3.不穏な足音
六月三日。午前十時。
結島はさいたま市にある病院に向かっていた。浦和駅からバスで病院に向かう。休日だが、人手が足らず、短い時間ではあるが出勤していた。
「おはよ、結島も出勤?」
「春美!もしかしてそっちも?」
佐倉井春美は結島が勤める病院の違う科の看護師だ。中学生からの付き合いになる。
「人手が足らなくてさ・・・やっぱり茜の方も足らないかー」
「まぁ時間も短いし、やればその分ちゃんと給料は出るからいいかなって」
「茜はポジティブでいいよねー・・・私なんて彼氏とのデート断ってまで来たんだよ?!」
はは、と笑いながら結島は渚坂の事を思い出す。結島も渚坂とのデートを断ったが、その代わり明日行くことになったので楽しみにしていた。
佐倉井と結島の一つ後ろの席。
何者かのスマホのカメラが結島の後ろを捉えていた。外からはスマホを弄っているように見えるが、画面にはしっかりと結島が映っている。
録画終了の音がする。
「?」
「どうしたの?」
結島が音に気づき後ろを向く。しかし、人はおらずバスが止まって人が降りていた。
「いや、なんでもない」
気のせいか、と思いながらバスの揺れに身を任せる。
渚坂は掃除等の家事と買い物が終わり、結島が帰ってくるまでどう過ごそうか考えていた。ふとテーブルに溜まった郵送の手紙やチラシに目が行く。
「あっ!」
一つのハガキを見つける。そのハガキには「車検のお知らせ」と書かれていた。
「そういえば前の点検から一年か・・・」
今日は土曜日であり、行けることは行けるのだが、明日彼女と出かけるのに車を使おうか迷っていた。今日車検に出すともしかしたら一日かかるかもしれない。そんな事は滅多にないが。
「んー・・・仕事でも使うしな・・・早めにやっておいて損は無いか!」
渚坂は支度を終えると車のキーと財布を持って外に出る。
朝に見た見慣れない黒の車はもうどこにも無かった。渚坂は車のキーで鍵を開けようとする。
「あれ?」
車のドアが開かない。買い物から帰ってきた時に閉めたはずであり、そこから一度も開けていないので渚坂が今キーを操作すれば開くはずなのだ。
渚坂は不審に思いながらももう一度キーを操作する。ハザードが二回点滅し、鍵が操作されたことを確認する。するとドアが開く。
「?俺閉め忘れてたっけ?・・・っと、早く行かないと時間が無くなるぞー」
渚坂は気づいていなかった。朝見た車は、渚坂が乗っている青い軽自動車の横に停めてあった事を。
「・・・ん?なんかミラーの位置が・・・」
後ろを見るミラーと左右後方を見るミラーの位置もおかしい。ミラーを直しながら実は椅子が後ろに少し下がっていた事に気づき、元あった場所まで椅子を戻す。渚坂は少し気味の悪い感じがして辺りを見回す。
「・・・気のせいか。っと、早く行かないと時間が無くなるぞー」
その不信感はすぐに取り払われ、渚坂は車を発進させる。
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六月三日。午前十時。
渚坂はこの軽自動車を買ったディーラーに来ていた。車を駐車場に停め、鍵をお店の人に預ける。
「どうも渚坂さん。今日は定期点検でしたよね?」
「あ、はい。よろしくお願いします・・・ちなみに点検って一日かかりますかね?」
「んー、先にやっている車の状況とか見ないとなんとも・・・ま、とりあえずお座りになってください」
男の店員が「斎藤さん!」と呼んで手招きをすると受付にいた若い女性が来る。
「悪いけど今人がいなくて、俺もちょっと書類持ってこなきゃだからお客様のお車を移動しておいてくれる?あと飲み物もお持ちして」
鍵を渡すとお待ちください、と言って書類を取りに行った。
斎藤と呼ばれた受付の女性はにこやかな笑みを浮かべて渚坂に接してくる。
「お飲み物は何にしますか?」
「あ、じゃあアイスコーヒーで。・・・大変ですね」
「ふふ、そう思われますか?でも私自身楽しんでやってるので。他のディーラーとの違いも感じられますし」
