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研究室での生活が後輩JDに脅かされている件について

作者: 藤咲日向

季節に合わせた物語を書いてみました。

日本にある某地方大学のとある研究室のバイオセーフティレベル2の実験室で、一人の男がうず高く積まれた寒天培地のコロニーカウントを行っていた。

カウンターを使って、カチカチと黙々と数えている男は、年のころは二十代前半であろう見た目から、学生であることが窺い知れ、またいかにも理系ですというような銀縁メガネをかけ、思いのほかしっかりとアイロンのかかっている白衣を着用していた。

二百枚を超えるであろうシャーレのカウントを終え、データをまとめようと腰を上げたとき、実験室のドアが勢いよく開け放たれた。


「霧島先輩!おはようございます。チョコレートを作りましょう!」


2月中旬、おそらく駅なかにある商業施設のバレンタイン商戦にあてられたのか、入室早々チョコレート話を始めるボブカットの少女は、漫画家か若い女性しかおよそ似合わないであろう赤いベレー帽とグレーのロングコートを脱ぎながら霧島というらしい学生が座っていた丸いチェアに腰を下ろした。


「おい、蓑田(みのだ)!十時に培養終わったらカウントすることになってただろう。なんで、十一時になっても来てないんだ?あと、おはよう」


「あ、そうでした!今からやります」


蓑田茉唯(まい)は、大きな二重の目と高く筋の通った鼻、そして小さくもぷっくりとした口元で、それらのパーツが見事な左右対称に整っており、大抵の人が美人だと感じる容姿をしていた。実際彼女の周囲にいる人間は彼女に対して甘く接しがちになる。


「もう終わった。結果をメモっておいたから、データまとめてゼミ前に一回報告書を見せろ」


教授ですら、甘くなりがちな茉唯だが、霧島学志(たかむね)にはその容姿と培った甘えスキルが通用してなかった。


「えっ、ありがとうございます!あとでまとめてから持っていきますね。ところで先輩、チョコレートですよ!しれっとスルーしないでください!」


「俺は昨日仕込んでおいたPCR増幅の解析をしないといけないから忙しい。どこかの後輩がやらずに放置していた、どこかの後輩の実験データを取っていたせいで解析が進んでいないんだ」


学志は、容赦なく茉唯を非難しているが、その実、茉唯の実験結果を取ってあげているあたり、やはりこの男も甘いのかもしれなかった。


「うっ、それはすみません。でも、先輩、バレンタインはすぐそこですよ!実験結果をまとめるのはいつでもできますけど、バレンタインチョコを作るのは今しかできないんですよ!」


茉唯の言葉は学生としてはあるまじき発言であり、その理論は些か無理があったのか、ただでさえ不機嫌そうな学志の目つきが普段以上に悪くなっていた。


「おい、蓑田、その実験結果をまとめて発表するゼミは14日、つまりバレンタインデーにあるんだが?はぁ、まあ、まずはデータをまとめて見せに来い。ゼミに耐えうる資料ができたらチョコレート作りでもなんでも付き合ってやる」


「え~、まあ、先輩の言うことも一理ありますね。しょうがありませんねぇ、やってあげます」


茉唯がやる気になったのは良い傾向であったが、どこか上から目線なのが少し癪に感じた学志だった。




データをまとめ、報告書をまとめては学志に持っていくこと三度目、茉唯は涙目になっていた。


「目的と考察がつながっていない。リファンピシンとクロラムフェニコールの作用機序の文献は読んだのか?ここで使っているナリジクス酸はグラム陰性菌に感受性がある抗生物質のはずだが、蓑田の扱っているセレウス菌はグラム陽性菌だぞ。使っても意味ないんじゃないのか?」

「セレウス菌とか芽胞についての先行文献読んでるか?この前いくつか渡しただろう?読んでたら、こんなに研究背景と考察の部分が薄いはずがないよな?あと、ゼミなんだから今後の方針もしっかり記載しておかないと、報告を聞いてくれる教授たちも方針のヒントを与えてくれないと思うぞ」

「蓑田も四月からは研究室に後輩が入ってくるんだから、内輪のゼミ報告ぐらいこなせるようにしような」


学志の理系学生特有の理論武装の指摘に、茉唯はたじたじであった。茉唯は一年間、学志の鬼のような指摘を受け続けているため、慣れている。

しかし、この先輩の舌鋒が常軌を逸したものであることは、以前、他大学と合同で開催された農芸化学系のB4の卒論中間報告の場において、同じ学生でありながら、他大学の同級生の発表を指摘攻めにして、発表者の女子学生を泣かせてしまったことから自明であると茉唯は知っていた。

普段のゼミのときの指摘に比べれば穏やかだと、茉唯たちの研究室の面々は思っていたが、泣かせてしまったときには先輩の異常性に茉唯も軽く引いてしまい、普段それ以上の口撃を受けているのだと、しみじみと実感したものだった。


「はい、頑張ります、修正してきますね」


さすがの茉唯の天真爛漫さも鳴りを潜めており、今日はもうチョコレート作りできないだろうなと茉唯もあきらめていた時だった。学志が何やらパソコンを操作しながら話しかけてきた。


「いくつか、報告の参考になりそうな論文を見繕って、蓑田の学内メールに送っておいたから、それを読めば、その実験の報告書はまとまるんじゃないか?」


「先輩、ありがとうございます!え、でもこれ英語じゃないですかぁ」


「わがまま言うな。というか蓑田のテーマの先行研究はほとんど海外文献しかないのはわかってるだろう。まあ、解釈に困ったら付き合ってやるからとりあえずやってみろ」


傍から見れば、学志は厳しい先輩だが、なんだかんだで後輩思いな先輩なのであろう。茉唯もそれは理解している、もっとも彼女の場合、ツンデレだと失礼な捉え方をしているのだが、そこはご愛敬なのだろう。


