泡沫の魔導師
球、玉、泡、しゃぼん玉。
始まりは終わり。
終わりは始まり。
全ては『真ん中』に座する〈存在〉の泡沫の夢。
真球はどこから見ても同じ形をしている。右から見ても、左から見ても、上から覗いても、下から仰いでも、そこには同じ丸み、同じ沈黙、同じ閉ざされた完全がある。では、その完全にはじまりはあるのだろうか。線の起点が見えぬものに、終点はあるのだろうか。
はじまりはどこ?
それは、とある魔導師の夢であった。あるいは夢に似た生であり、生に似た悪夢であった。
魔導師はひとりの女性と出逢った。彼女は美しい女だった。だが、その美しさは宝石や絵画のように人の目を奪うものではなかった。冬の朝、凍った窓硝子に息を吹きかけたとき、そこに一瞬だけ咲く白い花のような美しさだった。触れれば消え、見つめれば遠ざかり、けれど確かに胸の真ん中へ残るものだった。
彼はその女性を心から愛した。
はじまりの頃の燃えるような思いは途絶えることなく、むしろ日を追うごとに、薪をくべられた炉のように赤々と燃え上がっていった。魔導師は彼女を求め、彼女もまたその求めに応じ、魔導師を心から愛した。もともと身寄りのない同士であった。互いの寂しさを互いの体温で埋め合い、ひとつの椅子、ひとつの寝台、ひとつの灯火を分け合って、誰からも祝福されず、誰からも反対されず、ただ静かに幸せを育んでいった。
彼女はよく笑った。
魔導師が古い書物に眉を寄せていると、彼女はその額を指先でつつき、「また世界の終わりを読んでいるの?」とからかった。魔導師が「いや、始まりについてだ」と答えると、彼女はなおさらおかしそうに笑った。
「始まりなんて、ここでいいじゃない」
彼女はそう言って、自分の胸を指した。
魔導師は、その指先が示した場所に耳を当てた。とくん、とくん、とくん。そこには小さな鐘のような音があった。世界がまだ壊れていないことを知らせる、慎ましい祝福の鐘だった。
しかし、不幸はいつも扉を叩かない。
それはまるで稲妻のように、激しい衝撃と恐怖の雷鳴を轟かせながら、魔導師の心を射抜いた。
そのころ都市には流行り病が蔓延していた。誰かの咳が路地を渡り、誰かの熱が市場を閉ざし、誰かの死がまた次の家の戸口へ黒い印を残していく。祈祷師は香を焚き、医師は匙を投げ、役人は死者の数を帳面に書きつけるだけだった。その病は、はじめ微熱と倦怠で人を甘く眠らせる。次に喉を焼き、肺を濁らせ、皮膚に黒い斑点を咲かせる。最後には、身体の内側から灯りを吹き消すように、命を消す。
彼女が、その病魔に犯された。
日に日に彼女が衰弱していくのを見て、魔導師は嘆き悲しみ、こぼれる涙をどうしても抑えることができなかった。彼女の頬は酷く痩せ細り、腕や脚は枯れ木のようになり、肌にはこの病魔の象徴である黒い斑点が、夜の星図のように身体全体を覆いつくそうとしていた。
幸せだった夢は、突然として悪夢に変わってしまったのだ。
変わり果てていき、醜い化け物のような姿になっていく彼女を、魔導師は前と変わることなく――いや、前以上に慈しみ愛した。濡れた布で額を拭き、痩せた指を握り、唇が割れて血を滲ませれば水を含ませた。夜ごと彼女の寝台のそばに座り、ひとつ、またひとつと減っていく呼吸を数えた。
「そんな顔をしないで」
彼女は言った。
その声は、もう声というより、風が古い扉の隙間を通る音に近かった。
「私はまだ、ここにいるわ」
彼女は自分の胸を指した。
魔導師は、その指先を両手で包んだ。
けれど、もう鐘の音は弱かった。とくん、という音と音のあいだに、広い夜が入り込んでいた。
この悪魔の病気を治す薬も術もなかった。誰も死を迎えるほかない状況だった。奇跡など起こらない。それでも敬虔な魔導師は、週に一度の礼拝を欠かさなかった。彼女が病魔に侵されてからも、神に祈りを捧げた。聖堂の床へ膝をつき、額を伏せ、両手を組み、喉が裂けるほど祈った。
どうか彼女を救ってください。
どうか彼女だけは連れて行かないでください。
私の知識も、命も、魂も差し出します。
だから、彼女を。
しかし、祈りは届かない。
その日、魔導師は狂人となった。狂い叫び、嘆き、呻き、本棚を倒し、研究用の器具を叩き壊し、自宅に火をつけようとまでした。瓶が割れ、紙片が舞い、硝子の破片に月光が散った。床に散らばった書物のなかで、古い魔導書だけが静かに開き、彼を見上げていた。
