泉 鏡花「蓑谷」現代語勝手訳
泉鏡花の「蓑谷」を現代語訳してみました。
本来は原文で読むべきですが、現代語訳を試みましたので、興味のある方は、ご一読いただければ幸いです。
「勝手訳」とありますように、必ずしも原文の逐語訳とはなっておらず、自分の訳しやすいように、あるいはずいぶん勝手な解釈で訳している部分もありますので、その点ご了承ください。
浅学、まるきりの素人の私が、言葉の錬金術師と言われる鏡花の文章をどこまで現代の言葉に置き換えられるか、非常に心許ないのですが、誤りがあれば、皆様のご指摘、ご教示を参考にしながら、訂正しつつ、少しでも正しい訳となるようにしていければと考えています。
(大きな誤訳、誤解釈があれば、ご指摘いただければ幸甚です)
この作品は岩波書店「泉鏡花全集2」を底本としましたが、原物は手元にないため、国立国会図書館デジタルコレクションを参照しました。
見るからに肌がゾッと粟立つほどの涼しげな瀧を前にして、こちらに背を向けているのは、恐らく母が話していたあの謎めいた姫に違いない。
蓑谷の螢には主がいて、みだりに人が獲るのをお許しにはならない。その主というのは美しい女神様なのだと母はいつも話していた。
谷を登れば丘である。そこは元は城があった跡で、その下は一面、広い野原になっており、笹川という小川がそこを横切って流れている。
初めはその野原で、友達と一緒だったのだが、私は一匹の螢を追いかけて、ついついうっかり迷って、ここに来てしまった。
野原にいた時、もう既に人の顔が懐かしく思えるほど黄昏れていたが、ここではなおさら樹立が生い茂っているので、空の色も見えにくく、谷もすっかり暗くなっていた。
地面も、岩も、木も草もすべて冷たい水の匂いがして、肩から胸の辺にかけてじっとりと湿り気を覚えた。身体を動かす毎にかさかさと鳴るのは、何年もの間、積もった朽葉がまだ土に還らないでそこにあるからである。
瀧は樹が茂り重なり合っている上の方から落ちているように見え、その半ばからは岩に掛かって、三段になって流れている。左の方に小さなお堂があり、横縦に蔦かずらが絡んでいて、扉は犇と封じられ、鎖が下ろされている。岩に掛かる瀧の雫は颯とそのお堂の屋根に濯ぎ撒かれ、朽目を洩れて地面の上に滴っていた。
傍らに一尺から二尺までの大きさの地蔵尊があって、右の方を頭に、次々と次第に小さくなるようにして七体が一並びに立っている。
瀧だけではない。水は岩からも、土からも所々湧き出していて、ここかしこに溜まった清水が溢れ、小石の間に枝を描きながら、白い蛇が光り輝くようにして低い方に向かって流れている。その流れの音は何かが囁いているように聞こえるが、それは鬱蒼とした樹立の枝が茂って組み合わさり、流れを深く包み込んでいるので、聞く耳には恰も御仏達がその腹の中で物を言っているように響くのである。
そんな所に、たった一人きりで立っている女人は、髪型も見馴れない結い方で、黄昏の色に際だって、襟足は白く鮮やかで、曙を思わせる蒼い色のとても薄い衣を着ている。踏み揃えた足の辺りは昏い色に蔽われ、淡い煙がたなびいて、帯をしている膨よかな胸まで立ち籠めるが、段々とそれが薄れて、肩の辺りは清かに見える。すらりと立った細身の身体は美しく、並んだ七つの地蔵の最も高いものの頭さえ、ようやくその胸の辺りに達するくらいである。これがあの女神ではないと誰が言えよう。
私が追ってきた一匹の螢はさっきから少時木の蔭に隠れ、夕べの色に紛れていたが、明らかな蒼い光がふっとあの小さいお堂の屋根に現れ、そして、横へ低く流れるように地蔵の頤の辺りを掠めて、麗しい姫の後ろ姿の背中半ばに留まった。
「ああ、姫なる神様、その螢を私に下さい」と言おうとして、その言葉をまだ口にしていないのに、姫君は急にこちらを見向き、小さい私の姿を透かすように見るや、驚いたような様子で、衝と、一足摩りながら後ろに退がったが、その拍子に瀧の飛沫を頭に浴びた。
左右の肩に颯と音がして、水飛沫は玉の簾となってゆらゆらと全身を包むようであった。
「螢、下さいな。螢下さいな」と、私は恐れ気もなく前に進んだ。
螢は姫君の脇を潜り、今、袖裏から這い出して来て、ゆっくりとその前襟を這う時、蒼い光をひたひたと放ち、濡れまとった衣を通して、真白い乳房を透かして見せた。