「他のディーラー?」
「あ、私アルバイトなんです。ほら名札が少し安っぽいでしょ?」
そう言って左胸についている名札を指差す。よく分からないが確かに安っぽさ感はある。人と接するのが大事なこの仕事の人間にアルバイトだからって違うものを身につけさせていいのか、なんて考えるが本人が良いと言うので何も言わない。
「ここのディーラーには土曜日だけ、日曜日は別の、火曜と水曜日も別のディーラーでアルバイトしてるんです。大学生で一人暮らししてるので生活費とか少しでも稼がないとなんで」
「そうなんだ・・・じゃあやっぱり大変じゃない?」
「さっきも言いましたけど私自身が楽しんでるので。それに働くのも嫌いじゃないし単位もちゃんと取ってるので大丈夫ですよ」
それじゃお車移動しますね、とにこやかに言ってから去る。受付だけあって普通に美人だった。もちろん結島への気持ちは嘘ではないし、結島以上の彼女はいないと思っている。そう決して。
「ていうかディーラーの受付ってアルバイトもいるんだな・・・派遣が多いのかと思ってたけど。斎藤さんっていったっけ?大学生なのに大変だなー」
世の中には自分よりも頑張っている人は沢山いて自分よりも辛い思いをしながらも生きている人がいる。そう考えたら多少取引先の人に無理難題言われたくらいでイライラして車を少しだけだがあおってしまった自分が小さく感じた。
結局、時間はかかるが今日中に点検ができるとのことだったので、見積もりと車検の内容を確認し、書類に住所と名前を記入した。代車を貸してもらい午後になって車検終了の知らせを受けてディーラーから車を返してもらった。
斎藤と呼ばれた受付の女性がシートやアクセルとブレーキのスペースにかけられたシートを取り外してくれた。最後までにこやかな笑みを絶やさずに接客してくれてとても気持ちよかった。帰り際に「接客が良かった。ありがとう」と一言伝える。斎藤はありがとうございます、とお礼をする。心の中で頑張れ、と伝えながらディーラーを後にした。
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六月三日。午後五時。
「お疲れ様ですー」
「お疲れ様。今日は本当にありがとうね。助かったよ。急に呼び出しちゃったけど大丈夫だった?」
結島は帰りの支度を終えると職場の同僚と看護主任の女性に挨拶をする。
「大丈夫ですよ。この仕事楽しいし、彼も理解してくれてるので」
「いいわねぇ、理解のあるいい人で・・・うちの主人なんか帰ってくるなりメシ、風呂ばっかり・・・こっちも疲れてるんだっつの!」
看護主任の不満をみんなで笑いながら結島も笑う。最初は大変だったし一時は辞めたい、なんて思う時もあったが、看護主任や同僚がとてもいい人達ばかりで沢山励ましてくれた。渚坂も応援してくれた。渚坂が看護師の仕事に対して理解があるのは渚坂自身が元々この病院の患者として入院していたというのもある。そこから付き合いに発展した。
「それじゃお先に失礼します」
彼氏さんによろしくねー、と看護主任の声が聞こえ、苦笑いしながら病院を出る。バスに乗り、浦和駅に向かう。浦和駅からJR高崎線で上尾駅に向かう。上尾駅からマンションの近くまでタクシーを使う。マンションの近くに着くとタクシーを降りて、部屋に明かりが点いてるのを見る。誰かが家に居てくれると思うとやはり一人暮らしとは違うものがある。ほっとする。渚坂の顔を思い出しながらマンションに向かう。
「?!」
誰かいる。後ろに誰かいる。そんな気がして後ろを見るが人気のない道路には誰もいない。路駐してる車が数台あるだけだった。
「早く帰ろ・・・」
駆け足でマンションに向かう。部屋の前に来ると鍵を開けて中に入る。渚坂が出迎える。
「お、おかえり。お疲れ様ー」
「うん、ありがとう・・・」
「ん?どうかした?・・・そっか、休日に仕事行ったんだから疲れるのも当然か」
