音楽が空から降ってきます
いつも音楽室からはあの子の音色が漏れてくる。
毎日放課後を迎えるたびに夕陽がささった図書室でその音色を聞いていた。
オレンジ色の書棚に囲まれて、彼女の音色に囲まれて、カビの匂いに囲まれて、雰囲気にのまれながら、足を組み、椅子にもたれかかって、文庫本を右手で抱える。音楽には全く疎いけれども、奏でられているがヴァイオリンであることくらいは知っていた。
壁の向こうの演奏者、今年入学した後輩の姿を想像する。左肩にヴァイオリンを乗せて右掌で弦を握る少女の姿を。ときおり音楽室の外から見かけたあの姿が脳裏をよぎった。
「今日も熱心だな」
ポツリと言葉がこぼれ落ちた。
たとえクラシックに疎くとも、ヴァイオリンの演奏を聞きながら本を読んでいる今の自分は様になってるんじゃないかと錯覚させられる。
まるで時間が止まったかのように音楽と文学の世界に閉じ込められているけれども、不快さはない。理由は至極簡単であの子の奏でる音色を耳に当てながら読書することが気に入っているからだ。おかげでいつも時間の経過を忘れてしまう。
そして気が付けば橙色の空は藍色へと変わろうとしていた。そしていつの間にか音色も消えてなくなっていた。
「帰るか」
文庫本を返して荷物を抱える。
図書室を出てみれば人の気配を感じ、ふと横を見た。
「お疲れさまです。先輩。執筆ははかどりましたか?」
後輩がヴァイオリンケースを抱えて待ち構えていた。
「今日は部活の日じゃないからな。本を読んだだけだ」
「では、読書に私の音楽はあいましたか?」
近づいてきたかと思えば、ほんの少し中腰になって上目遣いに尋ねてきた。
「時間が経つのを忘れたよ」
「それはよかったです」
後輩はニシシと笑みを浮かべると、「とりあえず帰りましょうか?」と誘った。
※ ※ ※
暗くなった夜道。外灯に照らされながら家路に就く。後輩は先を歩いていて、背負われているヴァイオリンケースが左右に揺れるのが目に映った。何も会話をせず、ただただその背中を眺めているだけなのに、いつも不思議と飽きなかった。
ほんの少し暗い公園の前に辿り着くと、彼女は振り返り、顔を見せる。
「先輩は部活以外では執筆しないんですか?」
「ああ。読むの専門だからな」
「ふぅん……。だったらどうして部活の時は書いてるんですか?」
「本を読むだけだったら文芸部に所属してなくてもできるからな。活動するなら書けって先生たちに言われたんだ」
鼻で笑いながら答えると「それは従うしかないですね」とクスクスと笑い返される。
「それで、何か書けそうですか?」
「まだだな。全然アイデアが湧いてこない」
半目で苦々しげに言うと笑い声が少し大きくなった。
「書くの向いてなさそうですね……。これまで代替で提出してきた読書感想文もお察しの内容かもしれませんね」
「うるせえ」
苦渋に満ちた顔を浮かべて呟くと今度はお腹を抱えだした。
「それなら文芸部に入らなくてもよかったじゃないですか。図書館で本を読むだけなら部活に所属しなくてもできるわけですし」
「いや、そうなんだけど……。文芸部の活動だって言えば夏休みでも図書館使わせてもらえるからな」
「ああ。実利ですか」
ニヤニヤとした顔で呟く後輩の言葉に目を逸らしてしまった。
「だったら書けるようにならなきゃダメじゃないですか。形式だけの活動だとそのうち廃部になっちゃいますよ?」
言われて頭をガシガシ掻いた。溜息まで一緒に漏れてしまう。
「そりゃあ分かってるよ」と苦虫を嚙み潰したように答えると彼女は「頑張ってくださいね」と言いながらニシシと笑い返す。
小さく溜息を吐いてからふと思うことがあって疑問を口にする。
「よくアイデアが空から降ってくるなんて聞くけどさ。何かが空から降ってくるって感覚ってどんなものなのかな?」
その疑問を耳に入れると、後輩はほんの少しだけ考えるそぶりを見せてからスマホを取り出した。スマホをいじったかと思えば両手でそれを優しくつかみ、頭上に掲げて目を瞑る。
スマホからは落ち着いたピアノ曲が流れだした。
「きっとこんな感覚なんでしょうね……」
上弦の月の明かりに照らされて、穏やかな表情で呟く彼女の様に思わず茫然とした面持ちで彼女を眺めてしまった。両手でスマホを掲げてたたずむ姿は奇妙に見えるはずなのに。
「音楽が空から降ってきます」
その言葉を耳に入れたとき、なぜだかほんの一瞬だけ心臓が跳ね上がった気がした。
「先輩も試してみてくださいよ。落ち着いた、切ない曲を頭の上から流すのがおすすめですよ?」
言葉遊びのはずなのになぜだかそうとは思わせない魅力が彼女から醸し出されていて、「ああ」と自然と声が漏れて真似してしまう。自分にとって切ないと感じる曲を頭の上から流してみた。
「どうですか?先輩?耳で曲を聴くのとは違う感覚を味わえませんか?頭の中に直接響き渡るといえばいいでしょうか?そんな感覚を味わえませんか?」
後輩は穏やかな顔を崩さずに優しい声色で語りかけてくる。彼女の言う感覚をなんとなく共有できた気がして相槌を打った。
「アイデアが舞い降りてくるときも、きっと同じ感覚なんだと思います」
その語り口はとても慈愛に満ちていて、彼女の顔を見るだけでもこちらの心が穏やかになる。頭上に掲げていたスマホを自然とおろしてしまい、ただただ彼女に見惚れていた。
しばらく後輩は動かなかったけれども、彼女のスマホから流れる曲が止まったところでやっと両手をおろし、それからゆっくりと目を開いた。そこには彼女の満面の笑みが浮かんでいて、その表情に似合った明るい声が飛んできた。
「一緒に何かが降ってきませんでしたか?」
「ああ」
俺は自然と言葉がこぼれる。
降って来たよ。
音楽が。
すると後輩は上機嫌になり、背を向けて、ほんの少し赤い横顔だけを俺に見せた。
「それならよかったです。完成したら真っ先に私に読ませてくださいね?先輩の小説。そしたら私の演奏をお見せしますよ?」