――彼女が死んだのだ。
狂う魔導師の心を鎮めたのは、安らかな顔をして眠る彼女の姿だった。病魔に侵され苦しい身体に鞭を入れながら、彼女は最後まで魔導師に微笑を与え続けたのだ。死の直前、彼女は彼の手を握り、声にならぬ声で言った。
「泣かないで」
魔導師は泣いた。
彼女の望みを、最後まで叶えられなかった。
通常は土葬をされる遺体だが、この病気で死んだ者は焼かれ灰になる。病が土に残ることを恐れた都市の決まりであった。死してなお、炎によって身を焼かれ朽ち果てる彼女のことを思うと、魔導師は居ても立ってもいられなくなった。
炎。
灰。
消失。
跡形もない終わり。
彼女が泡のように消えてしまう。しゃぼん玉の薄い膜が、指先に触れた途端に弾けるように。幸せな日々も、声も、笑い方も、胸の鐘も、すべてが空気へ戻ってしまう。
その夜、魔導師の耳元で悪魔が囁いた。
幸せだったころならば、魔導師は悪魔に耳を貸すことなどなかっただろう。けれど、神は彼女を救ってくれなかった。祈りは石の天井に吸い込まれただけだった。聖堂の鐘は鳴ったが、彼女の胸の鐘は止まった。
だから、魔導師は悪魔に耳を貸した。
魂を売り払った。
あるいは、魂などもう残っていなかった。
梟が目を覚まし、夜風が身を凍らす。月光とランプを頼りに、外套に身を包んだ魔導師は墓場へ向かった。墓碑は黒く濡れ、十字は夜のなかで沈黙し、土は冷たかった。彼はシャベルで墓場を掘り起こし、遺体[ガラクタ]を掻き集めていった。
最近の流行病のせいか、土葬される遺体は少なかった。運の悪いことに、死して間もない身体は見つからず、魔導師は仕方なく朽ち果てている体の中から使える部位を集めていった。腕、脚、肋骨、脊椎、白く乾いた指。誰かの母であったもの。誰かの息子であったもの。誰かの恋人であったもの。名を失ったそれらは、彼の手の中でただの材料となった。
遺体[ガラクタ]。
部位。
人であったもの。
もう人ではないもの。
あのとき、彼女が死に、火葬される前に、魔導師は彼女の胸をナイフで切り裂き、心臓を取り出した。頭蓋骨を鋸で切断し、脳を取り出し、冷たい魔法薬の中へ保管した。保管していられる時間は限られている。早く手術に取り掛からねばならない。だから、新鮮な死体が手に入るまで待ってはいられなかった。
彼は自分に言い聞かせた。
これは冒涜ではない。
これは愛だ。
これは終わりを始まりへ戻す術だ。
ガラクタを集めて自宅の研究室に戻った魔導師は、さっそく材料が新鮮なうちに手術に取り掛かった。切断された部位を縫い合わせ、彼女の脳と心臓を埋め込み、皮膚を張り合わせ、魔導師は人の形を作り上げていく。
針が皮膚を貫く。糸が肉を結ぶ。硝子管の中で薬液が泡立つ。銀の器具がランプの光を受け、月の欠片のように白く光る。彼は一心不乱だった。もはや涙は出なかった。涙という水は、彼の中で枯れてしまった。代わりに、燃えるような熱だけがあった。
人の形をしてはいるものの、それはとても不気味で、おぞましく、見るに耐えないほど醜悪なものだった。継ぎ接ぎされた皮膚の色は所々違い、まだら模様になり、接合部分は粗い縫い目で繋がれ、美しかった彼女の面影はなにひとつない。彼女の頬の丸みも、笑うとわずかに下がる目尻も、髪を耳にかける仕草も、そこにはなかった。
だが、魔導師はそれでも満足だった。
彼女が黄泉帰り、自分にまた微笑みかけてくれることを信じて、魔導師は身体を作り上げていく。微笑みはあとから戻る。声もあとから戻る。胸の鐘が鳴り始めれば、きっとすべては戻る。そう信じなければ、彼はもう立っていられなかった。
外は激しい風と共に雷雨が吹き荒れていた。
窓を叩く雨粒は子悪魔が踊るリズム。
夜闇に走る稲光は空を駆け回る怨霊たち。
轟く雷鳴は悪魔の怒りか咆哮か、それとも歓喜の叫びか。
ひとりの魔導師は悪魔に魂を売り、禁忌を犯そうとしていた。呪いの鐘が鳴り響き、破滅の序曲で終わりが幕を開けた。
終わりを迎えるための始まり。
始まりへ戻るための終わり。
作業は一晩中続き、やがて嵐は過ぎ去っていた。雨も去り、強風も去り、代わりに恐怖を孕んだ静寂が訪れた。
手術台に横たわる変わり果てた彼女の姿。
継ぎ接ぎだらけの醜い躯から、チューブやプラグが伸びている。硝子瓶のなかで薬液が静かに揺れ、金属の管を通して、青白い光が脈打っていた。
こんな姿にさせることを、彼女が望んだだろうか?