そう言ってくれる渚坂に心の中で感謝を述べながらドアについてる郵便受けを確認する。小さな茶封筒が一つ入っていた。
「あれ?郵便きてたんだ。全然気づかなかった」
「差出人が書いてないね・・・・・・」
「うわ、こわ・・・もしかしてストーカー?」
「もう!怖いこと言わないでよ!」
ごめんごめん、と笑いながら謝る渚坂は結島の荷物を持ってリビングに向かう。
「ほら!今日は俺特製のカレーだよ!」
「レトルトじゃん!ゴミ箱にパックが捨ててあるのバレバレだよ!」
そんなやり取りをしてる内に不安は消え、茶封筒も玄関先の靴箱の上に置いたまま忘れていた。
結局そのままお風呂に入り、夕飯を食べる。
「疲れてるようなら明日出かけるのはやめようか?」
「ん、気にしないで。疲れてないし、何より明日はとっても楽しみにしてたんだから!」
明日は二人でショッピングモールに行く予定だった。仕事で疲れても渚坂と出掛けられるのが楽しみだったから今日も頑張れた。
「はは、なら明日の予定とかもちゃんと考えないとな!」
夕飯を食べ終え、予定を考えながら眠りにつく。
茶封筒の事はすっかり忘れていた。
今日渚坂が車検に訪れたディーラーは闇に包まれていた。
物音一つしないその場所に足音が響く。店員の入口のドアの鍵が開けられる。足音は事務所をライトで照らす。監視カメラを見つけるともう一つ持ってきたライトで照らす。展示場、そして受付カウンター。そこの引き出しに「代車・鍵」と書かれた箱を見つける。その箱を開けると黒い手袋をした手は鍵を一つ取り、店内から出る。
そして駐車場に置いてあった鍵とそれに該当する白のSUVを見つけると、エンジンをかける。そして出口のチェーンを外すと、そのまま走り去った。
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六月四日。午前七時。
渚坂と結島はもう起きていた。ショッピングモールまでは一時間くらいだが、今日は日曜日という事もあり混むことも考えて早めに支度をしよう、という事になった。
「今日は暑くなるかな?」
「んー、まだ六月だし。でも寒い訳でもないから、薄い長袖とかにしとけば?」
支度を終えた渚坂はまだ着替えすらしていない結島を待っていた。
「なーんか適当・・・私がダサダサな格好で隣歩いててもいいの?」
「そんなにオシャレしなくても・・・」
結局十分程悩んで、黒のスキニーパンツにオーバーサイズの白のTシャツというラフな格好に落ち着いた。
「よっしゃ行くぞ!」
結島は気合を入れて外に出る。渚坂は時計を見る。
「八時・・・一時間前早く支度始めさせて良かった・・・」
計算通りに行き、上手くいった事を喜んで良いのか分からないまま出かける。
「いやー、天気良くて助かったよー」
「ほんと、これで雨だったらやだよね」
車内で談笑しながらショッピングモールに向かう。
「ねぇ、悠くん」
「ん?なに?」
あだ名で呼ばれ少し照れながら返す。
「私達も付き合ってそれなりになるけどさ。そろそろいいんじゃない?その・・・・・・」
モジモジしながら結島が言ってくる。結島の言いたい事は理解していた。渚坂も本心はそろそろ切り出してもいい頃なのでは?と思っていた。しかし出来ないでいた。
渚坂は恐れていた。もし結島が望んでいる「結婚」をすることになったら、きっと全てを話さなければならない。もちろん隠したままでも結婚出来るが、嘘をついたまま結婚はしたくなかった。しかし秘密を知ったら結島はどんな顔をするのか。きっと嫌われる。軽蔑される。
渚坂が隠している秘密とは、そんなひとには決して言えないようなことだった。
渚坂の心の中では「結婚」よりも秘密を知られる恐ろしさが勝ってしまっていた。
「わかってる・・・・・・もう少しだけ待っててくれないか?」
「・・・・・・」
「ごめん・・・ちゃんと考えてる。ちゃんと。でも、もう少しだけ・・・その時になったら俺、ちゃんとするからさ」
「・・・わかった。待ってる。悠くんがちゃんと私と向き合って、言ってくれる時を」