鼻高く、眉あざやかに、少し面長の雪のように白い顔がこちらをじっと見詰めている。
「ねえ、螢、一つ下さいな。母様はそう言ったけれど。あの、神様が大事にしているんだから取っちゃいけないって、そう言ったけれど、僕、欲しいんだもの。一つくらいいいでしょう」と、甘えるように言いかけながら、姫の身体近くにまで立ち寄ると、姫はなおも物も言わず、私の顔を見詰めた。その時、姫のその目の色が見えるまでに、蛍は驚くほどの冴えた光を放った。私は少し怖じ気づいた。その姿が優しかったからこそ、来てはいけない所に来て、神の聖なるものを犯してしまったのだと感じた。それが罪になるのならどうしようと、今はそのあまりにも気高い姿が恐ろしくて、私は心細くもなり、悲しくもなった。
後へ後へと退りながら、
「ごめんなさい、ごめんなさい、今度からもう来ないから、あれ、家へ帰してくださいよう。もう、もう螢なんか取らないから、ごめんよ、ごめんよ」と謝った。
姫の顔の色がやや解けて、眉がくつろぎ、唇が緩んだ。寒気な肩から垂れている手をゆらゆらと胸の辺りに上げて、
「これかえ」と言いながら、摘まんで掌に乗せれば、蒼い光は掌の裏まで透き通した。見れば、真白い手の指の間が見え透くほど姫の指は細かった。
「あげましょうか」
と呼びかけて、手を差し伸べたその袖の下に、身を近づけた時、姫は私を覗くようにして俯けば、はらはらと後れ毛が乱れ、その拍子に二度ばかり冷ややかな雫が落ちた。そして、胸に抱緊められた時は、冷たさが骨の髄にまで凍み通って、身体が氷になってしまったかと思うくらい自分の手足は思わず震えた。
「坊や、いくつだえ?」
「ななつ」と、呼吸も抑えながら答えたけれど、自分は一体どうなるのだろうと、私は人心地もなかった。
「名前は?」と、続けてまた訊かれた。
私は小さな声で答えた。
「ああ、みねさんかい。それなら、みィちゃんだねぇ」
「うん」
そうして私を抱いた右の手に力を籠め、
「もうこんな所へ来るんじゃありませんよ。母様がご心配だろうに。早くお帰り」と言って、その力をふと弱めたので、私はスッと摺り抜けるようにして身を引いた。
「容れ物はあるかい?」
と、姫はこちらの方に寄り添って来て、私が手に提げていた螢籠の小さい口に掌をあてがって、その螢を入れようと、軽く息をかけて吹き込んだ。が、その息は空へと外れて、螢は梢の中へパッと飛び立ってしまった。
「あれ」と、空を見上げた拍子に、濡れた髪が背中に覆いかぶさり、両肩に乱れ掛かった。
「取っても可いかい? 取っても可いんなら僕が取るよ」
笹の葉を一束結いつけた竹棹を持って、直ぐに瀧におし浸して、空に向かって打掉ると、雫は小雨のようにはらはらと葉末を鳴らして打ち散り、螢は岩陰に隠れてしまった。
螢はやがて地蔵の肩に現れ、枝の辺りをすいと飛んで、また葉裏を伝い、小石の際からぱっと立って、衝と瀧を横切っていく。蒼い光が見え隠れする度、私の前後、また右左にと、姫は一緒になって追いかけてくれた。
私はただ螢を捕りたいあまり、棹を打ち振り、打ち振り、足が地に着かないほど夢中になっていたが、気がつけば、辺りはすっかり月夜となっていた。
ふと、見れば、元の広野だった。蛍狩りをしていた多くの人たちや、自分の連れ五人、七人ほども先刻まで居た川にも居らず、何時の間にか帰ったようで、影一つもなかった。辺りは広々として先も見えず、草が茫々と生い茂り、野末には靄が立ち籠めて、笠岡山は朧気に見えるだけだった。
上の丘と下にある野原には、歳を経てからも何度か行ったが、瀧の音だけを聞くだけで通り過ぎた。私だけではない。蓑谷は恐ろしい魔所であると、その黒々とした一叢の森の中に足を踏み入れた者はいなかったという。
しかし、やさしく、貴く、美しいあの姫の面影は私の瞳に焼き付いていて、今も私の心に懐かしく思い出されるのである。
完
「瀧」は原文では「瀑」。
最初は原文のまま「瀑」にしていましたが、最後になって「瀧」に変えました。
現代語訳には色々考えることもありますが、これについては、いずれ、まとめて書いてみたいと思っています。
詩人の三好達治をして「日本語の魔術師」と言わしめた鏡花の言葉と文体。
私など、どれほど考えても追いつかない言葉の世界。
いつも申し上げていますが、読者の皆様には、是非原文をお読みいただき、その華麗な文体に直に触れていただければと思います。