「頼りにしてますよ、先輩!」


心から尊敬し、信頼していることが窺い知れる茉唯の笑顔に、また茉唯の指導をひたすら行うことになることを予感しながらも、学志もつられて苦笑いのような穏やかな笑みを浮かべるのだった。




「疲れただろう。今日はもう帰るか?それとも今からでもチョコレート作るか?」


学志の助けを借りながら、英語と格闘し、ようやく二本の論文の本旨を理解できたところで、学志はパソコンを閉じながらそう言った。


「作るに決まってるじゃないですか!早速作りましょう!」


茉唯は、そんなの一択だろうと言わんばかりにはりきっている。


「でも、材料がないだろう。もうこの時間だとこの辺のスーパーマーケットは閉まってるしな」


学志は、室内にある時計が9時半を指しているのを見ながらそう呟いた。


「ふふ、私に抜かりはありません!今朝開店直後のスーパーに寄って買ってきてありますよ」


茉唯は、絵にかいたようなどや顔で、冷めた目で見ている学志に対して、自分の手柄を誇示した。


「そうか、なら作れるか。ん?買い物してなければ、もっと早く来れてカウントできたんじゃないか?」


「そうなりますねぇ、細かいことは気にしちゃだめですよ、先輩」


「おい、蓑田!先輩に仕事させておいて開き直るな!それと、細かいことは研究者にとっては必要な要素だからな。まあ、蓑田がそういう態度なのは、今に始まったことではないからな。じゃあ、コモンルームでやるか」


学志は諦めたような苦笑いを浮かべてそう言った。



コモンルームは、この大学の各研究室にそれぞれ備えられている、いわゆる学生のデスクルームであり、学生たちは実験の合間の休憩やお昼ごはんなどをこの場で食べたりして過ごす。

学志達の所属している、食品保蔵制御学研究室のコモンルームには学生たちの持ち寄った私物が所狭しと並べられている。他の研究室の学生に圧倒的生活感と言われるように、実際人間が生活するには十分すぎるほどの設備が整っているのだった。


「とりあえず、基本的なレシピなら大抵のものは作れるように買ってきたつもりですけど、何をつくりましょうか?先輩」


どこから取り出してきたのか、おそらくこのためにわざわざ持ってきたのであろうピンクを基調とした花柄のエプロンを身に纏い、洗った手をペーパータオルで拭きながら茉唯は尋ねた。


「ゼミの後にみんなで食べるならガトーショコラとかいいんじゃないか?」


「む、みんなでですか。そうですね、みんなで囲んで食べるならガトーショコラが最適ですね!」


学志がみんなで食べることを前提に考えていることに対して、茉唯何故か少し不満そうにしながらも、すぐにそんな素振りはなかったかのように元気な声で答えた。


ネットで定番ガトーショコラのレシピを見ながらクッキングをするなかで、湯煎の温度を棒状温度計で神経質に測ったり、卵を卵黄と卵白に分ける際に分液ロートを持ち出してきたりと、料理を学生実験か何かと勘違いしているのか天然ボケをかましてくる学志を茉唯が諫めるような珍しい場面が散見されながらも、生地の下処理は茉唯の努力により無事に完了したのだった。


「あとはオーブンで焼いて、当日まで冷蔵庫で冷やしておくだけか」


彼らの研究室の教授のバースデーケーキづくりでも活躍した8号の特大型に流し込まれた生地を見ながら、学志は少し疲れたような様子で呟いた。


「そうですね。焼いてる間、余った材料でチョコフォンデュぽいことしましょう!」


茉唯は、オーブンの設定が適温になっていることを確認すると、冷蔵庫からバナナやイチゴなどの果物を取り出し、元気に提案した。


「準備がいいな」


「ふふ、買い出しして作る人の特権です!」


学志があきれたように呟くと、茉唯は目を輝かせながらそう答えるのであった。


それから、ガトーショコラが焼きあがるのを待ちつつ、チョコレートをまとった果物に舌鼓を打ちながら、二人だけのささやかなバレンタインプレパーティーの夜はふけていった。




バレンタインデー当日、ゼミにて学志から指摘されていた部分を修正し、茉唯は自信満々で研究段階を報告した。

しかし、あるあるなのだが、指摘が鋭い人種というのは、これでもかと指摘してくるのに、考え付くことを全部指摘しているわけではないため、そのとき指摘されたところを改善しても次の指摘を浴びせてくる。

教授はもちろん、学志もそういう人種であるため、案の定新しい課題、指摘の嵐に茉唯は心を折られた。


「なんであの時に全部教えてくれなかったんですか!」


「あの段階で言っても消化しきれないだろう。あと、自分で考えることも重要だからな」


ゼミ後の茉唯主催、『ガトーショコラでバレンタインを感じようの会』では、茉唯が逆切れし、学志に論破されるという光景が見られたが、研究室メンバーにとっては、ゼミ後の日常であるらしく、誰も気にしないし、なんならニヤニヤしながら眺めているメンバーまでいる。


「お、結構おいしくできてるな、さすが定番レシピ」


「いやいや、私が先輩を上手に操縦しながら、レシピどおりに作ったおかげですよ」


いつの間にやら平常どおりの二人に戻り、茉唯が学志に絡みにいくという、これまた日常が繰り広げられつつ、バレンタインデーは過ぎていくのだった。


読んでいただきありがとうございます。

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[良い点] ふたりのやり取り。 テンポが心地よい。 [気になる点] 良い意味での気になる点ですが、解らなくても物語に差しさわりはないけれど、馴染みのない専門用語が出てくるとドキリとしますね(苦笑) …
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