最近、なんだか、調子が悪い……気がする。
最近、なにかと、うまくいかない……気がする。
アズマイラ・ドルパンティス男爵夫人は眉間に深いしわをよせた。
はあー。
ため息をつきながら、中途半端に伸びた爪でサイドテーブルをこつこつ叩く。
風がやけに強い春先のことだった。
昼間は晴れていても朝晩は驚くほど寒く、城の女官たちが頭痛に悩む季節である。
「はあー」
ため息をまたひとつ。
最近どうにも寝つきが悪くて、寝ついたと思っても風の音で起きてしまうので、苛立たしさが余計につのる。
こつこつ、こつこつ。
爪先がテーブルを叩くのにも、部屋付きの侍女は振り向こうとしない。聞こえていないのか、聞こえないふりをしているのか。
(確かめるのも、うっとうしい……)
彼女はまたひとつ、大きなため息をついた。
以前なら、彼女がため息なぞ漏らそうものなら、控えていた侍女たちの間にはぴりっとした緊張が走ったものだったが、今、ひとりだけいる侍女はこちらに背を向けて調度品にはたきをかけている。
苛立ちの種は他にもあった。
(あの薬も手に入らないし……)
ついこの間までは、彼女が強く言えばいくらでも薬を出してきたものだった。
黒くて小粒の、気分がよくなる丸薬のことだ。
それが、ある時侍女が手ぶらで帰ってきて、言いにくそうにこう告げた。
「典薬寮のかたが言うには……その、原料が近頃手に入らないため、薬を作ることができないのだそうで……」
「は?」
「あの、それで、お分けできませんと……」
そんなわけあるものか。
その時のことを思い出すと、彼女は今も感情がぐらぐら煮え立つ思いがする。
(あれは代々、王家の女たちの情緒を安定させるために欠かせなかったもの……金さえ出せば貴族でなくても手に入るというのに……)
ギリッ、と形のよい唇をかみしめる。
あれがこの王宮で手に入らないなど、あるはずがない。
黒い丸薬はとある植物から作るのだが、典薬寮が地方に畑を確保していることもアズマイラは知っている。
──要するに、アズマイラは、足元を見られたのだ。
(むかつく……)
むかつくことはまだあった。
ここ数年彼女に夢中だったこの国の王が、最近、彼女を呼ばないのだ。
(侍女が口をつぐんだところで、知ってるわ……)
最近社交界にデビューしたばかりの若い娘にご執心で、自分の寝室にも頻繁に招き入れているとか、いないとか。
(別に、新しいものにちょっと目移りしてるだけ……)
もとより誠意の深い王ではない。アズマイラに魅力がなくなれば、すぐさまほかの女に鞍替えするだろうことはわかりきっていた。
だが、王が心変わりするほど自分の魅力が落ちたとも思えなかった。
(ただのつまみ食い……そんな時だってある)
頭では理解していても、感情はまた別だ。
王が彼女を呼ばなくなったのに比例して、日々のご機嫌伺いの数も露骨に減った。
こつこつ、こつこつ。
爪がテーブルを叩く。
しきりにテーブルを叩くのは、あの薬が飲めなくなったせいで手が震えるのを隠すためでもある。
頭がいつも割れるように痛いのは、薬を切らしているせいか、眠れていないせいなのか。
(どっちだっていい……なんだか、すべてがうっとうしい)
「では、お掃除が終わりましたので、私はこれで」
静かな声で言って、侍女が下がっていく。
「代わりのものがすぐに参りますので」
そう言い残して出て行ったが、次の侍女はなかなか来ない。
「はあー」
アズマイラはまた、ため息をついた。
赤と紫の色ガラスでできた吊りランプが、しんとした室内を照らしている。
部屋の壁紙は赤みがかった黒色で、銅の花飾りが豪華に咲いている。黒みがかった色は己の肌を美しく見せるので寝具もそれで統一しているのだが、今はそうしたものが目に入るたび、気にさわって仕方なかった。