その問いが、はじめて魔導師の胸に落ちた。
遅すぎる問いだった。
あまりにも遅すぎる、人間らしい問いだった。
魔導師は憑かれていた。
そして、疲れていた。
夜が明ける。東の地平線が黄金色に輝き、巨大な雲が不気味に縁取られていく。世界は何事もなかったかのように朝を迎えようとしていた。あれほどの嘆きも、祈りも、禁忌も、すべて知らぬ顔で。
魔導師の夜明け。
禁忌の夜明け。
悪夢の夜明け。
ブレーカーに魔導師の手が伸びた。
あとはこのブレーカーを下ろせばいい。
ただそれだけで、終わりは始まりへ裏返る。
今までせわしなく身体を動かし、疲れなど忘れていた魔導師に、迷いが生じた。ブレーカーを固く握ったまま、魔導師は動きを止めていた。
死は全ての者に平等に訪れる。
だが、彼女の死は早すぎたのではないか?
愛した者を取り戻したいと願うことは、それほど罪深いことなのか?
けれど、もし戻ってきたものが彼女でなかったなら。
もし彼女の名をした別の何かなら。
もし彼女が、もう一度苦しむだけなら。
再び外で強風が吹きはじめた。窓が風によって強く叩かれ、雨も降りはじめた。過ぎ去ったはずの嵐が戻ってきたのだ。いや、戻ってきたのではない。真球には始まりも終わりもない。嵐はずっとそこにあり、ただ彼が一瞬、見失っていただけなのだ。
魔導師の手は止まったままだった。
空に悪魔の怒りが奔り、雷鳴よりも早く、稲妻が魔導師の自宅に堕ちた。
部屋中が眩むほどに輝いた。実験器具と稲妻が共鳴し、轟音が頭を割った。硝子が砕け、薬液が飛び散り、銀線が蛇のようにのたうち回る。このとき、魔導師は電撃に弾かれ、ブレーカーから手を離してしまっていた。
手術台の上で横たわる異形の躯の指先が、ぴくりと動いた。
魔導師はそれを見てしまった。
歓喜した。
しかし、すぐに恐怖した。
目を開け、黄泉帰った彼女が上体を起こし、魔導師を見つめた。
死んだ魚のような濁った瞳だった。縫い合わされた顔は微笑むことなく、死んだままだった。唇は動かない。喉は声を知らない。胸の奥では、彼女の心臓が確かに動いている。とくん、とくん、とくん。あの懐かしい鐘に似た音がする。けれど、それは似ているだけだった。壊れた時計が偶然、正しい時刻を指しているような、虚ろな一致だった。
彼女は死んでいる。
脳にも心臓にも命が吹き込まれた筈だ。
それにも関わらず彼女が死んだままなのは、魂が死んでいるからだろう。
そこにいるのは彼女じゃない。
――怪物だ。
醜く恐ろしい怪物を創ってしまった。
怪物は魔導師を見ていた。責めるでもなく、求めるでもなく、憎むでもなく、ただ見ていた。その視線の底には何もなかった。空っぽの器。中身を失った泡。膜だけが残り、虹色の表面だけが薄く震えている。
だが、そのとき魔導師には見えなかった。
怪物の指が、ほんのわずかに胸を指していたことを。
彼女がかつて「始まりなんて、ここでいいじゃない」と言った、あの場所を指していたことを。
そこに何かが残っていたのか、それともただ死後の痙攣だったのか、それは誰にもわからない。神にも、悪魔にも、真ん中に座する〈存在〉にも、あるいはわからなかった。
魔導師は床に尻を付いて項垂れ、闇の中に意識を落とした。
思い出されるのは、彼女との幸せな思い出。
花咲く日々。
窓辺の椅子。
温かなスープ。
古い書物を覗き込む彼女の横顔。
胸の真ん中で鳴っていた、小さな鐘。
彼は笑った。
泣くことができなかったから、笑った。
笑いながら、研究室の梁へ縄をかけた。
結び目を作る手つきは、彼が彼女の躯を縫い合わせたときよりも、ずっと静かで、ずっと正確だった。
そして『男』は首を吊って死んだ。
魔導師ではなく。
恋人でもなく。
神に祈った者でもなく。
悪魔に魂を売った者でもなく。
ただひとりの『男』として。
怪物を遺して――。
朝が来た。
雨はやみ、雲の切れ間から白い光が差し込んだ。光は研究室の床に広がり、割れた硝子を照らし、倒れた椅子を照らし、ぶら下がる男の影を照らし、手術台の上に座る怪物を照らした。
怪物は動かなかった。
ただ、胸に手を当てていた。
とくん、とくん、とくん。
そこではまだ、盗まれた鐘が鳴っていた。
球、玉、泡、しゃぼん玉。
始まりは終わり。
終わりは始まり。
全ては『真ん中』に座する〈存在〉の泡沫の夢。
真球はどこから見ても同じ形。
ならば、この悲劇のはじまりはどこだったのだろう。
彼女が死んだ日か。
彼が祈りを捨てた夜か。
悪魔が囁いた瞬間か。
それとも、彼が彼女を愛した、その最初の朝だったのか。
はじまりはどこ?
怪物だけが、胸の真ん中で鳴る鐘を聞いていた。
答えのない問いが、泡のように浮かび、朝の光のなかで弾けた。