そう言って笑ってくれる結島を見て、結島の気持ちにしっかり応える為にも早く覚悟を決めなければと思う。
新たな決意を固めてショッピングモールに向かう。
午後五時。
渚坂と結島は大量の買い物袋を提げて駐車場に向かっていた。
「ちょっと買いすぎじゃないか?!」
「しょうがないじゃん!まさかここの店舗限定で入荷してます!って言われたらもう買うしかないじゃん!」
「それが多すぎるんだよォ!!」
ギャーギャー言いながら何とか自分達の車のところにつき、荷物を詰めていく。パンパンになった車内を見て、そろそろ軽自動車じゃダメか、と思う。
「よーし、それじゃちょっと早いけど夕飯でも食べて帰るかー」
「さんせーい!」
結島が明るく返して、渚坂も明るい気持ちになって鍵を開ける。しかしドアが開かなかった。あれ?と思ったがふと思い出す。朝の時と同じだ。もう一度キーを操作すると今度はちゃんと開いた。
渚坂は不思議に思いながらも運転席に乗り込む。すると、運転席に何かがあった。
「何だこれ?」
「どうしたの?」
「これ、運転席に置いてあった・・・」
そこにあったのは一台のスマホだった。カバーも何も無く、新品のようだった。
「落し物?」
「いや、だって車の中だぞ?着いてから一度も戻ってきてないし、それにちゃんと鍵も閉めたし・・・何より車の中に落とすってないだろ」
「じゃあ・・・・・・なに?」
不気味に思いながら車に乗り込む。そして電源ボタンを押すとすぐに画面が映った。ロックはされてないようだった。アプリの画面に移るが、その画面にはアプリが一つしかなく、それ以外は全て削除されていた。
残っていたのは、「写真」のアプリのみ。
「ね、ねぇ、やめようよ・・・人のだったらどうするの?」
「だとしても締め切った車の中にあったんだ・・・窓も割られてない以上意図的に俺達の車に入れたんだろ・・・」
恐怖はあった。しかし人間の性なのか渚坂本人の性格なのか、好奇心が勝っていた。写真のアプリを開くと中には一つだけビデオがあった。
ビデオを開き、再生する。
「えっ・・・」
渚坂は言葉を失う。隣で見たいた結島も不審な顔をする。
そこに映っていたのは青い空、車が沢山走る道路。そして青い軽自動車。見覚えのあるナンバー。
朝、渚坂が車でショッピングモールに向かっているのを後ろから撮影されていた。そして音声も聞こえてきた。
『私たちも付き合ってそれなりになるけどさ。そろそろいいんじゃない?その・・・』
『わかってる・・・もう少しだけ待っててくれないか?』
『・・・わかった。待ってる。悠くんがちゃんと私と向き合って、言ってくれる時を』
その後も動画には渚坂達が乗っている車が映し出され、車内の会話が全て録音されていた。
「!」
「結くん!」
渚坂は車内を見回す。ダッシュケース、ドライブレコーダー、ミラー。そして運転席の裏を見て何かを見つける。手を突っ込んで引き抜く。
小さな黒い四角の物体があった。先にはアンテナのような物が着いており、ライトが赤色に点滅してる。
「これって・・・・・・」
「盗聴器・・・・・・」
誰かが見ていた。ずっと、朝から。しかしどうやって車内に?鍵はしっかり閉めた筈なのに・・・・・・
渚坂は辺りを見回す。沢山の車がある。その全てに誰かがいてこちらを見ているような気がした。
渚坂は盗難器をタオルで包み、買い物袋の中に突っ込み、買ってきた商品の奥の方に押し込む。
「早く行こう!」
「ど、どこに?」
「とりあえず警察しかないだろ!」
渚坂は急いで車を発進させる。周りを気にしながら車を進める。すれ違う車全てが、自分達を見ているような、そんな感覚に襲われた。
とにかく警察に行かなければ。
渚坂と結島はとてつもない不安に襲われていた。楽しかったはずの休日は、見つけてはいけなかったたった一つの動画で全て崩れ去った。
渚坂は後悔した。好奇心なんかに負けて中身なんか見なきゃ良かった、と。
辺りが暗くなる。とにかく何も考えずに警察署に向かった。