なかなか来ない侍女を催促して、爪の手入れをさせるのもなんだか煩わしい。
(あろうことか、このわたくしに、口ごたえをするし……)
そう、先日あまりにも遅れた侍女を叱責したところ、その侍女はなんとこう返してきたのだ。
「申し訳ございません、奥様。髪がうまくまとまらなかったものですから」
彼女たちは男爵家の侍女であり、王宮の女官とは根本的に立場が違う。
彼女のことを奥様と呼び、彼女に尽くすためにここにいるといっても過言ではない。それなのに。
「──下がりなさい」
結局、アズマイラは侍女を罰しなかった。
やさしさからではない。
なんだか、すべてが面倒くさかったからだ。
口ごたえをした侍女は顔を伏せたまま部屋を出て行った。お咎めがなかったことで、他の侍女たちが驚いた顔をしたのも目に入っていた。
そう、ほころびは目についている。
だが、そのほころびに対処するのが億劫で仕方ないのだ。
(やる気になれない……)
アズマイラはぐんにゃりとソファに横たわっていたが、突然、眉間のしわを深くした。
なにかを拒むように両目をきつくつむる。
(──あの、紫色の冠)
ここ最近、イラついている理由はもうひとつあった。
先日、火あぶりになりそうだった乳母を助けに来たこの国の第五王女のヘイゼルが──まあ、今の彼女を王女と呼んでいいかどうかは定かでないのだが──その時被っていた紫色の宝石の冠。
あれが、目の裏にちらつくのだ。
気を抜くと、呪いのように浮かんでくる。
あの時、乳母を貰い受ける代償だと言って火刑場にばらまかれた紫色の石が、アズマイラの手元にはまだひとつも届いていないことも気にかかる。
現在、流通している宝石の中では最も価値が高いとされているその紫の石はモルフォと呼ばれ、ダイヤ以上の稀少性なのである。
(加工に時間がかかるとかなんとか言っていたけれど……どうだか)
あの石は今どこにあるのか。もしや新しい女に渡しているのではないか。
悪いことばかりが頭をよぎってしまうのを、アズマイラは自分でもどうしようもない。
(競わなくても、ねだらなくても、あの冠が手に入るあの王女……)
そのことを考えると、心臓が変にざわつく。
こんな時あの黒い薬があるといいのだが、それもない。
侍女を呼んでもすぐには来ない。
(どいつもこいつも……使えないったら)
あの王女は乳母を助けに来た時、大勢の男女に囲まれていた。さぞかし、恋人にも身内にも友人にも恵まれているのだろうと想像する。
(──それに比べて)
その先は意図的に考えないようにする。
(いいえ、誰にも頼らないわ。初めから決めていたじゃない)
王は言うまでもなく、夫のドルパンティス男爵とも完全に利害関係のみで結ばれているため、弱みなど見せられる相手ではないのだった。夫が頼りになるのは金銭がらみ、しかも、彼本人に利がある時のみだ。
(そうなのよね。たまに忘れそうになるけれど、わたくしには夫がいるのだわ)
アズマイラ・ドルパンティス男爵夫人は苦笑した。
苦笑しながら、ふと、一体いつまでこんなことを続ければよいのかと思った。
心がどんよりと冷えて重くなり、けだるさが増していくのを、どうしようもない。
(──どうしたらいいの)
なにを、どこから手をつけたらよいかわからず、さらには弱音を吐くことすらもできなかった。そして、弱みを見せたら敵ばかりという世界を進んで作り上げたのが他ならぬ自分であることも、承知の上である。
(──ねえ、どうしたらいい)
眉間のしわと部屋の静けさばかりが深くなる。
そして、そんな彼女を扉のそばでじっと見つめる視線があることに、アズマイラ男爵夫人はついぞ気づかぬままだった。